Sunday, August 29, 2010

<感情と意味>第五章 第十節 自分より年少者に対して感じることから伺えること 

 自分より若い世代の人たちがどういう考えで生活していっているかということへ興味が出てくるのは四十代以降の人々にとってはごく自然なことだろう。そして今現在四十九歳で五十を目前にした私にとってもそれは同じである(この文章を書いた時点で私はそうだった<この文章は去年(2009年)秋口前くらいに書いた。今現在私は来月(9月)末に51歳になる目前でこの文章をチェックして更新している>)。
 そして概して若い人たちがある真摯な大人意識を持つ時、中年以降の人々は彼らが徒党を組んでいて、その狭いセクト的意識にしがみ付いているとそう思ってしまう。これは恐らく自分の年齢へと向けて歩み始めている人たちが、既に歩んできてしまっている自分の年齢に近づいてくるという歩み自体に対して、既に歩みを終えた者が歩み始めた者の意識を、かつての自分という風に理解することに起因しているのだろう。つまり自分にとっては終えてしまったことを今から始めようとしている者に対しては、私たちは何をしてもどうなっていくか分からないのは向こうだけで、こちらからすればある程度予想し得るとそう勝手に思ってしまうからだろう。年配者の意見をよく聞く者は概して出世が早いだろうとかそれくらいのことなら判断し得るが、それとて自分を中心とした勝手な判断でしかない。要するに嫉妬感情も手伝っている。向こうはこれからなのに、こちらは既に歩みきってしまっているからである。従って相手が年少者の場合、自分の言うことをよく聞く若者に好感を持って接するというだけのことなのである。しかし自分が若かった頃の時代背景と今とでは全く事情を異にしている。しかしそこは自分から見たら、勝手に一般化してしまっているというわけである。
 だから逆にその自分勝手をよく納得して最初から一切の自分の側からの主観を差し控えるタイプの年少者に接する年配者とはそれだけである程度用意周到な感情抑制論者であり、端的に若者の心理を掴むのが巧妙であるとは言えるだろう。しかし主観を極端に抑えることが可能なタイプの成員とは、多くは、自分の真意をあざとく悟られたくはないから、相手に対しても真意を表出させないようにもっていくことをモットーとしているということだ。するとそういうタイプの人間に若い頃に目をかけて貰えると、そうではなく自らの主観を前面に常に押し出すようなタイプの年配者に対してあまり素直に自分を表出することを控えるようになる。
 人間は思春期前後に知り合い啓発された年配者のマナーにある部分ではかなり支配されやすい。だから逆にそのことに自覚的であれば、一旦受けた影響を振り払うために意図的に努力する必要がある。勿論思春期以降にはそれくらいの分別はつくから必然的に影響を受ける大人、つまり自分より年配者のメンバーはころころ変わり得る。またある意味ではどんなに青春期に出会った人に大きな影響を受けても時間が経つと冷静に「あの人との出会いは自分を変えなかった」とそう思えることも大いにあり得る。
 そういった時期こそが青春期であると知っている四十代以上の世代にとってハイティーンから二十代にかけての青年たちの振舞いに対して一定の批評眼を抱くのは当然のことである。しかし自分にとって極めてよく靡いてくれる青年に対して贔屓の気持ちを抱くと、ついもっと啓蒙してやろうという下心まで芽生えつい行き過ぎた指導を若い世代の人間に与えようというお節介が出てしまう。しかしそれはあまり行き過ぎると相手は引いていってしまうということを何より自分が若い頃遠のいていった年配者との経験で知っているのである。しかしそれでも尚自分の若い頃と似たタイプの青年にはなかなかそういう巧い距離の取り方を出来ないということも多くあり得ることである。そういう風に覚めた目で相手と距離を取りつつ交流していくことが理想であると理性的には知っているのが中年というものである筈だ。しかしそれは「本来ならば」であるし、その格言自体が一つの規定的価値でしかない。
 しかしつい自分の主観を前面に押し出しあまり体裁的に建前主義的に自分より若い世代に接することが下手な成員が却ってそうであるが故に熱心に若い者を指導しようとする時、それは良心的であると自分では思えるが、逆にそういう主観を前面には決して出さないマナーをごく自然に叩き込んでいるタイプの成員はそれはそれで結果的には悪辣さを相互に認め合うという形で利他的である。また主観を最初に相手が自分よりも若い世代であれ惜しみなく示すタイプはタイプで、結果的には良心というものを素直に相手に示すことを享受するという意味では利他的である。従って利己的であることを示すタイプの後者であれ、最初から人間は利己的なのだから建前的な不干渉主義(相互に利他的に振舞おうという)をルールとして採用している前者であれ、結果的には利他的に位置づけられてしまうということは両者の共通した運命なのである。
 前者を正義は個的な良心を抑制し合うもの(お節介回避型)であるとして利他的であり、後者は正義を信じる以前にまず個的な良心で相手と接することをマナーとしているという意味(真意表出型)で利他的なのである。そしてそのいずれを選択するかということは概して相手次第であり、前者でも後者でも自分にとって交際しやすいタイプというのは若い世代であれ、中年以降の世代であれあるだろう。また今挙げた二分法では収まりきれないどちらとも言えない態度も多くあるということだ。
 要するに我々は正義を信じていても、そんなものなど幻想であると思っていても所詮、利他的であることの範疇を他者存在のどうしようもなさにおいて自覚せざるを得ない存在なのである。それは寧ろ利己的であると自覚したり、そう生活自体を成り立たそうと考えたりする時点で既にそうである。何故ならエゴイスティックでありたいと願い一切の人間関係を遮断しようと決意すること自体に既にあまりかかわりたくはない他者に対して一定の距離を保ち、不干渉を決め込むという配慮がどうしても成立してしまうからなのである。つまり自らエゴイスティックであろうとする決意とは、端的に自分以外の他者全員さえ、自分のようなエゴイズムを理解して貰えればそれが自己エゴイズムを成立させるためには最適な条件である段階で既に、他者全員さえ自分と同じようなエゴイズムを保持して貰えればそれに越したことはないという方途を志向してしまう。つまりもし自分のエゴイズムを成立させようと画策しても、隣人がほっておいてくれなくても友好関係を持とうと誘ってくるのであれば、自己本位で他者のことを一切斟酌しない生活は破壊されてしまう。するとその時「あなたもまた私のように自分勝手に生活して、一切お互い干渉し合うのをよしましょう」と提案した時既に相手にもまた、こちらからは一切声をかけませんから、どうぞご自由になさって下さい、という提案と要請をしていることと等しいことになり、必然的に他者に対しても自己と同一のエゴイズムを提案・要請することを通して結局形を変えた利他主義であることに変わりないこととなってしまうからである。
 つまり青年に特有のエゴイスティックな正義観やら、年配者に対して不純なものを感じ取ってしまう固有のヒロイズムもまた、そういった他者に対するお節介的な利他主義であるなら、このように一定の中年以上の年配者になって、人的交際自体が億劫となって一切の付き合いを遮断していこうと決意することもまた利他主義であり、利他的ではない形でのエゴイズムなどこの世には存在し得ないのである。
 もし仮にある青年が酷く中年以上の人々の生活全般に対して反抗的意図を持ち合わせているとしたら、それこそその反抗する相手に対して何らかの自己内で言説的に設定した理想を当て嵌め、その理想と著しく乖離していることに不満であるからである。するとその段で既に反抗する相手から何らかの自分たちに対する処遇を期待していることとなる。中年は中年でそういった青年の逸る気持ちに対して斟酌しても、あるいは逆にそのような態度そのものは青年期には「ありがちなこと」であるとして、何らアドヴァイスをすることも、相手の青年の真意を尋ねたりすること一切をすることをせず、静観しているのだとしたなら、その段で既に相手のプライヴァシーに下手に干渉すまいという決意の中に利他主義を潜ませていることとなる。
 つまり真摯に対峙するにせよ、一切の相互干渉を控えるにせよ、そこには基本的に意味論的には、あるいは意識の上では利他主義が介在しているのだ。つまりその意味論的範疇において我々は個々の具体的な選択をしているのだ。あるいはその意味論的な対他的な感情自体への自己内の認識自体が既に利他主義以外の観点、価値論的範疇のものではないのである。

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