Wednesday, September 1, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part1

 私たちにとって言葉によって語ること、何かを記すこと、それら全てはそうすることによって決意を固めているということだ。それは感情自体を認識することであると同時に、感情を意味の相貌で理解することでもある。つまり感情と意味とはそうすることで実は一つのことにおける異なった現われであることを我々は知る。利己的であるとか利他的であるとかいう査定自体は極めて状況依拠的であり、それらは往々にしてより利他的でありたいと願う心理が、それ以前の状態を利己的であると認識したり、あまりにも他者に対する気遣いが過ぎるということから、もっと利己的になってもいいという風に判断したりするような意味で、要するにそれらは相対的に二分法を利用することで我々が自己の立ち位置を確認しているのである。それは感情自体もそういう風に捉えられることを意味している。つまり感情それ自体は極めて衝動的ではあるが、その衝動を意味づけるために我々は意味を利用するのである。つまり何かをしようと決意する時確かにその行為自体に対してある論理的筋道をつけて、意志決定を合理化するが、その意志決定を整える意味で言語が意志を明確化するために利用される。そしてその言語を誘引しているのは、そうすること、つまり行為を欲求が促進していることの中でその欲求を意味づけたいというもう一つの欲求である。欲求もまた一つの衝動だし、その欲求という名の衝動を理性的に整えることを通して決意を固める。そしてその固められた決意の下で行為をすることを我々は価値と感じるのだ。
 そもそも感情自体が、情動を意味づけられたものであるが、その感情自体を行為へと直結させるために我々は感情自体への意味づけを行う。そこで感情は意味づけされたものとして意味範疇に収められる。そうすることで感情を価値ある欲求であると我々は認識するのである。
 私たちは何をするにせよ、そこですることに価値があると思えないのであれば、それ以上何事も続行出来ない。そこでしたいという欲求自体に対して、検証する。しかしそのしたいことが出来ることであり、それが害悪ではない限りで躊躇する必要がないが、することが害悪となり得る可能性を少しでも感じ取っているのなら、即刻断念する必要性に迫られる。つまり行為がする価値あるものと捉えるかという意味づけに苦心するわけだ。だから感情自体はその感情の赴くままで進行させるのであれば、何に対しても感情は志向する。嫌いな人間はいなくなればいいとも思うし、死んでも構わないとさえ思う。しかしその感情を「考え」の上で判断すれば、それが誤りであったり、よくないことであると道徳的に考えれば、我々はそれを判断において抑制したり、そう思わないように心がける。そのように心がけること自体が一つの決心となり、その心がけ自体がより履行されることがあれば、我々は自己に対して自信を持つことが出来る。この時自己に対する自信とは端的に人格の陶冶ということに他ならない。だからこそ、つまりそういった陶冶する必要性を価値として認識しているからこそ、我々は感情を意味づけて、その感情を行為へと直決せしめることが可能であるか、あるいはそれは正しいことかと問う。その時感情自体がより客体化されることによって判断は円滑になされよう。
 勿論人間は道徳的なこと、倫理的価値があることだけをすることも出来ないし、適度の個人的快を求め、それが他者一般、社会に対して害悪とならない限りで嗜好であるとしても構わないと判断する。嗜好自体は害悪とならない限りで許される個人の快である。しかしそれ自体はとりたてて人生や生全体に秀でた価値を有するわけではない。しかし気休め、気晴らしといった気分の問題を処理する意味では、快を感情論的には有効なものとして認識することは出来る。
 つまりそういった意味づけにおいて価値が充満していないからこそ、真理的な価値を見出す心の余裕が育まれるとも言えるからだ。

 脳科学では感情はエピソード記憶や意味記憶などから喚起されると考えているようだ。それは正しい一つの捉え方である。感情自体が想起を促しているとも言えるし、そもそも何らかの記憶とは、その記憶された事柄に対する感情に対する記憶でもある故、我々は感情を有してある場面に居合わせたという事実認識からも、感情が我々が存在したということを明確化している、つまり意味化しているということである。存在するものは我々の感情によって、存在するものとして意味づけられることによって物として理解される。カントが物自体と言ったことの背景にはやがてハイデッガーによって存在への配慮と言われることを可能性が予兆している。つまり物自体に対する意識を有すことによって我々は我々自身を存在せしめるのだ。そこには物ではない我々という認識を通じて、生の一回性に対する認識を生じさせている。つまり意味自体が存在することを、我々と物という対比で考えることを促している。何故なら存在するとは、一回性の生の価値認識に他ならないからである。
 我々が何度でも空間を行ったり来たりするように時間を往来出来るのであれば、そもそも我々は価値という認識を持たないだろう。価値とはやがて失われていくからこそ意味を生ずる。失われていくことは我々の生命のことである。それ故価値は一つの固有の感情である。認識であるばかりではないのは当然である。そしてその価値という感情はそれ自体意味づけられており、意味とも持たれあっている。意味が価値という固有の感情から感じられると同時に、全感情は意味づけという脳内思考の習慣が齎してもいて、その二つは先後関係では示し得られない。
 つまり感情を意味づけるからこそ、我々は感情を有している存在者としての自らの命脈を生きることが出来る。いや意味が感情を喚起しているとも言えるのだ。
 意味が感情を喚起しているということは、言い換えれば我々は意味づけなしに生きることを虚しいと感じてもいて、その気分こそが根源的なことである、と認めてもいることを意味する。
 つまり最大の気分とは只単に瞬間的な衝動やその時々での気まぐれでは虚しいという生への意味づけなのだ。
 意味が感情を喚起する様に感情も意味を喚起する。この二つは勿論後付的に認識すればそうなるだけで、本来二極に意味と感情を分離することすら実在的には不毛だし、観念的な理解に於いて我々はたまたまそういう図式を思い描くに過ぎない。
 元々身体を持って存在する我々にとって環境とは多様な意味を持つ。
 自然環境も社会環境も、それぞれの他者も実在的には環境であり、自己身体の存在すら環境である。実在的にそうであることは、観念的には自分の考えとか決意に支配されるという意味では考えや意図、意志、欲求もまた自己にとって環境である。
 時間自体も物理学的な考えでは空間と同じ様に交換可能であるらしいが、それはそういう物理学の抽象世界を理解すること自体を我々が意味として認識しているからであり、その意味を真理であるともし受け取るとしたら、それは端的にそういう意味づけを価値として自己内に受容して認可していることであり、そういった価値基準を保有することの決意を促すものもまた一つの感情であり、意味であろう。その場合感情や意味は客観的理解とか真理的洞察への価値を認めることに吝かではないある種の探究心である。
 探究心は抽象的レヴェルから具体的、日常的レヴェルまでグラデーションがあるが、それらは相互に価値的に交換可能であり、故にこそ我々は日常会話を自分の専門外の人達とも交わせるし、具体的日常的場面で自己専門領域の知は活かされるし、応用適用され得るし、同時に自己専門外のことへの知の好奇心と敬意を持って他者と接することを可能としている。
 勿論知ることの深度という意味では自己専門以外には自ずと限界はあるし、漠然とした大雑把な理解に留めおくことを自然と我々に決意させる様な態度を他者に取ることを、他者からも期待しつつ自己もまた他者に許可される様に望む。
 そこには当然他者存在の自己生にとっての環境的意味合いに於ける偶像的認識がある。
 他者に責任を明示し得る範囲は業務責務的にも、余暇娯楽的にも態度としては等価に示され得る。要するにそういう態度明示によって自己内の把握や理解と、他者に対する把握や理解を「自分なりにしている」ことを極自然に表明し、その限界を限界として相手に認可して貰うことを通して相手にもそこに完璧を求めないという態度を示すことによって、相互に相互を適度に偶像化している。
 他者環境自体は、自己身体という環境の絶対的理解の不能同様ここで、そのものの絶対的踏み越えられなさに対する自覚を相互に認可し合うことで、社会環境へと自己と他者の関係を位置づけている。 
 従って自己は相対的であるが故に、哲学的現象性という概念が「自分にしか感知し得ないし、他者に伝えられないクオリアや意識の在り方」を規定するのだ。
 逆ではない。だからこそ意味が固有の「自分自身であることの切実さ」という感情を喚起している、とも言い得るのだ。
 情動的に自然環境に溶け込みたかったり、自然環境から人工的自然環境に移行して空気を吸ってみたかったり、自己内思念という思考環境に身を委ね他者存在を思念上でのみ受け付ける様な他者との意思疎通性全体を客体化したりしたかったりという、ある種の自分勝手こそが、意味によってその存在を保証されているとも言える。それがあるから意味が派生する様に思えてきても、そうではない。
 意味に対する認識力、意味に対する存在的価値認識、人生全体をそれを通して価値づける行為の連鎖の中でこそ我々はそういった個々の欲求を刹那的気分とか衝動として理解する。
 全ては言語的認識と、言語習得的社会規範的理解の範疇で意味づけられている。
 確かにクオリアも切実だし、意識が随伴現象的なものであれ、絶対的なものであれ、相対的に理解し得るものの範囲に留まるものであれ、それを切実に感じさせる、つまりそういう固有の価値の感情を保有すること自体が、そういう意味づけする脳内思念の環境から我々が自由ではないという事実へと自覚させる。
 他者と妥協したり、ものや道具と共生したり、社会環境に自己を適応させたりする中で、他者をも含めた全ての環境を意味づけ、そうしないで漠然と日々を送ることを空虚と感じたり、物足りなさを感じたりすること、つまりそういう感情を保有すること自体も我々が意味を理解する動物であると我々自身が深く考えても考えなくても知っているということを物語っている。
 意味は確かに理解されるし、理解されると行為も言語的認識も、脳内思念もある切実さで、存在価値を帯びてくることを我々は知っているからこそ、それを他者との間で意思疎通し合うことの意味の中に自己存在を社会的な意味合いに於いても、生自体を生物学的に自然な欲求として認めても尚、いずれにせよ「生きることには価値がある」と思える。
 つまりそういう感情自体を我々は価値と認めることに吝かではない。その感情自体への億劫でなさこそが、生きる気力である。その気力は恐らく他者との意思疎通で理解し合えるとどこかで(どんなに哲学的懐疑主義者であれ)信頼しているからである。
 それを現象学者の様に共通了解と呼ぼうが、デヴィドソンの様にチャリティ原理と呼ぼうが、取り敢えずはその選択自体に重大性はない。
 意味は理解される、と言った。そうすること、つまり理解されることが価値であるという認識自体が一つの感情であることは、それ自体が客観的であるとか主観的であるという問いを超越する。
 それは端的に存在論的であると同時に認識論的である。従って実在論的であるとか観念論的であるという問掛け自体もそれと同様同時的であり、語り尽くすことと、沈黙を守り通すことが相補的である様な意味で解決を求めることは不毛である。それは先ほど感情と意味の分離に於いて述べたことと同じである。

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