Sunday, August 15, 2010

<感情と意味>第五章 第二節 無の創造と有限性(無限地獄の克服)

 まず私たちは何かを知るという能力がある。そしてその知っている内容だけで満足するのであれば、一切私たちはそれ以上知ろうとすることはないだろう。
 しかし私たちはあることを知ると、それ以上にもっと何か別のことを知りたくなる。そしてそのように知りたくなる自分というものを知っている。つまり言い換えれば何かを知ることによって、その知った内容(つまり知るまでは知らなかった内容が今は知ってしまった内容)と引き換えに知った内容以外のもの、つまり知らない内容というものの存在を知ることになる。あるいはそういう風に知らない内容を敢えて作り出す。
 つまり私たちは知ることによって、その内容とその内容以外にも何かまだ知らないことがあるということを知ることが出来る。その知らない内容があるということは、端的に「何かを知る自分」という認識(それを哲学や脳科学などではメタ認知と呼ぶ)なしには成り立ち得ない。
 そしてここからが極めて重要だが、何かを知ることによって、まだ知ってはいない内容があるということを知るとは、端的に知ってしまったことを有とすると、それらは全て無である。つまり人間は知ることによって得る有を有自体として認識することによって無を知る、つまり有を有であると認識することによって無を常に作り続けているとも言えるわけだ。
 ここも重要なのだが、人間のようにもし知るだけでそれ以外に知らない領域(あるいは世界と言ってもよい)があるということを知らなければ無に対する認識自体がないと言ってもよいだろう。事実動物は一切無という認識がないと私は思う。動物にも不在は理解出来るだろうが、それとここで言う無とは違う。
 このことを無知の知とソクラテスは考えたとか、ナーガールジュナは無について有ではないと考えたとかいろいろ専門的には言われるのだが、それらのことを一切ここでは無視していこう。

 私たちは何かがあるとそれ以外に別の何かがあると考えるから、必然的に無限という概念に到達する。しかし意外と無限という概念はただ単に思考の傾向であるに過ぎないかも知れないのだ。
 一切が無限であると考えるから矛盾するのであって、全てが有限であると考えればもっと全てが理解しやすくなることもある。例えば宇宙は無限なのではなく有限である、そしてその有限であることは無限に知ることが出来ないと捉えてみよう。
 つまり無限に有限であることを知ることが出来ないのだ。何故ならその有限自体が私たちにとって限りなく無限に近い有限だからなのだ。私たちは一生が大体どんなに長くても百年少しである。だから時間も一切はそれ以上を知ることが出来ない。にもかかわらず知ることが出来るのは我々が共同体を構築し歴史認識をしているからである。それを除外した時一切の時間の連続性を保証するものなど一つもない。その証拠に今までこの世界に生きた人もいつまで世界が存在するかを誰も確かめることなど出来なかったし、これからもそうだろう。第一死んでしまったのなら、それを確認することが出来ないのだから、死んだ後に世界が、宇宙が滅んでしまっても(そこで一切時間も終わってしまっても)一切それを確認することが出来る人はいない。そこで死んだ後にも世界はある、宇宙があると捉えることによって私たちは昔から何故か安心して死ぬことが出来たのである。そこに私たちが宗教を作ってきたことの理由がある。
 死んだ人が生きている人の世界に返ってきたということはなかった。臨死体験は生きているこちら側のぎりぎりの世界の人だから違う。
 だから私たちは一切有の世界の住人であり、死んだ人は一切そうではない。そして死んだ人を生きていた頃のことを考えて話すのは、その人たちが生きていたことをまだ死んでいない、今生きている人が思い出し、懐かしんでいるだけであり、既にその人は 生きている=有の世界 にはいないのだから、要するに無の世界の住人なのだ。
 今私は無の世界とあたかも無にも世界があるかのように言ったのも、私たちが無自体を作っていることの証拠である。私たちは有(知っていることの領域の全て)が拡張されることに伴って着々と無をも作ってきたのだ。だから無とは有、あるいは世界や宇宙を有であると認識する能力が捏造してきたに過ぎないとも言い得るわけだ。
 動物には言語がないから、無もない。そして知っていることを有であると認識することもないのである。従って無に対して恐怖しながら、生きていること自体を有であるという認識で生に未練を持つということもないだろう。ただ生きていることが死に近づくという意識だけはあると思うが、そこには死んで無になるという未練からではなく、生きていたいということだけを感じることが出来るのだ、と私は思う。

 ここにもし一切の変化なく、つまり同じようにただ反復して無限(永遠)に運動し続ける物体があり、それ以外に一切の物体がないとしたのなら、そういう世界は端的に変化のない世界、つまり時間のない世界と同じであると言ってもよいだろう。
 つまり時間とは端的に変化し続けるということである。実際の機械は最初同じように動くが、次第に機械は老朽化して、いつかは動かなくなる。そこには必ず変化がある。しかもその変化自体が予測し得ない、つまり不確実な要素を必ず含んでいるということだ。不確実であるということは規則的ではないということなのだ。
 例えば私たちの寿命に関しても、事故や事件で死ぬ人とか自然死をする人とか、要するにそこにはばらつきが必ずあり、ヴァラエティーがある(規則的ではない)ということ、そして誰がそうであり誰がそうではないかと言うこと自体も決定されていず、その都度変化し続けるということだけが時間を時間として成立させる。ある時点までは自然死する筈だったが、タバコを吸い過ぎだしたので、癌になって早世してしまったというように、不確実性が混入するからこそ、私たちはそこに意志があると感じるのだ(私は意志という捉え方も一つの安心量であると考える)。
 つまり意志(哲学的に自由意志と言っても構わない)とは、不確実であるからこそ、何かを自分で変えられる、希望を持つことも出来るし、自暴自棄になることも出来る、全ては自分の責任で何とかなる部分もある(全てではない、自分の努力だけではどうにもならないこともある)という風に、全てに対して常に両義的に捉えることによって完全に自由でも完全に不自由でもない、つまりそのどちらでもないということを知ることが出来るのである。
 そのどちらでもないという不確実性において緩やかに決定されている、確実に完全には決定されていないという定義が成立する。これらのことが基本的な考えだ。

 要するに私は私たちが永遠に無を理解すること、その正体を突き止めることが出来ないと考えているのだ。それは無がそれ自体私たちのもっと知りたいという欲望が作り続ける一つの幻想だからである。幻想とは常に変化し続けるので、その正体を突き止めることが出来ない。それは要するに私が動くたびに変化する影の正体を突き止めるようなものである。無はそれ自体何か性質があるかも知れない、とそう考えること自体が既に無の中に有を求めているだけのことなのだ。有以外には一切ないということを、私たちは理解しやすいように無という概念を有に対して設定してきたに過ぎない、と私は考えるのである。

 昨今の世界経済不況(百年に一度の大きさであると言われる)を前に私たちは丁度外出して、悪質のインフルエンザを抱え込みそれこそ数ヶ月以上も入院することを余儀なくされ、しかも完治するのに何年もかかるという事態に追い込まれたと考えてもよい状態なのだろう。しかしだからと言って私たちは一切これから自宅から一歩も出ず、外出することをよそうと、もし誰かが言ったのなら正気ではないと考えるだろう。
 元総務・金融・経済財政大臣竹中氏の考え方を日頃のテレビ等での発言から推察すると、昨今の「市場原理主義が世界を駄目にした」とか「経済優先主義が破綻を来たした」というような言説にはそれと似たような考え方があるということになる。私たち人類が絶滅する日まで恐らく私は市場経済=貨幣経済は続行すると考える。何故ならこの私たち人類の六百万年くらいとも言われる歴史においてもしもっといい人類にとっての世界運営の仕方があったのなら、丁度私たちにとって意思疎通の仕方にとって恐らく言語が一番自然であり、最適な手段だったからこそ定着していったように、そうではない仕方に定着していった筈である。しかし人類は聖書が出来た頃から既に貨幣経済を営んできたのだ。だから竹中氏がある討論番組において「リアリストたれ」と若者に呼びかけていたことを総括すると、私たちはとかく生というもの(=有)を、無=死との対比において捉えようとするが、私たちが無そのものを本質的に理解することが出来ないように、私たちは既にこうであってしまった 世界=有 からしかものを考えられない以上、どんなに世界経済不況であるからと言って、恐らく人類が滅亡する日まで続行するであろう貨幣経済や市場経済を軸にものを考えていくしか方法がないのだ。
 つまり私たちはどんなに死後の世界についてあれこれ思い巡らせてもそのもの自体を生きている間に明確に知ることが出来ない以上 死=無 から生を考えていくことが出来ないから、市場原理主義(それ以外の何かもっと理想的な人類にとっての世界運営の方法があるかのように幻想させる言い方である)といった言説自体が私たちの将来を考える上で有効であるとはとても思えない。つまり私たちは所詮生きている間には無それ自体を理解することなど出来はしないのだから、生きている間はいかに有意義に人生を送るかということを考えるしかないのであって、中島義道氏の謂いではないが、どうせ一回は人間は死ぬのだから死んだ後の世界については死んでみればいずれ分かることなのであり、生きている間はその間のことだけを考えればよいのだ。
 恐らく経済学が死について一切語らないのはそういう理由があるのだ、と私は思う。つまり経済学が哲学や宗教や心理学とは別個に存在し得るということは、心を語る学問でさえ今述べたものの他に思想とか脳科学とかがあるように、決して一つではないということを表しているように、一つの学問では語りきれないからこそ存在するのである。もしそれらの中の一つだけを選んで全てを語ろうとするとどうしても不十分であるからこそ、心について語る学問でさえ幾つものジャンルがあるように、必ずしも「心だけを語っていても私たち人類や人類にとっての世界の全てを理解することが出来ない」からこそ、死自体を語らない経済学のような学問が存在し、私たちにとって必要とされているのだ(やはりもし全てが哲学や宗教で考えるような心の学問でしかないとすればそれはそれでよくないのである)。
 私たちにとって世界もいつかは滅ぶだろうし、宇宙もいつかは消滅するような意味では、全ては有限であると言っていいだろう。しかし私たちはいつまでも時間も空間もその先があるのだ、と考えたくなってしまう。この無限に対する思念そのものを私は勝手に無限地獄(何でも無限であるように思えてしまうこと)と呼んでいる。しかし例えば国家経済自体にも限りがあるように、経済学は現実を軸に展開するから、恐らく有限性について最も実際的に認識している学問であると考えてもよいのだろう。それは裏を返せば最も無限地獄自体をよく認識している、ということかも知れない。カゲロウのように一日で死ぬ生き物は恐らく私たち人類の辿る運命などいつまでたっても思いも拠らないことであり、彼らにとってそういった世界は存在しないのも同然である。同じように人類の消滅した後の世界というようなことも同じだ。あるいは私たち現代に生きる者にとって人類が絶滅する時期における人類の世界運営ということだけを考えても仕方がない。だから取り敢えずは今現在の経済の行く末を考えていくしか道は残されていないことになる。
 尤もそれは経済学者の論理であり、その論理自体に検証をすることも許される。そこで思考の無間地獄があることも了解される。

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