Tuesday, August 10, 2010

<感情と意味>第四章 第六節 文化の閉鎖性と哲学上のグローバリズムはあり得るかの問題

 哲学者は扱う問題がかなり専門的(のように見える)で、扱う領域が浅く広いと言える。宇宙に関する思惟から、言語や習慣、慣習まで扱うが、例えば文化的なことに関しては文化人類学や社会学よりも抽象的な態度にとどまり、全てに対して網の目を張り巡らせるわりには、深度ということにおいてはどの学問よりも浅くとどまる。だから逆に言えばただ唯一哲学命題が深度を持つとすれば、それは文化自体が閉鎖的な性質を持っていて、その閉鎖性自体を肯定的に失われていく世界観を愛おしく扱う文化人類学が見損なっている部分、つまり何かが失われていくことと引き換えに、だからこそ得られる普遍に対して着目し得るという度量であろう。
 ある固有の文化はその文化を共有し得る成員間においてのみ価値があるものである。その知られざる価値に対して着目して、分類し、保存することが文化人類学であるとすれば、その価値自体を肯定的であれ否定的であれ検証することを潔しとする学は哲学をおいて他にはないだろう。その時確かに哲学はグローバルな学であろうとする。このグローバリズムに関して言えば、確かに科学一般もそうである。だから当然文化人類学自体も人文科学という視野から考えるなら、その失われてゆく価値に対する愛おしさを感じ合うということから言えばグローバルである。しかし哲学自体が持つグローバリズムはもっと抽象的なものである。それは文化を文明位相レヴェルや様相レヴェルからではなく人間実存的に捉えるから、その文化の意味連関からよりも、生の意味連関から文化の存在理由を問う。
 文化とはある部分では言語習慣的なこと、社会制度的な慣習性に依拠した伝統的なコードとか民族習慣的なことと密接に連関が組まれ、それが権威となったり、法制度となったりするのだが、実はそのような習慣依拠的なことは、職業的行為における連鎖自体が個に与えるものでもある。
 学者には固有の読書習慣とか、文章解析能力が備わるから、自己の専門分野外のことにおいて何か実力を発揮する時にも日頃の職業的感性は活かされるだろう。つまり自己が自己に対して課す使命感のようなものが、人間的実存の在り方まで規定するということは大いにあり得るのである。
 哲学者ももっと色々な形で応用的な領域に飛び出していくべきではないだろうか?哲学者がそうすれば、他の人文科学分野の学者達も又それに啓発され、態度を変えていく可能性は大いにある。
 

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