Saturday, August 28, 2010

<感情と意味>第五章 第九節 責任回避は羞恥が生むということと、利己主義と利他主義

 責任回避するということもまた一つの責任転嫁の無意識的形態ではあるが、そうすることによって我々は端的に責任を背負い込むことから派生する成果を見せることに対する失敗に伴う羞恥を回避しているということを意味する。責任回避とは責任ある行為をする、と言うより行為を責任において履行することで派生するその行為に責任のない者全般に対して与える影響において、自分の大勢に齎すことにおいてよく作用させること以外の全てのよくない結果に伴う責任を取るということ(例えば辞職するとか辞任するとか)で感じる羞恥を、予め内的な羞恥が察知して予め忌避しているのである。
 そういう責任転嫁が利己的であると言い得るのなら、全ての行為は責任転嫁的であると言ってもよい。しかし利己的であるということは、そうすることで相互に利己的であることを推奨することであるから、効果見越し的な意味で利他的であるとさえ言える。例えば中島義道氏が「私は自分しか愛することが出来ない」と述べることを通して「だから私はあなたの将来を保証することが出来ない」と言明していることは、即ちそう言明することを通して中島氏本人に対して過大な期待をすることを通して幻滅することを自身が未然に防止している、という意味では極めて利他的である。氏のその種の言明がそう言明することを通して相互に利己的であることを感じ合うことを通して親睦を深め合うことが目的であるかどうかはここでは理解することが出来ないが、少なくとも利己的であることの宣言とは、利他的に作用するということだけは確かである。
 つまり徹底した言明的な利己主義とは、あらゆる自己による行為とそれに伴う結果を自己によって責任を持ち、処理することを意味するから、必然的には「あなたも私のように自分の責任で何もかもするなら、何をしても私は一切干渉しない」という言明でもあるのだから、用意周到な利他主義であるとさえ言える。本質的な利己主義とは相手に対して迷惑であったり、不利益を生じさせたりしつつ、自分の側の利益や快楽を追求するようなタイプの行動や態度である。しかし厄介なことにこの種の利己主義は一見利他主義的装いの下に展開されることが多いのである。
 つまりこう言ってもよいだろう。心底利己的な行為とは、全て欺瞞的な利他主義の装いの下で展開される、と。だから責任回避が羞恥を生むとしたら、その内的羞恥とは利他的であるとも言えるし、責任回避ということ自体もまた利他的であると言える。だから逆に最大の利己主義とは利他的であるように振る舞いつつ、責任を明示しながら、責任を一切履行せずに、利己的で相手にだけ責任転嫁することである。しかしこの仕方が巧妙であると責任遂行しているかの如く振る舞い、被害を蒙った立場の者が逆に責任を感じてしまうということになるのだ。それだけ真実の利己主義とは巧妙な悪なのである。
 しかしこの巧妙なる悪、本質的悪でさえ利他的にしか作用し得ないということを次節では展開してみようと思う。

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