Saturday, August 21, 2010

<感情と意味>第五章 第六節 思い出と価値

 私は社交辞令で何らかの形で疎遠になっていった人たちに向けて「あなたたちと共に過ごした日々が懐かしいです」などとメールで書くわりにはあまり全てに対して懐かしいと思わないのだ(この文章を書いたのは一年以上前だが、その時は多少そういう気持ちだったが、実は殆ど疎遠になっていった人にそういった文章を手紙等で書く習慣自体を今では失っている)。
 何故か?
 それは殆どのことを昨日のことのように思い出せるからだ。だからある意味では懐かしいという気持ち自体に対してよく分からないという気持ちの方が強い。だからと言って懐かしくなってみたいという気持ちにもならない。

 懐かしさにはもう一度その時間に戻りたいということがあるのだろうが、私はもう一度戻りたいと思える時間があまりない。もう二度と戻りたくはないという時間の方がどちらかと言うと多いが、そうかと言ってそれらもあまりにも悲惨で二度と思い出したくはないというほどでもない。
 まあ多少はそういうこともあるが、よく覚えていないということの方が少ないせいか、あまり懐かしくもないが、忘れたくもない。忘れたいほど悲惨なこともそうなかったということにもそれは起因する。無理に忘れようとするというのも案外疲れるものだ。

 そもそも懐かしいという気持ちは半分は忘れていて、その忘れたことに何か特別な理由もないのに「よかった気がする」という気持ちがあるのだろうが、そういう風に「気がする」というのは恐らく大したことではなかった筈なのだ。大したことだったらそう忘れる筈がないからだ。いや寧ろ大したことだったら逆に正確には覚えていないのかも知れない。どんどんその時の記憶を思い出す度に変えていくからだ。
 私は意外と大したことではなかったことの方をよく覚えている。いやある意味では全ての瞬間、全てのその時なりに持続していた時間がさして大して時間ではなかったのかも知れない。一体これからもそんな大した瞬間というものは訪れる可能性があるのだろうか?

 確かに私には親しい友人がいるが、その友人と一緒に過ごした時間もそれほど懐かしくはない。何故なら殆ど全ての時間をよく覚えているからである。向こうもそうなのだろうか?

 そうでもないかも知れない。でも私と会えば思い出すこともあるのだろう。
 私は今までさして忙し過ぎるというほどでもなかったのだが、ずっと暇だったわけでもない。どちらかと言うときちんきちんと計画を立てて何事もしてきた気がする。そしてそのわりには大した反響も常になかった。これからも恐らくそう大した瞬間は訪れてはくれないだろう。そしてある日突然死ぬのである。
 大した瞬間なんて後になってから勝手にそう思うだけのことなのだろうと思う。
 どなたかそういう瞬間があるのだと思える方がいらっしゃるのなら教えて欲しい。

 私は今でも単位が足りず、大学を卒業出来ずに留年してしまう夢をよく見る。その時国会中継があって、それを放映しているテレビをつけっ放しにしてベッドでそのままうつらうつら眠ってしまった時であるのなら、出てくる大学の教授が麻生首相になっていたりするのだ(この文章を書いた時点から今の首相は何人目だろうか)。
 そう言えば十八年前に亡くなった私の父もそうだとよく言っていた。何故だろうか?
 いつまでたっても若い頃に抱いたようなどうしようもなく消えない焦りが人間の心という奴を支配しているのだろうか?
 実はさっきもまさに麻生首相が出てきて私が単位がたりないので、あまり好きではない履修科目を、別の例えば文学の科目に変えて取ってもよいものかと私が麻生さんに尋ねると、全く私のことなどお構いなしに自分の話をしてすたすた大学構内を出て、歩いていってしまい駅の改札口を通り抜け、ホームに急いでいったのである。
 目が覚めたら、今日四時くらいに開設したばかりのこのブログのことが気になった目が覚めて、少し前にうとうと眠りこけてしまっていたことを思い出したのだ。そしてその時につけっ放しにしていたテレビでは国会中継をしていたのだ。
 あと二十年くらいして私が七十歳くらいになってもそんな夢を見続けるのだろうか?

 ある思い出がある。それは固定化されていていつまでたっても変わらない。変わるのは自分だけ、ということがある。
 しかしこれは嘘である。
 何故なら自分が日々刻々変わっているのに、思い出だけが変わらない<思い出す自分が変わるのだから思い出が変わらなければ思い出す思い出も変わる筈である>ように思えるというのは、変わっている自分にとっていつもその思い出だけが変わらないように思えるように思い出の方が常に変わっているからである。もし自分の方はどんどん変わっていっているのに、思い出だけが変わらないのだとするなら、思い出として記憶されていること自体に対して我々は日々刻々、その印象を変えている筈だからだ。
 つまり思い出とは常にその意味を変えることによって変わっていく自分に対応させているだけである。つまり自分が変わるということを知っているから私たちは無意識の内に「変わらない価値」として思い出の方を美化しつつ「変わりゆく自分にとって変わらないように思えるように変えている」のである。
 これは私たちが自己同一性というものに価値的に取り付かれているからに他ならない。そんなものはないのだ、と言い切ってしまえば一切の社会的責任を追及する術を我々は失ってしまう。しかし少なくとも外部的状況に対応するために我々は固定化した自己同一性を保持していく必要があって、自己同一性などないということは哲学者たちの想念に任せておけというわけである。
 しかし時として我々は念頭においておいた方がいいことがある。それは個人的であると思えること、つまり誰にも踏み込まれないような領域にこそ実はかなり大部分において他者とか、社会の掟とかが忍び込んでいるということである。
 だから思い出もそうである。我々は記憶されたことの実存を真に問うことを怠りながら実は「変わらない価値としての思い出」に縋り付いて日々刻々他者や社会の掟に自己を縛っているのである。記憶されたことがどんどん過去へと遠のいていくのに変わらない価値があるように思えるのなら、それは端的に「生きているということはそれだけで価値である」という思い込みが我々にあるからかも知れない。
 しかし私は敢えてこう言おう。生きていることは確かに価値かも知れないが、価値があるとかないとか問う余裕があるくらいなら、何かしている、そのしていることの是非を問わない方がずっといいかも知れない。没我とか、忘我とか言う状態を獲得するのではなく、それしか出来ないようになるということが生きていることの価値を問わない理想かも知れない。(Nameless-valueの考えてみたいこと 2009年6月1日更新記事加筆採録)

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