Tuesday, August 3, 2010

<感情と意味>第四章 第五節 報道の建前と社会の建前

 一般的に全ての報道は意味連関的には建前上全ての人に対して開かれているように振舞っている。しかし重要なこととは、どんなに世界情勢的な大事であれ、世紀のスクープであれ、社会問題化しているニュースであれ、それらは全て今日明日という命である人にとってはどうでもいいことである。つまり自分にとって命にかかわる大事を抱えている人にとってそれらの一切は何ら意味を持たないということである。それは端的に報道というものが全般的に一切の死にかかわる哲学を回避して存在しているということである。それは要するにニュースというものの性質が今現在そのニュースを拝聴している人たちが安全であり、命の危険がないということを暗黙に前提しているのである。
 私は下町固有の長屋的人情話が嫌いであるが、実は本質的に全ての報道にはそういう要素がある。つまり端的に報道の建前とはそれを享受する人を差別はしないものの、本質的には全ての人が将来があり、未来があり、明日に希望があるということを前提しているのである。
 しかし実際には明日死ぬかも知れない、今日一日命がもつか知れたものではない人は大勢いて、それらを一切無視しているのである。つまり常に報道を気にすることが出来る心の余裕のある健常な人だけを相手にしているからである。それは社会自体が、経済白書から、あらゆる種類のGDPとかの数値を弾き出したりして生きている人だけを対象としているのであり、その徹底した合理主義は、実際本当は明日か今日死ぬ人にとってこそ世界とはどうあるべきか、ということが極めて重要であるかも知れないのに、そういった一切を無視することによって成立しているのである。
 これを社会による哲学の無視、報道の持つ非哲学的態度と呼ぼう。つまり建前上では全ての人に対して差別しないと触れ込みながらその実、そういった報道を余裕を持って享受することの出来る人だけを対象としている報道機関の欺瞞性を社会は積極的に容認しているのである。
 これは社会が冷酷であるからと言うよりは、例えば自分のことを考えてみればよく分かることなのだが、前節において私は「人間とは通常自分にとって関係のない事態に対しては静観するという態度を、とりわけそれがニュース映像などに関しては決め込む」とそう述べたが、実は別にニュースに限らず、全てのことについてそうなのである。隣に住む夫婦が借金苦に喘いでいるとか、息子が病気で苦しんでいるということを聞いても、私たちには基本的に何もすることが出来ない。第一他人を救うことが出来るということはよほどの財力と権力が必要なのである。また仮にそういう力が自分にあったとしても、救おうと思う当の相手がその申し入れを聞き入れるかどうかはまた別の問題である。
 つまり社会とは最低限に必要なことだけは全ての人々にインフラとして提供しはするものの、各社会成員にとって最大の困難や問題を解決するように配慮することなど出来はしないのである。だからこそそのように立ち入った問題には一切触れず、要するにそれら解決不能であることに関しては最初から取り組もうという態度は一切取らず、自己責任を全ての成員に対して暗に要求するのである。この種の徹底的な責任転嫁とは、公共的責任の在り方とはどうあるべきなのか、ということに対する現実的な限界というものの在り方を示しているように思われる。
 私は以前からこの種のマスメディアやマスコミの報道に関する徹底した健常者的立場、平穏で何事もトラブルのない人こそがまず何を差し置き、第一の視聴者であるという暗黙の前提は一体何故発生するのか不思議に思ってきた。しかしある時はたと気づいたのである。それはそのように取り扱わなければならないくらいにトラブルを抱えている人は大勢いて、そのそれぞれの苦悩や健常、健在でなさに対して一々責任をとっていては身が持たないというマスメディアやマスコミに携わる側の人々にとっての暗黙の約定なのだ、と。
 つまりそれだけ本章の主題であるところの意識やクオリアということをそれだけを取り上げて考えると哲学的に難解なのだ。つまり私たちは意味連関のほんの触り程度の部分を切り取り、それを表立って表明出来るように社会が機能していることを知っている。つまり死もそうだし、健常でなさ、健康でなさ、条理を逸していることなどの一切は個人的なことであり、相互に踏み込んではいけないということを無意識に忌避的に身構えているのである。本当に哲学的に考えれば意味連関とは全ての個における健常でなさ、正常でなさ、死を含む。しかしもしそれらを一々取り上げていたら、社会機能全体が麻痺することを何よりもそれらの問題が軽くは無いと知っている私たちが自主規制しているのだ。これはサブカルチャーなどを除いて、政治的舞台とか番組内などでは表現の自由を巡って自主規制することに慣れている日本人も、宗教的なことに関しては自主規制するけれども政治的には自主規制しないアメリカ人にしても全く変わらないだろう。
 何故意識やクオリアに関する問題が難解であるかというと、それはそれぞれの個によって大幅に感じ方が違うということもあるけれど、もっと本質的にそれが実は全ての外交的態度とか外在的態度表明、社会共同体的な深層心理に深くかかわっていて、それを一旦問題として持ち出すと、それだけで全ての時間が浪費されてしまうくらいに根深いということを私たちが知っているからではないだろうか?つまり真意の問題とは偽装全体にかかわっているということと、それが建前とか儀礼性とか形式とか社会構造とか共同体内の慣例や慣習全体に関わっており、個別の問題に対してその都度対処することだけでは済まなくなるということだからである。
 また真意とは意図的な志向によって形成されるものだが、意識とかクオリアとはそれだけではなくそれプラス反省的意識の問題に関わる。そして反省意識とは端的に個別的な記憶の問題に関わる。よってそれらを一律に定義することがまず出来ない。そこで私たちはそういう立ち入ったことは全て個人の責任において選択すべしということになるのである。だからもしニュースが倫理的にけしからんものであるなら要するに見なければよいのである。報道に接することが出来る余裕がある人だけが選択してニュースや新聞や全ての報道に接すればよいのである。しかしにもかかわらず、我々はどこかでピアプレッシャーによってそれらを話題の一つとして選択しなければいけないような雰囲気に自己を持っていってしまうのだ。このことは 第二章 第四節 自己と無関係のものごとに対する思念の必要性 で示したように、自分と関係のあることだけを知識や情報として脳内に記憶させると、ある臨界点を超えると、不安が倍増してしまい(端的に自分にとって残された時間というような死を連想する)いても立ってもいられなくなるという事態を未然に防止させながら自分とは直接無関係なことを多く知識や情報として吸収することで安堵しているのである。

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