Wednesday, August 18, 2010

<感情と意味>第五章 第四節 不在感と私

 私は今一体自分が何に対して分からないかが分からないという感じを抱くことがある。でも何に対して分からないかが分からなければ誰に相談していいかも分からないから誰にも相談出来ないでいるのだ。こういう経験っていうのは誰にでもあるものなのだろうか?
 しかしそもそも誰かに相談して分かることもあるけれど、そんなことをしてもどうにもならないこともあるという直観をその時に持つ。つまり誰に相談していいか分からないから、まず自分自身に問いかけてみようとそう思うのである。
 しかしその時ふと自分が私という社会的に通用する名前や性格や容貌、特徴を持った私から、今ここにいなくても、他のどこかにいても、自分が他の誰でも一向に差し支えないような、それでいて他の誰でもないような一種独特の感じに自分が行き着いてしまっているような感じもするのだ。

 こういう感じを味わったことのある人ならこの気持ちを分かって貰えるかも知れない。つまりこういう感じは恐らく誰も経験することなのだろうとどこかではっきり分かっているような気もするのである。だから私はそうやってそういう気持ちになっていく時明らかに社会的に容認され、通用する私という自己同一性をするりと滑り落ちて、私自身を離れて何か独特の超越的な感じへと降りていく気がするのである。匿名的な私、私以前の自分自身になっている気がするのである。
 しかしそう感じると、今度は自分が自分自身以外の誰にも相談していないのに、他の皆と同じだという気分になってしまうのもおかしなことだ。つまり最初は一人で全部解決出来るのではないかと思いどこにいてもいいし、他の誰でもいいし、でも他の誰でもないような自分を通じて皆と同じような気分になっていってしまうのだ。
 しかしそれを自分の中で確認すると、いつしか私は自分に固有かも知れないとはじめは思っていたけれど、ひょっとしたら誰でもそういう感じがするということがあるのかも知れないとそう思うと、つい誰かにそのことを告げたくなることもある。
 
 しかしそのことを告げようと思うと、何故か最初にあの独特の超越的な感じ、つまり他のどこにいても構わないし、他の誰になってもいいけれども、他の誰でもないあの独特の感じを伝えようとすると、それは再びどこかにするりと滑り落ちて、それ以外の寧ろどうでもいいようなことしか伝えられず、もどかしい思いを味わってしまう。つまり伝えなくても分かっているような感じというのは敢えて伝えようとするといつもするりと滑り落ちてしまうように感じる。そして伝えられなかったものの方がずっと素晴らしかったのにといつも思うとになる。
 この独特の感じを少しでもここで伝えられればこの文章を書く意味があったということである。そして今私が伝えたような感じを一度でも感じた人は自由にコメントして下さればいいと思う。
 しかしその時恐らく私は、外部から私を私であると認めるような私からまたするりと滑り落ちて他のどこにいてもいいし、他の誰でもいいけれど、他の誰でもないような自分に下りて行っている気がする。(Nameless-valueの考えてみたいこと から)

 先日内藤大助がチャンピオンの座を何とか守ったのだが、結構見ていたら、危なっかしい場面も多かった気がするし、多くの人はそう思ったことだろう。
 ところで何で人はボクシングのようなああいう激烈な格闘技、スポーツを楽しむのだろうか?
 一つにはその凄まじさを前に自分があたかも応援するボクサーにでもなったような気分を味わうためである。しかし自分の周囲で見ている大勢の観客の全員がそういう気分でいるのに、何で自分だけがどきどきするのだろうか?
 これも不思議だ。つまり皆で一緒に観戦しているという状況にどきどきするのだろうか?
 つまり皆で見ているということを知っているということが、見ている自分、という意識を作るのだ。それは一人でテレビを見て観戦していても同じだ。つまり一人でテレビを見ている今の自分のような自分以外の大勢がいるに違いないという想像が「テレビを一人で見ている自分」という意識を作るのだ。
 すると一人でテレビを見ている状況が、自分一人で観戦している気分を盛り上げることになる。そして私はそういう気分でいながら、そういう気分でいる自分以外の大勢がいるだろうとどこかで想像する。
 もしテレビのスイッチをひねっても誰も見ていないということを知っていたとしたら果たして私はあの時内藤の試合を見ていただろうか?いやそんなことはない。私はどんな中継を見ていても、同じようにそれを大勢が見ていることを常に知っている。だからこそその試合を見るのだ。
 すると同じようなことを考えている自分以外の大勢がいるということを知っているということが、自分が一人でテレビのボクシングの中継を見ている自分という意識を作っているということになる。(Nameless-valueの考えてみたいこと から)

 
 上の二つは去年(2009年5月)からスタートさせた私の最も来場者数の多いブログの最初の二つの記事である。ここにはある私の哲学的考えの本質が漲っている。

 私が私であることは一見簡単そうでいてそう簡単でもない。何故なら私は私の全部を知っているわけではないからである。しかしそのことは私が私の全てを全く知らないということでは勿論ない。
 ある意味において私は常に誰よりも私のことを一番よく知っている。しかしそのことがある意味では私が私以外の全ての人からどう見られているかと言うことを一番知らないということをも物語る。
 私にとっての他者から見た私は私の外見からしか判断のしようがない。しかし私にとって私の内容は常に私の心、私の気持ち以外のものではない。
 しかしそれは私にとって私以外の他者に対して私が注ぐ関心というものが、私から見たらその外見でしかないものの内部にも、私のような気持ちがあり、心があるのだという確信に支えられているということをも意味する。
 私はそれを知りたいと願う。だからこそ私は他者と関係を作ろうとする。しかしその全てが自分の思惑通りに進むということはない。それを私は知っているし、私に対してどのような態度で臨む人もそのことに関してはそう思っていることだろう。
 しかしそれは本当であるかどうかは私にとってはやはり確かめようがない。だからこそ私は他者と「確かめようがないよね」と語り合う。つまりそう語り合うことを通して、確かめようのなさを誰しもが共有しているという事実を知りほっとしたいのである。


 しかし待てよ、ここでほっとしていていいのだろうか?
 そういつも自問自答する自分もいる。つまり他者に対する信頼や友愛と共に、距離を保とうとする心理と懐疑をも発動せんと欲する心理が常に綯い交ぜとなっているのだ。
 だが人の心など気持ちなどどうにもならないと知っていながら何故私たちは人の心や気持ちがこうも気になるのだろうか?そんなことどうでもいいではないかとどうして思えないのだろうか?
 実はこれが一番厄介なことなのである。

 どうでもいいことであるのならそんなに悩むことなどない。しかしやはりどうでもいいと割り切ったり、気にし過ぎないようにしようと思ったりしてそう決心するということそのものが、実はやはり他人のこと、他者のことなどどうでもいいことではないのだということを示しているのである。

 しかしそれでいてこういう私の気持ちなど、私の考えや心の状態などこの世の中に存在している人々、殆どの生活者にとってはどうでもいいことなのである。しかしそのどうでもいいことに私は安堵するし、暫く経つとまた気になってくるのである。
 そしてその繰り返しを私はどうすることも出来ないのである。明日も恐らくその繰り返しだろう。


 

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