Sunday, August 1, 2010

<感情と意味>第四章 第四節 差別表現の語彙への忌避を生む負のクオリア 

 言葉自体は一切それを使用する人を差別しない。例えば語彙自体はその語彙を使用する人を差別しない。
 小学校一年生が「H君が私に対する嫉妬に狂って私が思いを寄せるK君をぶちました」などと担任の先生に告げたとしたら、恐らくその先生は恐るべき子供たちだと思うことだろう。そのようにある語彙をある年齢の人が使用すること、あるいはある語彙をある職業の人が使用することに対して、「たかが~のくせに(の分際で)」とか「あろうことか(こともあろうに)卑しくも公務員であるにもかかわらず不謹慎な」とか言って、そういった語彙を使用することそのものに対する差別をするのはあくまで人間の側であって、言葉自体、語彙自体ではない。インテリではないとあるインテリによって思われている人が、高度な哲学的命題の概念を知っていて、それをそのインテリの前で口に出したとしよう。そのインテリが一定のレヴェルの知性と理性を持っているのなら、「自分がその人に対して見縊っていたのだ。そういう風に人間を表向き(見てくれ)で判断することはよくない」とそう思うだろうが、慢心していて、傲慢なタイプの人間なら「たかが~のクセに高度な概念を使いやがって、どうせ知ったかぶりに決まっている」とその語彙を語った者に対する差別をやめることもないかも知れない。その場合その者は真にインテリの名に値しないと言える。
 しかし少なくとも語彙自体は、言葉自体はそれを使用する人を嫌がることはない。動物なら動物が嫌いな人というのを直観的に理解し、その者がたまたま動物好きな人の前で社交辞令的に犬や猫をあやそうとしているとすぐさまその擬装を見抜き、拒絶反応を示すだろうが、語彙、言葉は違う。
 要するに言葉や語彙を差別するのは人間の方なのである。例えばかつてデブと言ってからかうことがあったが、最近ではメタボリック・シンドロームという語彙が定着すると、「あいつは少々メタボ気味だ」とか言って差別用語的扱いを受けたデブを忌避することを通して語彙自体が社会的なイメージとして通用する事態そのものを忌避しようとする。要するにそうすることを通してその表現が持つイメージを想起することを相互に忌避しようという暗黙の約定に従っているのである。
 何故そんなことをするのだろうという疑問は愚問かも知れない。何故ならそれはそういう言葉、例えば「売女」とか「人非人」とかそういう語彙を使用することで、その語彙を特定の個人に対して適用しているという事態を認識されることで齎される自己に対する不利益を、その語彙を使用することを自己に戒めている人は予め忌避しているからである。だからある一定の限度を超えて(この判断が意外と難しいのであるが)不必要に差別語を回避していることを目にすると却って意識してそれを使うまいとしていることを見抜かれ外から見たら不自然であり、却って意識していることが判明してしまうということが想像以上に多くある。つまり必要以上に気を遣い、ある言説やある語彙、表現を使
用することを回避している場合それをされる側はあざとくそれを見抜いてしまうのだ。
 それはその語彙や表現、言説自体に対する差別感情を、それを使用することを忌避している側の人が濃厚に意識しているということだから、それを自分の前では回避される側からすればその語彙や表現、言説を差別的に使用されるのならいざ知らず、そうではなく自然に時たま使用することがあった場合よりも寧ろ自分が内心では差別的に見られているということに気づいてしまうだろう。つまり内心の差別を必死に「理性的にそれはいけないことだ」と考え、その言説一切を封じ込める意図が見え見えなのだから。
 だから人間がある言説や表現自体が持つ伝達的メッセージに対して敏感であることは、それを使用することが「こういう場合には適切である」とか「こういう場合には不適切である」といった判断を意識的に認識させずにはおかない。つまり親しい間柄においてなら尚更その種の気遣いとか心配り、あるいは気配りといったことは、必要以上であると却って差別に繋がるということが言える。
 そしてそれを重々承知であるからこそ、多くの成員がこういう言説やこういう表現は慎みましょうという暗黙の約定がかつては多く存在し、頻繁に使用されていた語彙を差別語として締め出してしまうという異様な事態へと発展しているのである。これはある種の忌避論的なファシズムである。それを誘引しているのが負のクオリア、しかもそれが自分の内心でそう思うよりも、他人に言ってしまったならまずいとそう思うような負のクオリアなのである。
 しかし捕捉的に付け加えておけば、負のクオリアにおいて好例である形容詞でも動詞が変化した形容詞は然程ではない。例えば「嘆かわしい」とか「煩わしい」のような語彙は、原型が動詞なので動詞自体に負のクオリアの実感が吸収されてしまうからだ。しかし例えば「いじましい」とか「おぞましい」とか「せせこましい」とか「ややっこしい」といった少なくとも現代においてその原型である動詞が隠れていてその発祥が分からない形容詞の方がより、負のクオリアが実感され、原型に起因する抽象的観念性が剥奪されている分だけ切実であり、眉間に皺を寄せさせる趣を持つ。ネガティヴな形容に関する語彙には実は微妙な心理的差異が息衝いている。

 さて今まで書いてきたことは言葉自体のその使用者に対する差別しなさ自体が、逆に使用者たちがそれを誰に対して適用して伝達するかということにおいて配慮するという一種の差別の問題であった。しかし人間にはかなり克服の困難な二つの思い込み(哲学的には誤謬と言うことも多い)がある。
 その一つは人間とは相手が同じ人間である場合その外見で判断してしまうということである。
 ある部分では人間の外見とはその者の内心をこれ以上に表現してしまうものはない。だからある相手に対して敵意を抱いている者に対してある相手自身はすぐにそれを見抜くし、嘘をついている時の表情というものは、真実を告げている時の表情以上の説得力を持つことはあり得ない。
 しかしそういう意味での外見ならいざ知らず、もっとその人間の骨格とか人相とかそういうことになると、その者の内心の本質を必ずしも百パーセント示しているとも言えない場合もかなりある。
 しかしにもかかわらず人間は外見の、特に美観に囚われてしまう。そのことを茂木健一郎は「化粧する脳」においてかなり意識的に記述している。そしてその顕著な例としてかつてエレファントマンと呼ばれて映画化されたある人物についての記述において示そうとしている。
 要するに人間とは自分にとって選好性(特に社会生物学(進化心理学)者たちが多く使用する概念である)から逸脱する人相や顔立ちの人に対してなかなか「人を外見で判断してはいけない」と思うことが難しいのである。それは公的な場ではそうしようと決意しても、私的な部分では執念深くその思いを温存させることからも明白である。
 しかしもう一つの思い込みはもっと執念深く、厄介で悪質でさえあるが、克服がずっと難しい。それはある意味づけをしてしまったものを、その意味づけ以前の状態へと戻すことの困難さである。
 そのことをまざまざと見せ付けてくれた出来事こそ菅家利和氏の刑務所からの突然の釈放であった。菅家氏は十八年前の足利市幼女殺害事件の犯人として日本初のDNA鑑定であるという捜査当局の触れ込みがあったために、菅家さんが釈放後のインタビューで述べられていた「決して許すことが出来ない」と言われる(それは当然であるが)刑事たち自身が、相手は巨悪犯であるから心して捕まえ、心して取調べをする必要があると任務に忠実にそう思っていたのだから、「自分や自分の家族に対して謝りに来て欲しい」と菅家氏が主張されたとしても、恐らくそう容易には誰も謝罪に来ることなどないだろう。
 何故ならある菅家さんがご出演されたワイドショーでレギュラーの著名なタレントが「菅家さんをお近くで拝見した時私はこの人はとても人を殺せる人ではないと思いました」と告白していたが、実際それは刑務所から釈放されたからこそそう思うのであり、逆にその時そう思えるということは、氏が釈放されるまでは恐らく他の多くの国民同様凶悪犯であるという思いを拭い去ることが出来なかったということを示してもいる。事実私も例の45歳時の氏が連行される映像を見ては凶悪な犯人らしい風貌であるとそう思い疑いを差し挟むことがなかったのである。つまり人間はある言説、それが例えば「この者が凶悪殺人犯である」という説明を一旦与えられると、その指示を与えられた写真や映像の人に対して普段そういう説明を与えられていない場合にどういう反応(選好性的な意味での)をするかにかかわらず、その説明によって意味づけされたバイアスに従って判断するということである。「そう言われると人相が悪いわね」とそう思い込んでしまうのである。しかもそれが日本初のDNA鑑定であったという科学の進歩に対する妄信と捜査当局の威信だったのだから尚更である。従ってそれを誤っていると主張することはかなり佐藤弁護士たちにとっても困難な道のりであっただろう。ともあれ私はそういうこともないと思うが、もし菅家さんと対話する機会に恵まれたのならそのことを謝罪したいと思うが、そういうことがない限り私は氏に態々謝罪していくことなどないと思うからである。
 この種の司法と科学の過ちはその進歩に対する過信と、権威を守ろうとする意識がなした集団的犯罪であり、全ては責任転嫁の極度の形態を示している。それは人間とは通常自分にとって関係のない事態に対しては静観するという態度を、とりわけそれがニュース映像などに関しては決め込むということである。冤罪とはそれを冤罪であると主張しない全ての権威随順者たちによる集団的犯罪なのである。そしてそれを誘引することとして顕著なこととは、安易な顔つきや人相に対する個人的な選好性という殆ど理性論的には根拠のない判断なのである。しかしこの直観的判断を全く私たちから取り除いたのなら、その時私たちは自己防衛の一切の能力を奪われることにもなるから、万に一つそういう誤りがあったとしてもその能力一切をなくすことが出来ないということが最もそういう誤りを発生させることの前の困難として立ちはだかっている。

 ここで本節において示したことを纏めておこう。

① 言葉、つまり語彙や表現自体はそれを使用する者を差別しないが、それを使用する状況やその使用される言葉が適用される相手に対する配慮において人は言葉を差別する。しかしその差別が必ずしも結果的にその言葉が適用される相手に対する適切な配慮になるとは限らない。
② 人間は外見で相手を判断してはならないということを真理として知っていながら、公的にはその考えを明示することを厭わないのに、私的にはそういう判断を捨て去ることが困難である。何故なら全ての人間には自己防衛本能があり、それは選好性的直観に依存していることも多いからである。
③ 人間はある意味づけされた理解においてその対象を観察するということから逃れることが難しい。つまり一旦意味づけされた理解が誤解であったことを知るという一大転換を経てからでないと、なかなかその理解において得た観察結果を誤りであったと認めることが出来ない。

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