Friday, August 20, 2010

<感情と意味>第五章 第五節 表象と実在

 先日、社会教育学者の国井寛氏と一日共に行動した。大分前から計画を立てていて、当初横須賀術館に行き、展覧会を見てからフェリーに乗る積もりだったのだが、天候がすぐれないので、そういう時のために予め別の計画も立てていて、そちらに急遽変更したのだ。
 まず横浜まで東横線とみなとみらい線に乗り、馬車道で降りて、そこからBankArtStudioNYKにまで行き、原口典之展を見てから、新宿に戻り、角川シネマ新宿でオリヴァー・ストーン監督ジェフ・ブローリン主演の「ブッシュ」を見て、池袋のいつも二人で利用するパスタの店に行き、そこでワインを飲みながら、トーストとポテトで腹を少し満たしてから、本格うどんの店でビールを飲みながら、腹を満たした。BankArt1929でもビールを飲みながらグリーンカレーを食べたし、そこに行くまでにも、馬車道を降りてすぐのファミレスでオードブルとワインで一杯やっていたので、一日どこかリッチな気分とほんのほろ酔い気分で、いつものように哲学談義を繰り返した。横浜ではかなり歩きもした。
 この国井氏と語り合う時には圧倒的にワインがいい。そして少しほろ酔い気分になると、お互いにいい哲学的アイデアが浮かぶ。相手が誰でもよいというものではない。私にとって彼が、そして彼にとって私が最良の哲学談義のパートナーである。
 電車の中で国井氏は私に最近絵本作家の安野光雅氏がテレビの対談番組で、幼い頃によく食べて一番美味しいと記憶しているある果物をスタジオにゲストとして招かれていた時に出されて食べると、「よく似ているけれども、あの時の味とは違う」と語っておられたことを私に語りだした。その番組を私も見ていたので何のことがすぐに私は理解したのだが、国井氏は「あの安野さんの言葉を聞いて考えたんだけれど」と言ったことをきっかきにして二人で暫く表象のことについて話し合った。結局この日の哲学談義は<表象と実在との間の乖離について>が主題となった。

 つまり私の考えと国井氏の考えを綜合するとこうなる。
 私たちは日常的には殆ど哲学的表象というようなことを考えずに生活している。そういう思念に囚われているのは、哲学者以外ではいいところアーティストや文学者たちだけであろう。つまり全ての考えの中で夢想的な思いに浸ったり、ありもしないことをあれこれ想像したり、その時に不在の成員に対してその姿を想起するというような心の余裕などない。それはビジネス自体が一つの社会機能維持的な連鎖であり、ある程度そこで出会う他者たちに対して、全ての存在や出来事を記号的に取り扱わなければエネルギーを消耗してしまうからである。しかしにもかかわらず私たちはそんな生活の中でも何かに対しては極めて印象的で記憶に残り、それをいつまでも忘れない。一方かなり大部分を私たちは忘却していく。
 つまり印象に残ったものを記憶しておき、それが自分の中で価値あるものであると意味づけされ(殆ど無意識の内なのであるが)、どこかで美化されていき、逆にそうではなくあまり印象的ではなく、記憶にとどめておきたいと思えないような些細なことは大部分が忘却されていく。つまりこの記憶内容やエピソードに対する選択性と特化ということが、意味を派生させているのではないか、ということである。
 だからそこには情動も動員されているし、選好性ということも関係してくる。そして意味とはある部分では確かに実在のありきたりであることと印象に残ってしまっていること、つまり意味づけされたことの間の乖離に対して、どうしようもないやるせなさ、つまり完全には一致しないもどかしさを感じ取ってしまうというところから見出されるということだ。

 フッサールは晩年に「経験と判断」という名著を書いているが、判断とはそもそも実在と表象は完全には一致しないということ、つまり常に実在の方がありきたりで、そのありきたりな実在を表象する際に、表象されたものの方がずっと記憶においては印象的であるような傾向も強いというところから、「そうであるべきだ」とか「そうであるより他はない」というような現実と想念の間のずれを補正すべく折り合いをつけていることでもある。
 だから当然実在と表象が完全に一致しているのであれば、判断するなどという行為は全く必要がなくなる。機械はただ記録するだけでそこに記憶されるものとそうではないものという主観などない。しかし我々は違う。全てを等価に記憶することなど絶対に出来ない。しかも我々は不在の表象に対してどこか価値あるものにしたいと転化するような意識も持つ。今目の前にあるものを大事にするという意識と、そうではなく逆に今目の前にないことをあるようにさせたいという意識も共存させる。だからこそ希望や願望を持ち、意図とか目的を持つのだ。それ自体は倫理的な意味合いもある。つまり意味(価値体系としての)の呪縛を生きるということである。
 それはある意味では現在性においても、過去に対する追想という意味でも未練力が動員されているということでもある。印象に残ったものを大事にする一方で忘れてしまったことや見落としてしまったことをも価値あるものにしたいという欲望が我々にはあり、その欠如を穴埋めすべく欲望からの呪縛を正当化しようとするのだ。価値とは欲望の呪縛への正当化なのである。

 私たちにとって殆どの表象は現在的な知覚に費やされている。現実・現在の見えだけが世界であると言ってもよい。だからこそ過去において印象に残っているものは、ポジティヴなことであれネガティヴなことであれ、それらと遭遇したこと自体を価値的に捉えようとするのだ。ある種のかけがえのなさを実感するとはそういうことだ。
 人間はとどのつまり価値的認識の生き物なのである。言い換えれば、我々が選好性と行動の無思慮的な気分と衝動に対する自己正当化する生き物であるとも言える。意味もそのことのためにでっちあげて生活しているとさえ言える。つまり私たちは未来に対して何ら確定的な想定を本質的にはすることが出来ない。出来るように思いたいからあれこれ想定するだけである。そしてそこには不安がある。現在の自分の中に見出される欠如は、その欠如であるが故の空白を穴埋めするべく存在していると我々によって捉えられるし、その穴埋め自体が未来への意志となって好奇心とか希望とかが生まれる。つまり希望や好奇心とは不安の解消となって立ち現われているとも言える。 

 すると実在と表象の間の乖離性は意味を生じさせるが、その意味は不安をも呼び起こす。未来に対して今後記憶することに纏わる不安もそうであるし、過去に対しても今まで覚えていた大切なことを忘れてしまうのではないかという恐怖や、今までも忘れてきているのではないかという不安が私たちを苛む。
 要するに意味と不安は表裏一体のものとして存在しているというわけである。不安とはあったということは覚えているが、そのあったことがどういう風であったとか、どういう内容であったかをはっきりと思い出せない時にも抱くものである。健忘ということは、酔った時に話した内容もそうである(国井氏との哲学談義は例外である)し、気分の向かう先がそのはっきりと覚えていないこと以外のことに囚われている時もそうである。

 それにしてもデカルトは確かに神に対する抵抗と永井均氏の表現されるように神によって操られる私に対して、私が存在することこそが神に対しても優先されると考えることによって主体の神への優位を示したが、よく考えると我々にとって世界に対して抱かれる知覚も想念も全てそれ自体に私という意識は希薄である。その意味ではヒュームの言うことの方により説得力がある。つまりそのヒューム的な私ということの希薄さそのものがカントをして感性によって世界が作られるという発想を呼び起こしたのだろう。
 つまり私たちにとって意識やクオリア自体が、他のものを押し退けて全面に立ち現われることなど殆どなく、寧ろ常に私たちにとってそれらは意識やクオリアの内容であり、その都度<たまたま私によって>関心される外部や内部の対象の在り方(様相、記憶に残りやすさや残り難さ)である。私などということは寧ろ事後的、後付的な認識から派生するに過ぎない。
 デカルトのコギトが実際はどういう意味を持っているのかは尚再考する余地があるが、私は私という意識を呼び覚ますこと以前に既に何かに囚われている。それにもかかわらず、私意識を持たないままでいるとこれまた我々は不安になる。だから <たまたま私によって>関心される外部や内部の対象の在り方=世界 というハイデッガー的図式が不安を呼び起こすこともあって、だからこそ私を時々持ち出すと考えた方がよいのではないか、ということが私と国井氏との間で交わされた同意事項である。それこそがサルトルなども言っていた脱自ということ、つまり意味の呪縛からの解放ということなのである。意味の呪縛から解放された意識がしかし新たに意味を派生させることは言うまでもないが。(2009年5月31日記、Nameless-valueの考えてみたいこと 収録)

No comments:

Post a Comment