Thursday, August 12, 2010

<感情と意味>第五章 言語習得と羞恥 第一節 羞恥の称揚と羞恥の克服

 「対話のない社会」や「うるさい日本の私」等の著作において中島義道が最も訴えたいこととは、日本社会が暗黙の了解や阿吽の呼吸というものを重視するあまり、端的に対話すること、とことんまで真意を語り合う機会を社会全体が封殺しているということに対する痛烈なり疑問なのであり、日本人は確かに他人が嫌がることをしない他人が嫌がることは言わないという氏の主張する「優しさ」によって自らの主体的な欲求を押しとどめることから全ての言語行為を出発させる。中島は帰国子女(ウィーン大学哲学科において博士号取得)の立場と、自己内に感じられる正当なるエゴイズムの呼び声によって「こういう意見を正真正銘の本音で語った論客を私は知らない」というスタンスで述べたことにおいて実践的哲学者として評価されるべきである、と私は考える。
 さて日本人とは古来から言われているように恥の文化を生きるのだ、という定説に対して、それ自体殊更否定しようと私は思わないが、実は其れは日本人だけなのかな、という疑問もずっと抱いてきた。例えば日本の恥に対して、欧米人は罪の民族であると言う。しかし罪に恥はないのだろうか?
 それは違うだろう。恐らく私は全ての羞恥は、自らにとって最も大切なもの、例えば家族であるとか、大事にしているものだとか、愛着のある土地だとか、要するに自分にとって大切なものを通して、しかしそれは自分にとってはそうであるが、別の人(端的に他人のことである)にとってはそうではなく、彼らにはまた自分とは全く違う人(家族)、もの、土地が大切であり、愛着があり大事なのだ、という意識を抱いた時、言語習得が飛躍的に推進されると考えている。そして興味深いことには、その羞恥を介在させること、つまり自分の愛しているものに対して愛着を素直に他人には言えないということが日本人にとっては言語習得、そしてとりわけ責任倫理の意識の獲得と期を一にしているということが、では欧米人にも当て嵌まるのだろうかと考えた。そしてその末に自分なりにある結論に達してのである。彼らにも決して羞恥がないわけではない。ただ日本人は必要以上に羞恥を美徳として意識することが多かったのに対して、欧米人は羞恥を克服することをモットーとしてきた、ということである。例えばアメリカ人は積極的に他人に自分は家族を愛しているとか、妻を愛していると憚りなく語る。私は古い日本人的なモラルからすれば多少図々しいという印象をかつては抱いていたが、そうではないということに気がついた。彼らはそう憚りなく公言することを通して極度の羞恥を克服しようと躍起になっているのだ、ということを。
 つまりその羞恥自体を日本人は美徳とすることが可能だったのだ。それはある程度社会全体が異民族から蹂躙する危険性が比較的少なかったということも起因しているのだろう。しかし欧米人は歴史的に見てもそうではなかった。
 しかしそういう歴史学的、文化人類学的な事実よりも重要なことがある。それは言語習得という本能的行為は全ての民族において共通している体験であるということだ。そして言語習得とは、それを通して他者と語るということを習得することであるから、必然的に他者の立場を自己に置き換えて考えるということが基本としてある。それは中島が批判している相手の立場を考え過ぎるということではない。もっと単純なこととしてである。つまり言語行為上で意味を伝達するということが、即ち自分にとって切実な意味が他者にとっても切実であると想定し得ることこそが、ある言語陳述を可能とするのである。それが一切ないものであれば、我々はそもそも一切他者に何かを語るという意志を抱くことなどないだろう。そこには言語行為自体を成立させる根拠に基本的に他者に対する信頼があるということを意味している。
 そしてそれはそれ自体を美徳とするにせよ、克服するにせよある羞恥を抱くことがあるのは、概して自分にとって切実なものが他者の目に晒された時であることを考えれば直ちに納得し得る。
 つまり自分の裸を他人に見られるということはアダムの罪と呼ばれる聖書の時代から変わらない真実であるし、あまり親しくない人に自分の素性を簡単に語りたくはないということもそうである。
 つまり他者を慮るということ自体が言語行為においてウィトゲンシュタインが言った私的言語を克服することであるとすれば、意味が自分にとっての意味であるばかりか、その意味を告げる相手にとっても同様の意味であるということの想定が言語行為=意味の伝達行為を成立させるとすれば、自分にとって有意味であることが他者にとっても有意味であるかどうかの査定を言語行為を通して顕現させることがコミュニケーションであることを考えれば次の記述はごく自然な図式であると言えるだろう。

自分にとっての意味(自分にとって意味があると思われること)がそれを告げる相手にとっても意味(がある)かどうかの査定=発語行為

つまりそこに至るまでの道筋にあるものこそ羞恥である。それを言うことには勇気が要る。しかしそれを押しとどめることが日本の文化であると考えられてきたし、事実中島の主張の通りそれは維持されているとしよう。それに対して欧米ではその勇気を賞賛するのである。だから私は日本文化を押し黙ること(他者への羞恥を隠さない)を美徳とし、欧米では少なくとも他者に対して語ること(他者への羞恥を克服すること)を美徳とする文化としてきた、と捉えたのである。
 しかしそういった文化上での差異はあまりこの章で考えることの上では大した意味を持たない。何故なら羞恥はそれを美徳としても、克服すべきものとしても尚、言語行為を成立させるものとしての重要性は一切変わりないからである。
 まず私たちは自分に家族があったり、大切なものがあったり、生活する上で重要なものがあることを直観的に知っている。しかし同様にそのことが隣に住む自分と同じくらいの年齢の友達にとってもそうであるかどうか自体は、推察とか類推によってではなく、尤も自閉症の子どもであるならそういう風に容易にはいかないにしても、少なくとも健常な精神の子どもであるなら、聞くことによって知ることが出来る。あるいはもっと勇気がある子どもなら自分にとってそれらは大切であると語ることによって相手の出方を見るという選択肢もあるだろう。
 つまり何らかの自分にとっての生活上での重要性ということが、意味連関的な一般性において理解される時、必要となってくるものが、言語行為による相手からの発言による自己確認である。全ての生活上での指針となっているものは、自分にとって大切なものは他人にとって大切であるかどうかということに対する査定である。
 勿論自分の両親や兄弟姉妹や、住んでいる家や大切にしているものは自分が言語行為をする相手にとっては他人のものであるという認識は最初からある。それが最初になされていないのならまず言語行為をするということにはならない。自分にとっての重要事項はあくまで自分にとってであり、他人にとってはそうではないという認識が成立した時に初めて、では相手にも自分にとって大切なものが存在し得るのかどうかという疑問が出されてくる。その疑問が相手を必要とする言語行為を成立させるのだ。
 人間界の全てのコミュニケーションは自分にとっての意味が相手にとっても同様に意味であるか否かということに対する確認が基本として備わっているように私は思うのである。それが一致する時もあれば、一致しない時もある。しかし概して一致するであろうと最初から思えるものとそうではないものとの間には何らかの差異が最初から認識されているだろう、と私は考える。
 例えば好きなマンガとか、好きなテレビ番組とか、好きな同級生とか、好きなこととは、恐らく一致するものもあるだろうが、そうではないものもあるという推察が可能であろう。
 しかし雨の日は晴れの日よりは外で遊べないから、憂鬱な感じがするということは、たとえ憂鬱という語彙を知らなくても何となく相手もそうではないかという推察が可能な範囲のものである。
 しかし例えば私の幼少の頃私の両親は私たち子どもにキスをしたが、私は一回もそのことを友達に告げたことがなった。と言うのも私の両親は私には三歳年少の弟がいるが、彼にも私を名前で呼ばせた。年少とか年長であるということを表に出すような教育を一切しなかったのは、西欧流でファーストネームで呼ばせることをすることで完成したのだ。そして西欧流に子どもにキスをする家庭ばかりではないだろう、と私は感じていたから敢えてそういう話題を一切友達には語らなかったのである。
 その意味では私も私の弟も名前で呼び合っているということを友達に告げたことも一度もなかった。
 つまりそういう習慣的なことというのは、端的に自分にとっては慣れていることでも他人にとってもそうであるとは限らないということから必然的にそう容易に他人に、それがたとえ同級生であってもよほど心を打ち明けあえる相手でなければ全て包み隠さず告げることは躊躇されることである。
 つまりその躊躇させるものこそ羞恥である。そしてその羞恥自体を如何様に解釈するかと言うことで、相手を見たり、相手にとってもそうであるかと判断したりすること、つまり自分にとって羞恥の対象であるそう容易には告げられないこととは、一方でそうではなくある程度容易に告げられることもあるということを認識上発生させるだろう。つまりその羞恥を介在させずには置かないこと(勿論自分にとってそう思えることである)と恐らくそうではないだろうと思われることの間の差異こそが言語行為上で何を安心して聞くことが出来るか、何はそう安心して聞くことが出来ないかということの認識を発生させるのだ。
 それは自然と相手に対するこちら側の判断によって会得していくものだ。例えば相手が異性であるか同性であるかもそうだし、相手の年齢もそうである。それらの差異をあまり気にしなくてよいことと、そうではないこと、つまりそれらの意味連関が私たちに言語行為をするモティヴェーションを授けるのだ。つまり質問内容から、こちら側から相手に知らせる内容に至るまでその都度の判断において羞恥の対象から羞恥をあまり介在させる必要のないことまでそこには当然幅があるわけだが、その幅に対する自覚こそが言語行為上で相手との間で確認し得る意味の領域を設定する。
 だからある場合には相手が誰であれ、どんな場合であれはっきり言ったり聞いたりする必要があると思えることから、ある程度相手を見て言ったり聞いたりすることをそれがいいことであるかそうではないかということを判断する必要があることの両方を認識することが言語行為において最初の難関として待ち構えている。勿論本来その間の差異自体も、実はかなり社会習慣的なことを会得していくに従って習得されるものである。それは人間が自分の裸を他人には見られたくはないということと同じようなものとして存在する。だから一定のそれらに対する習得の後に、例えば女性には年齢を聞くものではないということとか、そういう不文律があるのにもかかわらず、ある場合には異性間においてさえ年齢を告げあう必要があるのだということを習得していくのだ。
 
 もっと簡単に言えば、私たちには言いたいことと言いたくないこともある。そしてそれが権利上認められることとそうではないことの両方があるということに対する自覚が、言語行為の動機や意味連関に対する理解となっていると私は考えているのである。自由や権利と義務の両方があるということを私はかなり早い時期に子どもにも理解されていると思う。
 そしてそれ以上に重要であることとは、それら(つまり私にとって言いたい<言っても別段構わないこと>ことと言いたくないことの両方が存在するということ)に対する理解が、では他人にとってもそうなのか、つまり他人にも自分と同様の羞恥や躊躇があるかどうかということに対する認識的な自覚こそが言語行為を成立させていることの大きな柱であると思えるのである。
 だから当然そういうことに対する配慮をするべき時と、敢えてそれをするべきではない時というのが存在し得るだろう。前者はある部分では個人差が最初から類推出来ることであり、後者は最初からそれは誰にとっても同じである筈だという確信が得られるものである。
 例えば好きな食べ物は人によって違うだろうが、熱湯は手にかかれば熱いということは誰にとっても同じだろうという類推は最初から私たちにも備わっているだろう。だから自分が好きな料理を相手も好きであると勝手に解釈してしまうことはよくないから、例えば前者の例としては友達が来る時、その友達に料理を振舞う時には予めその友達の好き嫌いを聞いておくという判断は成立するだろうし、後者の例としては誰かに偶然的に熱湯がかかったとしたら、すぐさま大人を呼んで知らせるとかの緊急性に対する認識が即座に思い浮かぶということはあり得るだろう。
 つまりそういうことに対する判断が、例えば何かを決定する時に相手に聞く必要があるのか、そうではなく自分で全て判断していくべきなのかということの差異をその都度判断し、認識することが可能となるという意味では、道端で倒れた人があれば、大人になってからは一々他人に承諾を得る以前にまず警察とか救急車を呼ぶとかの判断をすることへと繋がっていくだろうし、来週パーティーをする時には出席の是非を相手の都合を配慮して聞くという判断にも繋がっていく。
 
 纏めよう。
 ある程度親しくなければ聞き難いこと、あまり親しくない人には聞かれても答えたくはないこと、あるいは告げる必要がないこととはプライヴェートなことであり、ある程度羞恥にかかわることである。例えば他人と話している時話の流れで自分が会社を辞めたことを告げた時、何故会社を辞めなければいけなくなったかなどの経緯についてたとえ相手が好奇心でそれを聞いてきても返答すべき理由はないし、返答したくなければ返答する必要などない。それに対して相手が親しくても親しくなくても聞かなければいけないことや聞かれたなら返答すべきことというものもある。例えば大怪我をしたので救急車で病院に運ばれ医師が輸血しなければいけなくなったので医師から聞かれたら返答しなければいけない血液型とか名前とか、要するに緊急の措置として相手に対して請求されたのなら返答すべきことなどである。
 この例から言えば前者は自分が聞かれた場合なら権利問題であり、相手に聞くことがよくないと判断した場合なら相手の権利問題であると同時に相手の権利を守る責任問題でもある。
 また後者は相手に対してなら義務である。
 要するに聞かない方がいいこととか聞かなくてもいいことには権利問題が付帯し、告げない方がいいこと(告げたくないこと)とか告げなくてもいいこと(告げる必要がないこと)もそうである。しかし一定程度自分が相手から助けて貰わなくてはならない時、それは今述べた医師から治療を受けている時とか、自分が被疑者となって弁護士からことの経緯を尋ねられた時などは返答しなくてはならない。
 そしてそれら全ては言語習得期において基本的な峻別が一定程度必ず習得され得るものであると私は考える。

No comments:

Post a Comment