Monday, August 23, 2010

<感情と意味>第五章 第七節 復習と言葉について 

 ここでごく簡単にこれまでの概略を復習しておこう。
 意識は覚醒していて睡眠していないことを指示するために儲けられた説明原理である。そして「私」は意識が私自身にも同一性を求めて、と言うより殆どそれ以外には無いように信じて、そう言っているのだ。「今」はその「私」が意識している、と言うより何かに注意が向けられていること自体を時間論的に把握した時に立ち上がるに過ぎない。それらは共に同一性と自‐他の相関を理解し証明するために自然と立ち上がる説明原理なのである。
 例えば私は敢えて「私」を持ち出さなくても常に私であり、私は常に何かしている時は「今」を持ち出さなくても常に今ここにいることは自明である。にもかかわらず私たちは「今ここ」であることを特化して考えたくなる。
 だが私はその全ての私に関する事実を他者の存在によって相対化せざるを得ない。つまり他者の存在が私を「他者ではない」と意識させる。しかしそう意識させるのも私が他者との間に何らかの約定として何かを説明する能力を備えているからだ。つまり指示も名辞もその説明能力が理解させている。つまりそもそも何かを理解するということ自体が自己内の自分に対する説明能力の内的な行使以外の何物でもない。
 しかしこの説明能力の行使はその多くが二分性(デュアルティ)によって誘引されるが、これがクオリアや意識を切実なものとして立ち上げてもいる。つまり説明原理を立ち上げること(立ち上がることが私にとってであるが、それは私の身体的能力でもあるし認識的能力でもあるから恣意的なものとして明示する)→説明原理の常套化→クオリアや意識の特化→その特化自体の説明原理への還元→新たな説明原理を立ち上げること→その常套化→新たなクオリアや意識の特化→その特化自体の説明原理への還元・・・・・・。(第四章 第三節の図式)その反復である。
 勿論その都度の説明原理も意識もクオリアも差異が備わっている。つまりドゥルーズ的に言えば、差異と反復においてこれらは条件づけられている。
 しかし問題が一つある。
 それは私が生まれた時から日本に住んでいて、日本語を話すようになって今日に至っている。しかし哲学的には私は何も日本語の世界の住人のことだけを考えているわけではない。例えば過去について想起するとか、追想するとか、未来に対して思いを馳せるということはアメリカ人でも、イスラエル人でも、韓国人でも、ザンビア人でも同じである。 しかし哲学的にいくら私が話し、考え、全てを思いつくのは日本語であるが、それは「たまたま」そうなのであると納得してもやはり、私の中には最初の思い浮かぶ言葉の世界が絶対的であり、それを相対化して語る自分というものはそこはかとなく空しいという思いを持ってしまう。
 このことはどう考えたらよいのだろうか?やはりそれすらも英語でものを考える人は英語以外の言語を原書で読んだとしてもそれはあくまで概念的に理解しているだけで、あくまで最初に思い浮かぶ英語世界こそが絶対である、と、私は日本人であるがそれ自体を相対化して、英語圏の人にも同じ事情があるとそう考えるにとどめることでよいのか?
 例えばスーザン・ブラックモアの対談集(「意識について」)においてデヴィッド・チャーマーズはデカルトの「コギト・エルゴ・スム」を援用して語り、ブラックモアからの質問「デカルトに賛同するか」においてイエスと述べている。つまりチャーマーズは意識こそが主体の感受性を支えていると考えている。
 しかしよく考えると意識を意識として意識の俎上に載せることが可能なのは、言語的思惟であり理性である。科学者としての立場から茂木健一郎氏は重松清氏との対談において(「涙の理由」)日本には伝統的に人間関係の中に生まれてくる価値しかないと残念がっている。つまり形而上学にまで発展しないのだ、と。氏の言葉を借りると「人間の相対評価を超えた絶対的世界にさえ人間の似姿を見てしまうということ」である。しかしそれを考慮しても尚、私たちは理性が自然の中にも擬人化しているに過ぎないということも言えることになる。
 カントが「理性の思い上がり」とか「理性の越権行為」とか「理性の僭越」と呼んだものとは、端的に理性が人間による最高の地位を獲得していてさえ、天上界からすればそれは取るに足らないものであるという視座を設けることによって得たヴィジョンである。つまりそれを神と呼ぼうと永遠と呼ぼうとそれは自由であるが、そういう風なマクロな世界から見れば人間理性は常に誤りやすいということを述べていると考えられる。すると理性自体が意識を生み出すとすれば、デカルトの我は理性が生んだものであることになり、それはやはり誤謬を齎す可能性を常に孕んでいる。
 私は日本語で神と考え、理性と考える。しかしそれを英米人はgod として、ドイツ人はgot として考えるだろうし、英米人ならreasonとして、ドイツ人ならVernunft として考えるだろう。
 しかしそれを全て同じ命題を表現していると見做す時私たちは明らかにそこに普遍を感じ取っている。しかしその普遍自体がある意味では理性が生んだものなのである。そして理性の生んだものはしばしば感性が感じ取ったものを否定する。しかしそれが正しい時も確かにあることは認めても、それが却って失わせるものもあると考えることも出来ないであろうか?
 理性は我々の欲望の正当化であるところの価値に釘付けにされている。つまり理性とは感性だけでは何か収まりが悪い、感性だけに全てを任せておいては何か心もとないという心理が生み出した一つの解決策なのである。従ってそれは価値的に行為を正当的なものとして意味づけることにおいて有効に作用している。しかしそれは同時に感性自体に対する信頼を著しく欠如させている。つまり感性を信じられない部分があるということは、即ち自己に対する信頼を不安によって欠損させているということなのである。だからこそ感性を称揚する価値あるものとして復権させることを時として我々は試みる。その時日本語で何か理性とか神とか呼ぶ時にだけ感じられるクオリアを感知する。そこに翻訳不可能な何かを見出そうとする。もし感性にだけ頼っていてもいい結果しか生み出さないのであれば、いい結果という概念さえ提出されなかっただろう。つまり感性的にある善とされる行為をしても、それが意志的に正しいという自覚の欠如した状態でなされていたのだとしたら、それは偶然的に作用しただけである。この屈託の完全なる欠如は、ある時には屈託なく悪事をすることへとも繋がるだろうし、事実そういう事例に事欠かなかったからこそ、カントは善意志というものを傾向性としての善的結果を生じさせた行為として認めなかったのだ。すると感性を感性のまま何ら反省意識の相貌で検証することの一度もない状態では、感性の価値は再検討に値するものにもなり得なかっただろう。つまり私たちは一度普遍という合理的責任倫理において翻訳という行為の価値を認めたからこそ、翻訳出来ないものを価値として再発見することが出来たのである。つまり翻訳する理性における発動される知性が合理的で、四捨五入してきたことへの着目が価値的に感性を理性と併存するものとして認識せしめたのである。カントはある意味では最終批判書における「判断力批判」において崇高とか偉大なるものへの憧憬をテーマとしたのは、「純粋理性批判」によって示された理性の思い上がりに対する一つの結実的な明示行為として感性的な出会いの持つセレンディピティーを存在論的に論証して見せたのである。
 チャーマーズにおいて意識とは多角的な知覚作用とか多目的な未来への志向それ自体に対する定義として扱われている。つまり情報処理システム自体を彼は自己とか主体ということと切り離して考えている。つまりそれらはあくまで知覚能力でしかないというわけだ。しかし他方彼はサーモスタット自体を意識のプリミティヴな形態としても考えている。
 つまりこの部分では彼はニコラス・ハンフリーの考えている<内なる目>という言葉で表現される内的自己意識(つまり行為をそれが自己によるもの、自己による選択であり自己による判断と決定であると知ること)の所有を意識の定義としていながらも、その原初的形態としては判断を基本としていることになる。
 すると日本語に固有のクオリアを表現するための創意工夫はまさに理性的判断であり高次の意識レヴェルの所業であるが、意識を意識として定義させるものとは、日本語であることを「感謝」と呼んだり、あることを「嫉妬」と呼んだりするような語彙選択の判断のことを差している。だからその判断自体を普遍化すること、例えば英語ではそれをgratitude と言ったり、jealousy と言ったりするのだと思惟することは、もっと高次の意識の認識的段階に属し、しかしそれを感性的にグローバリティーからナショナリティーへと再度引き戻す意識は更に高次の認識に属するということになるだろう。

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