Monday, July 19, 2010

<感情と意味>第四章 第三節 退屈と辟易(との戦い)

 ストローソンの考えているようなカント像によると、確かに世界は私たちが存在するということに対して一定の認知を保持し得る限りでそのものを世界に含有させてよいということは、逆に世界そのものが私たちが存在するという風に認識し得るものの総体であるということになる。
 だからある出会いに対して「それこそがセレンディピティーだ」と言えるということ自体が、世界の中で、生活者が新奇なもの、それは決して自分にとってそのものと出会う前までは親しいものではなかったのに、一旦それを得てみるとどんなにそれが既に自分にとって不可欠なものであるようなタイプのものに対する出会いを後付的に意味づけていることを意味する。
 しかし一方どんなに素晴らしいものでもそればかりがずっと続くと辟易していくことというのがある。例えば私はコーヒーが好きなのだが、実際一日五、六杯飲んでも大丈夫だが、一日二十杯とかそれ以上飲めるかというと恐らく無理だろう。いい加減うんざりしてくると思う。
 つまりどんなに好きなものでも反復して続ければそれに対して飽きがくるということがある。好きな音楽でも一ヶ月くらい同じ曲ばかり聴き続けたらいい加減他の曲も聴きたくなるだろうし、恋しくなることだろうし、またどんなに好きな本でも数回続けて読めば別の本も読みたくなるものだ。
 またどんなに親しい人でも他人であるなら、一緒に過ごす時間が度重なれば、その人に対する欠点も見えてくるだろうし、第一夫婦や親子や家族でさえ毎日一緒に住んで過ごしている間には、たまには別行動をしたり、プライヴェートな時間や空間を持ったりしたいと相互に願うようになるものである。
 それに対して、ある出会いに対して新鮮であるとか、感動的であるということと逆に、同じような繰り返しの毎日に対して、何かに対して辟易していなくても、退屈であり死にそうであるというような気持ちというものも我々はよく抱くものである。どんなに順調に仕事や人間関係が持続していても、マンネリ化するということもまた避けられない。
 つまり人間とは退屈と辟易との戦いを常に繰り返してきたということが出来る。科学の進歩、社会制度の改革といったことの全てがその事実を裏付けている。
 私は前節において「意識して何かを語るということがある時、私たちはそう意識する自分の日常においてはあまり意識しないで語ることが多いということを知っている」と述べた。しかし実のところ意識して何かを語るという意志はそれはそれで貴重であるものの、本当にそういう積もりでしていてもあまり説得力を持たないことも多く、またそれとは逆にあまり深く考えていない場合でも、何気ない一言がかなり説得力を持つことも大いにあり得るのだ。つまりごく自然に他者に対して意図が伝わる場合もあれば、逆にかなり真剣に意思を伝えようと思っても全く通じないこともある。
 そして不思議なことには一定の固定化された価値に随順していても、その都度の何らかの工夫があれば、意思が伝わりやすいこともあるし、逆にいい方法であるからと言って、採用されたものでも使い古されてしまい、次第に辟易とされることもある。
 一般にここまで私が書いてきたことを綜合すると、次のようになる。

説明原理を立ち上げること(立ち上がることが私にとってであるが、それは私の身体的能力でもあるし認識的能力でもあるから恣意的なものとして明示する)→説明原理の常套化→クオリアや意識の特化→その特化自体の説明原理への還元→新たな説明原理を立ち上げること→その常套化→新たなクオリアや意識の特化→その特化自体の説明原理への環元・・・・・・。

 その反復である。つまりここにはいい意味での辟易から学ぶ私たちによる工夫が新たなクオリアに対する発見を齎すということが言えるように思う。つまり私たちは同じ反復にある程度は新鮮さを感じるも、次第にそればかりでは辟易としてくる。そして以前と全く同じことと出会っても一切そこにセレンディピティーは感じないままでいることになる。
 しかし何らかの変化がそこに付け加われば恐らく何らかのときめきを心に抱くことにも繋がるのだ。
 
 私たちは人間関係において常に相手に対して一定の距離を保たなければ、親子であれ夫婦であれルームシェアパートナーであれ友人であれ(少なくとも一緒に暮らす相手であればあるほど)少なくともある程度以上から死ぬまでだが、永続的関係を望むのであれば必ず関係の呪縛から解放されたいと思うようになる。
 それは仕事上でのルティンの遣り方や手順から、朝ご飯のメニューからいつも飲んでいるコーヒーの銘柄に至るまでそうである。つまりマクロな関係からほんの些細なミクロな関係に至るまでそうなのである。だからちょっとした些細な変化をつけていけば、案外もっとマクロな関係がマンネリ化していても辟易をたやすく超えられるということもあり得る。
 とにかくマクロとミクロ双方に渡って辟易との戦いという奴は私たちの人生、生活に控えている。そして厄介なことには辟易とはある日突然やってくる。故に予想もそれを避けるための処方もなかなか思いつかず、ましてや計画など立てられるものではない。後になってみればあの頃から二人の関係は冷え切っていたとか、愛情が冷めたということになるのだ。だからこそ案外ミクロな嗜好とか、趣味とか休日の過ごし方によってマクロな重要な人間関係を常に新鮮に保つことを工夫することで辟易を避けることが可能となることも多いだろう。そういう遊びが人生や生活にないと段々親しい相手に対して不満が募ってくる。つまりパートナーに自分の生活上での不満をぶつけてしまうのだ。これもまた極めて怠惰な責任転嫁の一つである。
 だが何故この辟易がやってくるかということを問うとなると、ケースバイケースでなかなか一律にその心理的メカニズムを解明することが出来ないだろうと思う。ただ哲学的には先ほどの反復図式のようにある説明原理、もっと簡単に言えば、自分に対して取り敢えずの納得をすることを可能にする自分に対する説明が色褪せて感じられてくるということを避けたいがために時々例えば哲学者でさえ、その究明する命題をリニューワルするのだ。文学者や画家が主題において変化を持つことと同じである。とりわけ説明原理を命題的に究明する哲学者や論理学者たちは、常に新奇なイメージを自分の学究に持ちたいがために必死に命題の意味究明に関して、移行や推移の必然性を見出そうとする。あまり突然のチェンジでは自分の命題に対する理解者からの納得を得られない。取り敢えずの納得であれそれはそれで本質的理解よりはもっと平明なものであってよくても、やはり重要なのである。
 つまりもしその関係を、それが人間であれ、住む場所であれ、職業であれ本当に永続的なものとして維持していきたいと思うのであればあるほど、一定の距離を保つこと、あまり短期間に集中的に親しくし過ぎないことが大切な仕方なのである。ある部分では短期的にかかわる仕事、あるいは精神科医や、ロックバンドやジャズバンドのメンバーであればあるほどその仕事のことをセッションと共に言うくらいだから、集中的に親しくすることはいいことである。それはいずれ解消される関係であることを相互に熟知した関係だからである。またそういう泡沫な関係であればこそその短期的密度によって相互に得るところが大きいということも言える。
 しかしもし永続的であることをかなり現実的な意味で重要であると思っている関係であればあるほどその相手との距離、相互に干渉し合わない事項、踏み込まない領域を保守するということが意外と重要となってくるのである。人間は初恋において流出されるくらいの短期的ではあるが極めて人生において重要な出会いというものはそう何回もあるものではない。そして極めて重要なこととは、そう何回もあるものではない関係というものが友人関係や上司部下関係、同僚関係、仕事上でのパートナー関係、夫婦関係、夫婦ではなくても異性パートナーとの関係といったものは、全てそれを失ってから大切であったと気づくことが多い。勿論短期的に集中して親しくして解消していくからこそ重要であった関係というものも多くあるだろう。それは対人間だけではなく短期旅行もそうだし、短期的に使用する道具、あるいは仕事内容といったものもある。
 つまり取り敢えずの納得がいい納得であればあるほど最終的な理解も素晴らしいものになる。確かに取り敢えずの納得自体は完成されたものではない。しかしだからこそ相互の納得の仕方がいい道具的なものであると、極めて最終的な関係であるところの真理の理解とは完成度が高くなる。だからこそ時々取り敢えずの納得の仕方自体を例えば論じ合う仲間、同じプロジェクトにかかわる同僚同士でリニューワルすることが求められるのだ。
 これは要するに先ほど言った人間関係や永続的に住む地域(地元)に対する距離の一定の取り方が重要であるということを念頭に入れておくことと無縁ではないだろう。自分の住む地元では周囲の人間関係は長く付き合う必要があるので、やはり一定の距離を置いて相互に踏むこまない領域を保守する必要があるし、地域住民としての責務(例えば祭りに参加するとか、自治会費を払うとか、ごみの集積日を間違わないとかの)を払う必要もあるだろう。そのように相互に配慮し合うということが、同一プロジェクトにかかわる同僚や、哲学者とか学者間での研究仲間や学会仲間間で必要なのである。そして案外取り敢えずの納得が相互にその納得を強いる相手が自分に対して独善的であると思われないような形で共通項を見出すことが重要なのである。これは地域住民間での対人関係に学ぶところが大きいだろう。
 つまり相手に対して新鮮さを保つということは、既知の人物に対して、親しい間柄において未知な部分を発見することである。それは最も必然的展開しか期待出来ない相手から得るセレンディピティーだから当然その大きさは新しい知人から得る何かよりも感動は大きいだろう。
 つまり辟易との戦いをする必要性を感じる相手とは、親しい間柄であるし、退屈であるような関係に陥ることを阻止する意志は同じような繰り返しの中からその意味を見出すことである。全く違うことを少しだけトライしてみるということが再び日常的ルティンに戻った時にそれが新鮮に感じるということである。だからただの赤いバラに見とれるということが習慣から全くなくなっていたのなら、敢えてそれを一日の内に五分でいいから設けるのだ。赤いバラのクオリア(を美しく感じるということ)はそういうトライアルから偶然発見されるセレンディピティーであるし、親しい相手の顔をじっと眺めることもいいかも知れない。
 そうすることによって意識を転換するのだ。そう言う時の意識とはゾンビとそれに対する永井用語のビンゾということを考える意識とは違うかも知れない。
 意識には二重の意味があるのだ。意識とはそもそも覚醒していて睡眠していなことを指示するために儲けられた説明原理である。あるいは眠っている時以外で意識を失っている状態を下に考えた「そうではない状態=自分で今の自分の状態を説明出来る状態」である。つまり意識とは覚醒していることと睡眠してはいないこと、そしてそのことを認知している自分という自己同一性において現在ここにいるということを捉えられることに対する説明原理である。そして「私」は意識が私自身にも同一性を求めて、と言うより殆どそれ以外には無いように信じて、そう言っている。「今」はその「私」が意識している、と言うより何かに注意が向けられていること自体を時間論的に把握した時に立ち上がるに過ぎない。それらは共に同一性と自‐他の相関を理解し証明するために自然と立ち上がる説明原理なのである。
 例えば私は敢えて「私」を持ち出さなくても常に私であり、私は常に何かしている時は「今」を持ち出さなくても常に今ここにいることは自明である。にもかかわらず私たちは「今ここ」であることを特化して考えたくなる。
 だが私はその全ての私に関する事実を他者の存在によって相対化せざるを得ない。つまり他者の存在が私を「他者ではない」と意識させる。しかしそう意識させるのも私が他者との間に何らかの約定として何かを説明する能力を備えているからだ。つまり指示も名辞もその説明能力が理解させている。つまりそもそも何かを理解するということ自体が自己内の自分に対する説明能力の内的な行使以外の何物でもない。
 意味連関が立ち上がることによって意識は意図とか感情とか、行為の目的に摩り替えられる。私たちは退屈だから考えるのだし、考えてばかりいて何もしないことの退屈さに辟易して行動する(例えば話す、書く)のだ。そして行動するから行為の目的ということを考える。そして同じ行為ばかりでは辟易する。だから新しい行為を求めもするし、同じ行為を別の意味から考える。
 親しい間柄での対人関係を重要であると考えるからこそ、退屈と辟易が立ち現われることを恐れるのだ。恐れるから意味づけしなおすのだ。どんなに親しい間柄でも、どんなに愛する土地でも退屈することもあれば辟易することがある。だから時として旅行をするし、祭りをするのだ。

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