Friday, March 26, 2010

<感情と意味>第二章 第五節 親しくなることの本質に潜む悪に対する直視を逸らすもの 

 何故他人と親しくなるのかというと、私たちは相互に相互の欠点や、外部世界から見られた場合の弱点を少なくとも親しくなった者同士の間では目を瞑ることを通して、一時外部世界からの自己の欠点や弱点に対する所在を巡る客観的な指摘を回避し得て、そこに憩いと寛ぎ、安らぐことが精神的に必要だからである。だからこそ時には私たちは親しい間柄の人間同士で積極的に冷厳な他者を敢えて作る必要もあるのだ。
 しかし親しくなるということの内には当然今の論理で行けば悪が潜んでいる。つまり共謀して結束して必要悪的な責任転嫁をすることを通して、偶像に過大な責任を負わせ、その偶像自体をいつでも挿げ替えることを可能なように監視する権利を相互に確認し合っているからである。全ての共同体、国家、法人はそのような内的な論理を持ったシステムに他ならない。親しくなるということの内には悪を相互に許容し合うと言うことがあることが判明した。つまり悪は端的に許容し合う範囲内で充足させることを通して、それ以外に悪を発現させないようにすることを無意識の内に我々が目論んでいるものなのだ。それをカント的に根本悪と呼んでも、もっと直裁的に理性的措置と呼んでも別に支障はない。理性が必要であると我々が思うのは、我々に既に悪が常に沸々と芽生えつつあることを常に自覚しているからに他ならない。だからこそ悪とは直視しないように用意周到に常に悪自体ではない方向に目線をやることを我々自身に促進していく必要があるのである。
 何故なら悪そのものを我々の中に発見することに躍起になっていると、平静な心理で全ての社会行動を営むことが出来なくなるからである。つまり我々自身の悪を直視することを逸らすこと自体が本来的に我々が我々自身に望むことなのであり、だからこそ自分自身に関係のない多大な量の情報を得ようと我々は躍起になるのである。そして端的に誰かと親しくなるということは、その親しい者同士の間では一時その自分自身に巣食う悪に対して直視的反省意識を持たないように相互に配慮し合うということに我々が無意識の内に意味を見出しているからこそ可能なのだ。と言うともそもそも我々は表象と言うものを大半の部分で実際に何かを見ることに費やしており、例えば過去想起とか想像ということも、睡眠時以外では殆ど言語的理解とか論理的理解とか経験的認知とか仮定法的推理とか記憶内容の整理によってなしており、実際の映像的想起というものが頻繁に到来するわけではないのだ。そして寧ろ我々は社会ゲーム内での対人関係と、言語行為上での思念・思考そして社会行動において取り得べき責任的意識に常に釘付けになっており、表象はそれらを意識上に顕現させることに費やされており、反省的意識によく見られる映像的想起や想像というものは、殆ど一人になった時にしか発揮され得ないものだからだ。つまり一人になった時に一気に沈み込む反省意識ということを我々は相互に知っているからこそ、親しい間柄でいる時には、反省を忘れさせること、とりわけ自分の内部に巣食っている悪に対する直視を相互に協定的に逸らしているのである。「一人でいる時に出来ることまで親しい間柄でいる時に相互にすることはない」という約定こそが実は我々が通常思い遣りと呼ぶものなのである。
 だからこそそこには極めてノンシャランとした相互のビンゾに対する意識が介在しているのである。だから逆にその相互ビンゾ性に対する意識が濃厚であることから、公平な眼で我々は親しい者同士とそうではない相手との間で持つことが不可能なのである。それは何も人間に限らず、住んでいる土地、している仕事、よく知っていることやものとそうではないことやものとの間でも言えることなのである。

 少し纏めてみよう。親しくなるということを人間同士に限定してみると、親しくなるということが成立するのに重要な条件とは相互に欠点を重々承知しているのにもかかわらず、その欠点を補い合うという発展的なものである場合なら何ら問題はないものの、存外親しい相手と自分との共通性、しかもそれは長所ばかりか欠点においてもそれを相互に認識し合えるということ、しかもそれは暗黙の内にそうなるのであり、そしてその欠点を相互に暗黙の策定的な意味で反省(哲学的な反省ではなく通常の意味での反省)し合わないという了解があり、自分の欠点や弱点を直視することを相互に回避していること自体にある種の慰安を感じ取っているのである。つまり親しくなるという間柄には往々にして逃避的な性格があるのである。そしてそれが一切ないような親密な関係というものはあり得ないし、またそのように弱点や欠点に対する逃避という性格が全くないような親しさがもしあるとすれば、それは居心地のいい物ではないから、長続きするものではないということも言えよう。そしてこの性格は個人の間の親交関係についても言えると同時に、共同体というもっと大きなスケールの人間関係にも該当することなのである。
 つまり人間とは一方では自分と無関係な事項に対して多大な情報量を摂取することを通して、自己内に限定される固有の事情やら関係がある切実なことから目を逸らすことを通して安心を得て、自らのいつかは迫り来る死に対しての恐怖や不安を除去しつつ生活しているということと、まるで相補的なことでもあるかのように、本来ならば克服すべき自らの内部に自覚する欠点や弱点をなるべく正面切って見まいとする逃避的な心理において親しい人間的な間柄を構築していくという側面もあるのである。
 そして偶像視する存在を常に自己の外部に希求するような心理が、その逃避的な人間の対人関係、マスメディア利用ということの行為において介在しているのではないかというのが第三節において私が示唆しておいたことなのである。意味とは本質的に差別を含有しており、差別することがそのことを通して自己の安定を保つことにあることは間違いないことだし、その安定希求ということにおいて我々は責任を自らに対して外部へ宣言することも、出来得る限りその範囲を限定すること(責任転嫁すること)を通して責任を遂行することで自己を安泰化するために共謀して同一の偶像を設置し、その偶像に自分たちにとって遂行し得ないものを仮託し、しかもその自分たちにとって無能力な責任を負えないことの遂行をまるで偶像であるなら当然のことであるかのように、いざその偶像が躓き、失墜した時には遠慮することなくその偶像を葬り去り、別の新種の偶像を捜し求めるその飽くなき反復の中に我々はいるのである。そして往々にして誰か特定の人と親しくなるという人間の行為には、端的に相互に相互の欠点や弱点を本来なら克服すべきことであるのに、そのことを重々承知しているが故に、寧ろその義務を相互に怠ること、つまり小さな悪を容認し合うような逃避願望において結びついているという性格が濃厚に漂っていると言ってよい。
 しかし私の偏見かも知れないが、日本人はことマスコミ、マスメディアの報道に見る限り権力者の側の人が失墜した場合、より外国よりもその失墜を追い討ちを駆けるようにまるで待ち望んでいた生贄を探し当てたように過剰にそのミステイクを騒ぎ立てはしないだろうか?そこにどこか品性のなさを感じ取ってしまうのだが、果たして私だけなのだろうか?
 再びまとめると、親しくなるということは少なからず相互に最低限許容し合える範囲内の悪を相互に容認するということにおいて、相互に憩いと寛ぎと安らぎを求める心的な活動であると言ってよい。そしてそれが一定限度を超えるとナアナアの馴れ合い関係に堕すということが言える。だから親密な関係とは最低限の必要悪として相互の悪を直視する機会を少なくとも親しい者同士でいる時だけは猶予されるという精神的権利として捉えることが出来る。
 そしてここで最後に述べておきたいこととして、意味とは往々にしてこの親密度の高いものに対して、それを重要であると考える傾向が我々にはあり、その親密にして重要であるということが言える場合と、そうではなく寧ろ弊害であるにもかかわらず、それを買い被り、過大評価していることによってバイアスにかかった考えを重要視し過ぎるという誤謬を犯すということがある。だから前者の場合それは本質的に意味があると言えるが、後者の場合は異なると言えよう。それは無意味という形でまさに意味にかかわっている。そしてそれは我々が設置している偶像に対しても十分言えることなのである。

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