Friday, March 19, 2010

<感情と意味>第二章 第三節 意味と差別と偶像

 一般に差別とは、社会的な現象として顕著なこととして、差別を否定的に叫ぶことからスタートする。また差別する人を差別するということから考えると、実は誰かが誰かを差別しているのだと思えるということも、それ自体差別である。そこには自意識と自己愛と他者の視線が異様に気になるという神経症的な症状が立ち現われている。
 また差別のないところでは意味が生じないということからも、差別のない状態からは何も生まれない。だから差別に対する克服が何かを生むということでもないのだ。寧ろ差別するとかしないとかそういうことを忘れることからしか自然に何も生まれないのだ。
 つまり相手からの差別だけを考えるのではなく、差別されていると感じるということの正体を考えることが重要であるということだ。また差別の眼差しを向けられると感じる自分とは、一番相手を差別したがっている自分であるとも言える。一体差別と言うことはある意味では同化ということに対する使命感から発生するとも言える。つまり差別されないような自分を設定して、それに自己を当て嵌めようと画策することから、実は差別される側から差別する側へと自己を転化しようとしているからである。だからまず同化と言うことが必要であるかどうかということは問われるべき命題として存在する。もしかしたら、その同化への使命感とはただ単なる幻想であるかも知れないからである。異化ということはでは、差別とどう違うのだろうか?これもまた一考を必要とする問題である。
 差別とここで言っているのは、内的感情、間主観性に関してもそうだし、認識上での差別化、つまり類別、価値設定といった理性レヴェルから悟性レヴェルにまで全てに対して行き渡っている。それは例えば自由ということが、内的感情のレヴェルから、可能性条件として敷衍出来るような意味で、差別とは感情もそうであるが、認識や判断においてもあり得ることである。ただ我々は内的感情だと理解しやすく、そうではなく概念的判断であると途端に理解し難くなる。そうである筈だということこそ最も思い込みである可能性が大きい。待てよ、或いは違うか知れない、とそう思えなくなるということが一つの陥穽なのだ、と思わなくてはならない。
 最初私たちは何かに対して、誰かに対して親しくなる時、何らかの意味をそこに見出していた筈である。しかし一旦親しくなるとその親しくなった根拠がどうでもよいものとなり、次第に形骸化の一途を辿る。形骸化された親しさとは馴れ合い以外のものではない。
 それは何事かに対する理解ということにも言える。友情関係や同僚や仲間の関係という人間同士の関係ではなくても、真理命題とか、論理的理解ということにも言える。納得するということが、しばしば人間関係的な意味では妥協と、無理矢理こじつけた理解である場合があり得るということからも、理解ということが理解したいので、お互いに理解したことにする(手打ち)ということが多いのだ。
 最初の問題に戻ると、誰かに差別して欲しくないということは、とりもなおさず、誰かから一定のレヴェルで特別扱いして欲しいという願望と表裏一体である。そもそもそういった願望を一切持たなければ誰かから差別されているという気持ちになどならないものだ。誰かと親しくなるということは、親しくなることによって外部から押し付けられる責任転嫁をその親しくなった相手からは免れ得るということを願望的には意味している。そしてその親しくなった相手と共謀関係に陥り、他の成員に責任転嫁し得るということの共謀行為の正当化と、その正当化によって孤立を未然に防ぐということが誰か特定の人と親しくなるということなのである。
 何かに対して重要であると思えるということは、そのように自分にとってそれが重要に思えるだけであるということを常に念頭に置いておけるということは、実は簡単そうでいて、そうではない。何かが自分にとって重要であるということは、とりもなおさず、別の自分にとっては重要ではないものに対して重要さを認める成員が必ず存在するということを意味するということがなかなか人間には当たり前なのに念頭において置けないのだ。
 人間は自分が責任を負えない範囲のもの(その方がそうではなく自分で責任を負えるものよりもずっと認知量としては多い)に対しては、それをさえ責任を負えるような存在として偶像を置く。
 ある意味では何かを無意味であると決め付けることとは、それに意味があることを薄々(いやある時には明確に)知りながら、無意味であってくれればいいということと同一である場合もあるのだ。願望と決意を一致させてしまうこと、しかも惰性的な無視ということが我々に取りやすい不安を除去する手段なのである。無意味であると判断することはそうすることで責任転嫁しているということであり、責任転嫁するということは、責任転嫁し得る対象として便利な偶像を置くことであり、その偶像に対して自分たちは責任を共謀して負わないということの決意の共同声明なのである。責任転嫁したい成員同士の結束こそが偶像を生む最も大きな要因である。しかし不思議なことに責任転嫁しておいたのだから、当然その転嫁された当の偶像が失敗したとしても、そのことに対して責任を追及すべきではないのに、偶像の失敗を我々は許容し難いのである。つまりあくまで子供の立場にありながら、過大な期待を大人たる偶像に寄せるのである。つまりこちら側から勝手に押し付けておいた課題をこなさない偶像をぽいと背を向け別の偶像を探しだすのである。勿論失墜した偶像を蔑み、精神的な生贄にその堕した偶像を位置づけることを忘れずに。
 人間の存在様相として一番その性格をよく表していることこそ、責任転嫁ということなのである。それは殆ど無防備でいることで不覚にも得てしまう損失を極力未然に防止する無意識の策謀であり、防衛本能なのである。

2 comments:

  1. >また差別のないところでは意味が生じないということからも、差別のない状態からは何も生まれない。だから差別に対する克服が何かを生むということでもないのだ。寧ろ差別するとかしないとかそういうことを忘れることからしか自然に何も生まれないのだ。

     ぼくもおっしゃる通りだと思いますね。この場合、けれども忘れるということが不可能で、実際忘れようとする足掻きこそが記憶を反復し「差別」の意味の場を強化してゆく、という構造があるような気がします。永井氏が『ルサンチマンの哲学』のなかで「忘却」について述べていたことと同じですね。
     それを「偶像」という言葉で切り出してくるところに、河口さんの論の面白味がありますね。

    >人間は自分が責任を負えない範囲のもの(その方がそうではなく自分で責任を負えるものよりもずっと認知量としては多い)に対しては、それをさえ責任を負えるような存在として偶像を置く。

     まったくその通りだと思います。ぼくだったら「偶像」でなく「神」という言葉を使うかも知れません。「神は死んだ」と言いますが、こと差別論の領域では、神は死んだどころかますます勢力を強めている、という気がしないでもありません。

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  2. 貴方の仰るように神だとより明確にもなりますが、世の中には完全無神論者も大勢いて、彼ら(私も含む)はある部分では神は否定するも、それでも「偶像」なら設置する事に吝かではないと考える気がするのです。つまり無神論者の選択をも含めて私は「偶像」を置こうと思います。これだと有神論者をも固定化した価値で見ることを忌避出来ますので。

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