Friday, April 2, 2010

<感情と意味>第二章 第六節 親しくなることのメリットと可能性 

 誰か特定の人に対して親しくなるということは、それはそれでメリットもあるし、可能性もある。何も私は全てが馴れ合いの関係であり否定すべきだと言っているわけではない。
 ただ私は人が人と親しくなる原理として当然考慮に入れるべき本質として、対他的な共謀という心理が深層において介在しているということを忘れるべきではないと言いたいだけである。つまりその心理が裏目に出さえしなければ別に共謀ということにもメリットはあるし、今後も存在者にとって大いなる可能性も秘めている。本節ではそのことに少し注目してみたい。
 私たちが何かに親しみを感じるということは、例えば住んでいる町であれば、郷里を愛する心へと繋がるし、勤めている会社であれば愛社精神を育む。人的な交流であれば、精神と精神がぶつかり合う(衝突という意味だけではなく)対話性や、理解共有ということがあるからだ。そして私はここを強調したいのだが、要するに常に親しくなり過ぎることが共謀関係を歪んだ形に持っていくということだけを意識していさえすれば、どんなに親しいということも弊害となることなどないと言ってよい。何故なら私たちは完全に孤立した状態では一切の発話意図を持つことも、言語行為的な意思表示をすることも出来なくなるし、理解共有という精神的共鳴作用がない地点からは一切の意志発動や、健全な目的を持った希望や未来へのヴィジョンを持つことも出来ないからである。だから逆に共謀関係をより親しい間柄でも批判すべきところは積極的に指摘し合うという関係を常に構築しておくべきだろう。そのためには何故理解し合ってきたかという根拠を問うことを忘れないということと、理解し合っているということの内に対他的(親しい間柄の人間以外の)な批判と相互の利害において結びついているという部分に対する理解が、逆にその長所や利点以外の、例えばナアナアの馴れ合い関係である部分を真摯に摘出するような意志と努力が常に怠られてはならないだろう。そして親しい間柄の人間同士の相互に共通した欠点や弱点に対する理解ということが、明確であればあるほど、そのことに敢えて触れない相手に対する配慮という措置は相互に精神的なメリットになるだろう。しかし敢えて触れない相互に共通した欠点や弱点ではなく、どこにそれがあるか分からないから指摘しようがないという場合、極めて馴れ合い関係に縺れ込むこと自体に対する自覚が希薄化している証拠であるから、危険であると言える。だから精神的に安堵と、自己内にある自己存在理由に対する極度の不審と懐疑を払拭し得て、未来に対して自信を取り戻すという意味での親しくなる関係を維持するためにも、どうして親しくなっていったのかということを親しい間柄で時々検証していく必要性があると私は思う。
 動物行動学者であり進化学者でもある長谷川真理子氏は生き物とは皆一生懸命生きている、とテレビのヴァラエティー番組で述べておられたが、本当に必要な真実はそれだけでよいのであり、何かそれ以上の存在であるかのように見立ててしまうのも、それは私たちが理想という観念を持ってしまったからなのであるが、そのことに関しては第四章中第五節において説明したい。要するにそのことがゾンビであること自体に感けていること自体は別段否定すべきことではなく、要するに生存自体に必死になるということは自らをロボット化するということに他ならず、そのこと自体に卑屈になれるということは、要するに必死に生きていないということを意味するだけなのである。我々は<私>やビンゾといった状態で精神が留まっている暇などない。私たちは寧ろ常にビンゾとは何か、<私>とは何かと問うことの能力を付与されたゾンビなのである。永井均氏が敢えてビンゾという言葉を提出されていることにはそういう予感があるのではないかと私は考えるのである。それは命題論的真理としての可能性を、ゾンビに対し取り得るという形で、逆にゾンビであることが、ではそれは果たしてただ疑念を抱くべきことなのだろうか、それともそんなに依怙地に否定したり忌避したりするべきものではないのではないかという問題を提起する意味で有効な命題論的態度なのである。
 つまりそのように命題論的可能性として何かを概念として提起するということが既にその概念に親しむという行為であり、その概念の有効性に対して対他的に共謀関係を構築すること、つまり真実に肉薄していないタイプの哲学者に拮抗することが出来るからである。

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