Sunday, March 14, 2010

<感情と意味>第二章 第二節 唯意味論 

 哲学的ゾンビということが言われる背景には、寧ろ私たちにとっての日常生活がいかに何らの反省もなく進行しているという思いがあるように思われる。例えば慣例、習慣、儀礼といったことが、ある部分では何の疑問も呈されない形で滞りなく、恙無く執り行われるということ自体にそのことが実感される。全て生理的にも神経学的にも同一の、思考力も判断力もありながら、ただ唯一あらゆるクオリアや意識がないという存在としての哲学的ゾンビ、現象ゾンビというものが取り沙汰されるのは、そういう無反省な日常の中での習慣依拠的な部分、前例逸脱恐怖に根差している。
 しかしよく考えてみると、永井均氏が最近ゾンビに対してビンゾということを<私>の命題論的範疇で提唱しているが、ビンゾとか<私>という非ゾンビなどというものが成立する余地が果たしてあり得るのだろうかということに対して私はいささか疑念を持っているのだ。
 つまり我々はそもそも本質的に生存していて、それをドーキンスのように生存機械と呼ぶことの方が寧ろ相応しい生きる屍なのではないかという思いが私を支配している。そう思う根拠として私たちは全ての行動や全ての思考に対して何らかの意味づけをしているということがある。意味は言語行為においてより顕在化されるようになっている。言語行為は話者、記述者同士の責任の確認以外のものではないのであって、責任倫理を問うということの内に全ての行動が何らかの外在的な意味を持ち得るということを通して、個々の個人が携えるべき意識やクオリアといった現象的な価値を無化することにおいて我々の日常生活が成り立っているということが判然とする。
 何に対して視覚的に、聴覚的に、味覚的に、触覚的に感動するのかということさえ、ある部分完全に選考性の遺伝子の作用であるとさえ言い得るのであれば、私たちはこう言うことが出来る。私たちはゾンビであることを誇らしげに生きていくべきなのであって、現象論的価値規範であるクオリアとか意識といったことは、体よく私たちの生が何か意義深いものであるかのように錯覚させ得ることを知った者による統制原理以外のものではないのだ、と。
 赤いリンゴやトマトはそれ自体で美しさを確かに持っている。しかしその美しさは現代アートのオブジェとしてのそれではない。リンゴもトマトも食べるために存在しているのであり、観賞用であってもそれは眼を楽しませるという目的において位置づけられる。全ての価値は意味づけ作用を必要とし、全ての人間の行動は責任によって、あるいは個人に付与された自由によって意味づけられている。従って私たちの存在そのものが意味づけから漏れるということなどあり得ない。すると行為は責任と義務に対する自由と権利という二分性において意味の世界において解釈され得る存在以外ではあり得ず、生存に対して死もそうであり、死は既に生きられた生ということの範疇で理解され得る全ての価値の無化という形で一定の位置を与えられている。私たちの存在自体が既に意味の呪縛を免れ得ない。つまり存在物として、生命存在として、存在事実として、存在意味連関として解釈され、理解され、判断され得る対象としてしか全ての存在物、存在様相は把握され得ない。このことは意味世界の意味連関のサイクルの中でしか全てが存在意義の命脈を得ていないということから、必然的に全ての存在は非生命であれ、生命であれ、人間であれ、非人間であれゾンビ以外のものとして存在し得る全ての可能性を剥奪される。要するに明るく肯定的に私たちは与えられたソンビとしての運命を生きていくしかないのである。
 そのことはこう言い換えられる。私たちに直面している現実に対する哲学的命題論的定義とは唯意味論だけである、と。
 意味は目的が作る。目的は意味に対する問いかけが作る。すると意識やクオリアとは目的行為連関の中で何らの静止した静観すべき猶予も与えられていない。それらはとどのつまり解釈の問題に帰する。すると唯意味論とは「私たちは明るく肯定的にゾンビとして与えられた運命を生き抜くしかない」というスローガンの別名であることになる。
 意味を知る、意味を追求する、意味を確認するということは、その行為自体で安心するためではないし、ましてや幸福になりたいためではない。それで安心出来るとか幸福でいられるというような問いかけは寧ろ大した問いかけではないとさえ言える。意味を意味として見つめるところにある意味では意味を知るために、意味を見出すために思考することだけはその時間内に保証され得る。そのことのためだけに意味は意味である意味がある。
 日本人は前例逸脱恐怖に常に苛まれていると言ってよい。何故なら官僚によって支配されていることを重々知っていながら、そのことに対する抵抗を示すことに億劫だからである。日本人は端的に過大な義務と責任を負うことさえ回避出来るのなら、多少不自由であったり、多少権利が削減されていったりしても、それくらいは我慢しようという心積もりでいることが多いと私は思う。このことを権利欲求削減的責任回避と呼ぼう。つまりそのような不自由さに耐える惰性こそが私たちにさもクオリアに価値があり、意識だけが価値があるような出版言説を提供しているのである。確かにクオリアにも意識にも考察するだけに価値があることは認めよう。しかしクオリアや意識は格別新しい概念ではない。それをさも新しいように装わせることによってムーヴメントを作ることにある僭越な謀略を感じ取らざるを得ない。企業が人を作るのではない。人によって経営されている企業によって人が育ち、人によって企業が育つようになっていくべきなのだ。しかし日本では企業に自分自身の人性を提供してしまっているケースの方が昔から多いと思う。
 その一番の原因とは、責任の重圧に耐えられないということの根拠として、端的に一回失敗した敗者や挫折者に復活の機会が与えられていないというところにあると思う。
 そういう社会構造であることが、引いては失敗や義務放棄せざるを得ないような状況になることを未然に防止する保守的な選択肢をしか我々に思い浮かばせないままになってしまうのだ。それは世間的に白い眼で見られるということに対する不文律的な懲罰に対する恐怖の念を呼び起こす。一度失脚した者を何となく差別してしまうというところに私たちの社会の穢れ忌避性があるのだ。そういう雰囲気に支配されている社会では、必然的に暗黙の了解を把捉することの下手な成員を爪弾きにしていく傾向を有することになる。その際たる処遇とは黙殺である。
 何故そうなるかと言うと、肯定的にゾンビ的存在である我々の性格を知ることを躊躇しているからである。私たちは全て所詮社会のロボットにしか過ぎないのだ。間主観性における判断のゾンビでしかないのだ。
 つまりこう考えればよいだろう。私たちにとって生きるということは、世界にとって自分がどういう存在であるかということを自分の側から世界に対して返答することであり、世界が自分をどういう風に見ているか、どういうことを期待しているかということに対する返答であり、それが仕事となり、その仕事に対する報酬となっている。しかし仕事に関しても報酬に関しても、そういった一連の行為においても、必ず巧くいくとは限らない。失敗することの方が多いし、要するにそういう巧く行かなさ自体が私たちにそれまで信じてきた信条や思想や信念を変更せざるを得ない局面にしばしば立たされる。そこで私たちは考える。これがこうなるからこうであるべきだという考え自体を成立させるものとは一体何か、と。その因果論的な考察の彼方に私たちは行為を目的や意味として捉える仕方の中に既成の仕方に対する認識外的な何かがある筈だ、と。
 そこに永井均氏が「なぜ意識は実在しないのか」において規定したようにある事象に面した時に感じること、ある事象に面した時に考えること、そういった全てのことを心理的なこととして、その心理的なことを包摂する現象的なことという価値を見出した。つまりそうである筈であること、そうなっていく必然性があることを全て説明原理的にある認識事実へと後退させることを通して実は、それを後退させるべき筈のもう一つの価値として見出されるべきものとして意識やクオリアを現出させたのだ。永井氏はそれを<私>とか昨今ではビンゾと呼んでいる。
 しかし極めて重要なこととは、そういった価値は常に通り一遍であるとして後退させられたゾンビということ、あるいはゾンビをゾンビであると思いもしない心理的なことによって支えられているということだ。現象とは心理が作っているとも言えるのだ。あるいは根拠とは判断によって作られていると言ってもよい。それは現象よりも心理の方が偉いとか、根拠よりも判断の方が偉いということでもない。つまり心理とはある角度から推察すれば現象的な価値を他方に必要とするということであり、判断とはある角度から推察すれば根拠という価値を他方に必要とするということであるだけのことである。
 それは生き甲斐とか、存在の根拠という形で私たちが常に問いの彼方にある価値を見出しているということを意味し、その価値とは端的に存在することの意味を見出す衝動の駆動力なのである。
 意味を問うということは、存在を存在するものの間で階層を作らないということを前提にする。しかし親しさとは常に階層を求める。私にとって一番大切な人、私にとって最も慣れた仕方、私にとって最も馴染みある今住んでいる町という風に。要するに親しくなることとは、習慣化することを厭わないということであり、習慣化すること自体に拒否反応を自己内で見出せないということであり、端的に全ての存在に対して公平ではいられないということであり、全ての存在に対して一定の差別を表明することなのである。
 そして意味を問うということの内には、私たちの内部に巣食っている差別感情そのものが、実は何かに対して親しくなり、それが行為であれば習慣化し、その習慣依拠的な日常生活上での行為こそが、意味というものを作っているということ、つまり意味とは意味することや意味するものを、意味しないものや意味しないことと併置することに他ならないからである。つまり何かに対して親しくなるということは、そう親しくはないものをも同時に作ることであり、疎遠なものや絶縁するものをも作るということなのである。それはある者にとって親しいもの(者、物)が意味あるものであるということからも明白である。
 つまりそういった決断の中に全ての権利も自由も含有されているのだ。
 するとこの節の結論としてはこう言わなくてはならない。意味論とは意味するものと意味しないものとの間の階層を設けることだから、必然的に唯意味論であるところの生存ということは差別感情を介在させて生きること、何かに対して親しくすることを通して何かに対しては疎遠になり絶縁することを意味する生とは差別を生きることであるという現実自体を問わずして何も究明し得ない、と。

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