Tuesday, March 23, 2010

<感情と意味>第二章 第四節 自己と無関係のものごとに対する思念の必要性 

 今ホームの端にいる私から100メートル先にいるホームのもう一方の端の男女二人にとって私の存在が気づかれていないのなら、彼らにとって私は存在しないのに等しい。しかしにもかかわらず私にとって、私の視界の中に存在するその二人は私の世界にとっての今は重要な構成要素である。私が投げかけられる視線に気づかないその二人にとって存在しないのと同じ私にとってその二人は私の知覚にとって大いなる関心事なのである。
 私は私の知覚世界を生きる。しかしその私にとっての知覚世界には私にとって縁もゆかりもない多くの構成要素に満ち溢れている。それは一体何故なのだろうか?
 つまり全ての存在者にとって大半の他の存在者の存在事実も、存在理由も、自分の人生とは殆ど何の関係もないものである。もし私が他者に投げかける視線の全てがその視線を投げかけられた者たちによって確認され得たとしたのなら、私は私の視線が示す私の関心の全てが見透かされているように思い、全ての視線の動きを他者から監視されているように感じ、息が詰まってしまう。
 つまり私は世界の只中にある日突然投げ出されて存在しているのだが、その事実に対して孤独を感じていたとしても仮にその孤独の全てが解消され私の存在が他の私以外の全ての成員(存在者)によって認知され、関係づけられたのなら、寧ろ私は生きた心地がしないであろう。どこかの国の指導者でさえ、そういうことまで望んでいるとは限らない。
 つまり人間は自分以外の他の存在と大半が無関係で無縁であるが故に自由意志というものを実感し得るのである。私たちが自分にとっては大半が無縁の情報を積極的に好奇心に忠実に多く摂取する=自分と無関係な情報に関する認知量を増大させる(テレビ、新聞、ネット等を通じて知る情報の全てを指す)か、と言うと、実は大半の情報が今後の自分の人生における行為意志決定に関してさえ何の役にも立たないにもかかわらず、その摂取をやめないままでいるということの根拠とは端的に、自分の未来の行く末に無縁の情報に自分の関心が向けられている間は少なくとも自己内における自分に降りかかるかも知れない自分に対する災難(例えば私は明日死ぬかも知れない)が起き得るという可能性に対する思案、つまり不安を除去し得るからに他ならない。つまり出来る限り自分に直接降りかかることのない情報や認知内容を多く蓄積することで、自分に直接降りかかり得る事態に対する思念に忙殺されることを未然に防止しているのである。
 私は今ホームの端にいるが、その眼前の100メートル先に私の親しい知人が私の方に向かって歩いてきている。その時彼や彼の周囲にいたホームで電車を待っている人たちに向かってあまりにも大勢一挙に到着しかかっている電車に乗り遅れないようにホームまで階段を走って降りてこようとしていた矢先、将棋倒しになってしまいホームの先で電車を待つ一群の人たちに雪崩を打って押し寄せたとしよう。私はその時私の知人がどうなるかということだけに注意と関心を一気に集中させはするが、私の知人以外の人がどうなるかまでは考慮に入れることなどないだろう。
 つまり私は私にとって関心事であるものの全てが私にとって近しい存在であったり、親しい者であったり、要するに「私にとっての世界」ということからしか関心を寄せることなど出来はしないし、ましてや私の親しい知人がどうなるかという局面において私はその知人以外の人の安否などまで思慮の対象として認識している暇などないのだ。だから寧ろそれこそが正義というものの本質なのである。私たちは幾ら自分とは無関係なことに対して思念を集中させても、それは所詮正義からではないのであって、端的に自分のことだけを深刻に考えるということが極めて精神的には不安を呼び起こすということを知っているからなのである。私たちは自分の直面した問題から自分の関心を逸らすことによって、安心しているのだ。だからニュースの内容がどんなに悲惨なものであっても、そのニュースの当該の人たちが自分自身と関係がない人たちであれば、寧ろそのニュースが悲惨であればあるほど自分はセイフティーエリアに生存していることに感謝して安堵しているのである。それでいてその自分とは無関係な人々に対する心配をネタにして、自分たちがさも正義があるかのように錯覚して自分自身に中に巣食うエゴイズムに眼を背けるようにしているのである。もしその自分の中にある強烈なるエゴイズムを常に直視しているしかないのなら、我々は一刻も楽しい時間を過ごすことなど出来はしないのだ。私たちの日常においてより常に必要なこととは、端的に自らの中の悪から眼を逸らし、他者に対する正義の名の下に自分自身が存在しているという我々によって設定された「べきこと」の内に自分を当て嵌めて安心することなのである。と言うのも我々はそのように気休めを得ることなしには、一切の行動に踏み込めないのである。
 しかし自己と無関係なものごとに対して思念する必要性において、自分にとって切実なことだけを思念することが不安を増大させることに繋がるので耐えられないということであるなら、もう一度誰か特定の人と親しくなるということは、一体どうしてだろうか、理由的な根拠についてもう一度考察してみる必要がありそうだ。

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