Tuesday, March 2, 2010

<感情と意味>第一章 第十三節「私」があるから痛みが増すのか

 「私」は他者がいなければ「私」であり得ないだろうか、という問いは実は傷みの問題にもかかわりがある。「痛い」とは他者に訴えることである。ダニエル・デネットは「解明される意識」において痛みとは、それを感覚する主体が痛さも度を越せば、死へと直結するということ、つまりもっと深刻な怪我なら死に至ることもあると我々が知るからこそ倍加されると述べている。では一人でいる時に怪我をしたら我々はどうするか?その時だって我々は「痛い」と一人で叫ぶことだろう。それは私たちが一人でいても、自分の中に他者を作ることをするからである。独り言とは他者存在を通過した主体が自己内他者へ対話するということなのだ。だから他者存在そのものを知らない者は痛みとか痛さを「痛み」、「痛さ」という形では認識し得ないだろう。
 だから痛いということもそうだが、痒い、くすぐったいということもただ感覚されるだけではない語彙の力(「痒さ」、「くすぐったさ」)によってより倍加される。だから逆に本当は痛くないのに痛いと他者に申告することによって本来は痛くはない感覚が段々痛くなってくるということもあり得るだろう。仮病が本当の病になるということである。幻痛ということである。そこには良心もかかわっているだろう。良心が痛くもないのに痛いと申告しているものだから、痛くない状態でいることそのものにブレーキをかけて、痛さを自ら作り出すのである。
 しかし痛さの申告という問題はやはり言語行為と第三者ということ、そして「私」と「あなた」という問題へも直結する。そして孤独とは何かという問題へも。次節ではそのことを主体に考えてみよう。

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