Wednesday, March 10, 2010

<感情と意味>第二章 親しくなることの弊害 第一節 一般化と普遍化

 私たちがある本に接する時、最も心がけなくてはならないことの一つはその本が示す意味である。例えば今の本は、多くが本のカバーの脇などに著者の写真が掲げられているが、その著者固有のプロフィールは正論としては何らその本が示す意味世界とは関係がない筈である。しかし正論とはしばしば退屈である。従って本の装丁とか、著者のプロフィールとは、初めてその本を手にする全ての読者にとって、そして初めてその著者の本に接する読者こそを最も大切にしなければならないという正論からすれば、何らどうでもいいことなのに、往々にして正論が退屈であるという理屈からか、しばしば本がどのような装丁でどのようなプロフィールを持つ著者によって出版されるかということの方に、その本が示す意味世界よりもウエイトがかけられるということは、出版企業界自体の運営や維持上必然的な展開になってしまう。
 そのことは政治の世界において為政者がどんどん交代していくような場合、その時々の為政者にとって掲げられたスローガンにいかに説得力があるものであっても、その為政者が退いた後までは一切マスメディアでは取り上げることすらなくなる。私たちにとって最も大切な議題とすべき命題よりも、その都度の為政者にとっての関心と、それに対する世間一般の反応の方がずっと大事ということになってしまう。
 茂木健一郎氏は「化粧する脳」や「脳を活かす生活術」といった近著において、自分の顔くらいよく知っているようでいて、本当はその実像を知らないものはないという考えを適用すれば、私たちは自分にとって親しい他者(家族や友人といった)ほどある意味ではよく知らないと言うことがあり得る。つまり親しくなるということは、その親しくなってしまったものに対しては純粋に公平な眼で他のものと突き合わせることが出来なくなるということを意味する。それは言い換えれば親しいものほど純粋に意味連関の世界から逸脱し、客観的価値の世界から(そんなものがあったとしての話であるが)逸脱し、要するに個人的感情論の世界の構築物に堕するということである。
 それを堕するとするか、昇格するとするかによっても、論点は完全に異なってくるが、重要なこととは、言語行為とは全て実はこの責任の世界のことであるということ、そして責任とは親しいものと親しくないものとを敢えて等価なものとして取り扱うという意識以外のものではないということをここでは言いたいのである。
 意味とはそれが伝わるということにおいて、語彙や文章や、発話技巧を通して話者や記述者による伝える技量や語彙文章、語りにおける技術駆使能力の優越性そのものによって相手(そのメッセージを伝えたいとメッセージ伝達者が目論むところの読み手、聞き手)に何かが伝えられること自体が円滑に捗るということと、そういう意図があるにせよ、意図的には希薄にせよ、言語行為自体が私たちの意図とは無縁に既に持ってしまっているそれ自体の力によって伝わってしまうということの二つの相反すること、つまり意図的・恣意的なことと、無意識なことや自動的なことの双方の間にこそあると私は考えている。すると本を出版する時著者は、これだけは読者に伝えたいと望み、事実その意図に忠実に意識的に技巧を凝らすということと同時に、ある一定以上の技巧を凝らした後は、言語行為自体の運搬、つまり自然になるに任せる部分というものが共存したまま進行するということが言えるのではないだろうか?これは何も出版や発話といったことだけではなく全ての行為に言えることではないだろうか?
 すると親しい間柄であればあるほど見え難くなる部分があるように、親しんだ技巧や技術や分野や専門であればあるほど意図的にしても無意味になるような領域があるのではないかという問題が発生してしまうことになる。つまり慣れ自体が著しくその行為自体の本意であるメッセージ性や意味を殺してしまうということがあるのではないだろうか?
 それは親しい者が犯したミスや誤りに対して寛大になり過ぎることが、社会一般では不正入札や甚大に利害においてバイアスがかかってしまうような政治献金などで法的に逸脱するような事態を招聘するような意味で、我々は一個一個の言語行為においてもメッセージの持つ意味性が有効に作用し得る場合とそうではない場合というのが出てくることがあるということへと繋がる。
 つまり「そんなことは言われなくても分かっていること」という領域が全ての親しい者同士には付帯してくるということ、そして実は「そんなことは言わなくても分かっていること」という領域自体が実は最も真理命題論的に重要なことなのにもかかわらず、それを等閑にしていくことが往々にしてあるということを物語っている。少なくとも哲学的には何度も何度も立ち現われる命題こそが最重要な場合が多いと思われる。そしてその重要性を親しさが意味論的に無化してしまうということがあり得るのである。
 だから一般化ということ、あるいは普遍化ということは、一度自分にとって親しくなってしまったものに対して、それが何であっても一旦突き放してみるということ、わが子を谷に突き落とすライオンの心理になるという意図的な決意である。つまり敢えてそうすることによって意味連関の世界の冷たいとさえ言える公平な眼(それは完全にそうであることは不可能であるにせよ)を最低限だけでも確保しておいて、少なくとも親しくなってしまったことによって失う慣れ的な主観、つまり習慣依拠的な無思考性を排除していくことを意味する。そしてそれが困難であるのは、エロス論的な存在に対する配慮や気配に対する親しみが愛であるという側面と、そうではなく客観的意味連関の世界における存在理由に対する明確な自覚こそが愛であるという、共に相反する価値が常に同伴しているということが常に愛をかける部分を四捨五入してしまうようになってしまうということと同じように、よく知っている者(や物)に対してそれを公平な価値規範という相貌の下に見ることが出来なくなってしまうということが双方とも弊害として立ち塞がるという事態によって示されるということである。
 と言うことは、逆に一般化や普遍化においても、親しくなってしまったものに対して認めるべき価値と同じように全てに関して見よということが言えるように思われる。
 つまり他者に愛情を注げという「汝の隣人を愛せよ」とか「汝の敵を愛せよ」というキリスト教の原理がここで必然的な真理として持ち出されて得る余地が出てくるということである。キリスト教の原理の一つだからそれが正しいのではない。逆である。それが正しいからこそキリスト教の原理としても定着されてきたのである。
 つまり本節において私が最も言いたいこととは、一般化や普遍化は、それはあたかも前例的に一般化し得るから、普遍化し得るからそうすべきなのではなく、その都度その一般化と普遍化をすることに愛着が持てるくらいに親しくなれ得るからこそするのだということと、ただ親しくなっていってしまったものの馴れ合い性を排除して、平等や公平ということを意志的に正しいことであると冷たく四捨五入してそう思うのではなく、暖かく切り捨てられるということを自覚して実行するということが大切であると、そう思うということである。

No comments:

Post a Comment