Thursday, February 25, 2010

<感情と意味>第一章 第十二節 自我としての<私>の起源=振る舞いの哲学と言葉

 「私」は他者に私の全てを語っているわけではない。しかしその全てを語らなさという形で全て語っている。何かを明言しないことは明言しないという形で全てを明言している。「私」は私に対する同一性認識と「私」が取り敢えずは一致しているだろうとは思っていても、常にそれは完全ではないと知っているし、ある時は全くちぐはぐなこともあると思う。だから私は他者に「私」と私の同一性認識とが極端な形で外れ込んでいないものとして望む。だからその都度他者に申告する形でのずれを修正しようとする。
 その試みが発話となったり、記述となったりする。記述は主張となれば他者(その記述を読む人)を必要とし、他者に読ませないとしたら、それは書いた時点より未来における自分を他者として扱っている。
 つまり他者に向けられた全ての主張は何らかの形でそのずれに対する修正の意図が含まれている。そして自分のためにだけなされた記述は、自分で他者である自分(読者)を納得させるためにある。あるいは読者として納得するためにある。それは自分の中に他者を作ることである。逆に実際の他者に向けられた主張は他者の中に自分しか知らない部分を共有させようという意図が含まれ、それは明らかに他者の中に自分を作ることである。

 「私」は幼児が痛みや心の中の何かを訴えようと泣いたり、興奮したり(ぐずったり)することにおいて、その訴えに対して、例えば母親が、幼児の訴えの意味を把握した時に、「痛いの?」とか「辛いの?」とか聞くことから徐々に「痛い」とか「辛い」とかいう語彙を覚えてゆくわけだが、ある時その訴えが相手(この場合母親)に通じないこともあれば、逆に本当は悪さをしているのに、向こうからこちらが窮状を訴えているかの如く解釈されてしまうという事態に見舞われると、次第にある訴えを起こすことは、その訴えの内容如何にかかわらず、痛い時には痛い表情をしたり、辛い時には辛いような表情をしたりするその振舞いの仕方一つで相手には説得力を持つことを覚える。その時誠実であること(その時の気持ちを素直に表す)と誠実そうに振舞うということをどこかで一致させることを覚える。(と言うことは自己欺瞞を学習するということである)実はこの時私たちは、嘘も一つのやり方だと、あるいはもっと先にいくと、嘘も方便であると知るようになるわけだ。それは振る舞いの哲学の習得と言ってよい。
 つまり「誠実であること」は「誠実そうに振舞うこと」と表裏一体であることを知るとは、言語行為自体が何かを訴える真理だけではなく、その真理を運ぶ言葉の力によってであるということに対する自覚に他ならず、それは即ち「本当のことを告げること」は「本当のことのように(ことらしく)告げること」だという自覚だから、当然誇張も覚え、所々嘘を交え迫心の演技、伝達方法の工夫や知恵を覚えることでもある。
 これらは自我の確立とその他者に対する表現である。つまり「私」は何かを他者に告げ、告げる「内容」を考える時巧くその「内容」が伝わる時もあれば、そうでないこともあるという挫折をも含めた体験から、他者とは自分が自分の心を全て知ることが当然であることとは決定的に違うということを、何も言わずに黙っていては相手には何も伝わらないと言うことを知る段になって初めて知ることとなるのだ。それは別の角度から見れば、自分の心さえ他者を通してでなければ本当のところはよく分からないということを知ることでもあるのである。
 それは一つの挫折である。何故なら何も言わなければ他者は自分に対して何らのアクションをも発動させないということであるから、ただ黙っていることで自分は損をするといことを知ることだし、また誰かに「訴えてみろよ」と提言されなければ何も言わないままにしていることで損をすることを知ることだからである。それは自我という形での「私」性の獲得である。つまり自我=「私」性の獲得とは他者の心を「全て知ることは出来ないが、相手がこちらに何かを示す分には知ることが出来る」ということを通して知ることとそれは同時的なのである。
 しかし勿論こちらの伝えたいことの伝えなさは、例外的なことであり、概ね伝わるし、振舞いが真意と極度に乖離しているのに功を奏すこともあるが、それは稀であるということも知る。(だからこそ予想外に功を奏すという体験が我々に悪を目覚めさせる)従って振る舞いは多くの場合伝えたいことの円滑な伝え方というラインに沿って成熟していく。つまり本当に誠実であり、且つ誠実そうに振舞うという仕方においてそれを成熟させるのだ。だから逆に嘘も一つの仕方である場合もこの時同時に習得する。
 概ねそれは規約的なことであるというのは家族外的な他者を通して知ることが多いだろう。家族なら表情一つでだいたい察しがつくが、他者に対しては家族よりはより振舞い方が重要となるからだ。またその振舞い方の習得とは、通り一遍で他者に伝わることと、そうではなくかなり強調しなければ伝わり難いものもあるということの習得でもある。その二つが両極分離した形でその間に階層を作るのである。
 だからその伝え方に問題がある時私たちはそれを改良すれば(例えば使用する語彙を変えるとか相手にまず何か聞いてからそれを考慮して説明するとか)克服可能な領域というのは自ずと出てくるからである。しかしそれでも尚伝わり得ない時には、何らかの考究を持続することが自ら可能であると悟り(それが学問や芸術、文化への関心の萌芽となる)、そうではない場合は不安が付き纏い、その不安を聞いてくれそうな他者を探す内に友情というものを知る。友情は得られても得られなくてもその段になって知るのだ。
 「私」は他者との間での「伝えられなさ」の変化に伴って幾つもの像を自分に対して持つ。そしていつしか他者との関係が固定化しないような流動性の中から「私」の自己像がその都度変化しているのを知るし、それは続いている人間関係の中でもそうなのである。ある他者Aに対する認識はその都度更新されるからだ。そのことの覚醒の中から「私」とは何か、「私」の中の「変わりなさ」と「変わりやすさ」に対する考究が始まるのである。そして振る舞いの仕方にもヴァリエーションがあることを理解していく。またそれは役割意識を身に着けてゆくこととも重なる。そして役割自体の変化が「私」の在り方を変化させることを知る。

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