Friday, January 29, 2010

<感情と意味>第一章 第八節 カントにとっての神

 カントにとって神とは一体どういう存在であったかということを本節では考えたい。しかしこの問題はあまりにも究極的問いでもあるので、カントの幾つかのテクストから推し量られる態度を、私自身の考えと突合せて本論にとって必要なエキスのみをここに記述することにする。
 さてカントに入る前に無神論について少し考えてみよう。無神論哲学者として著名な人にはダニエル・デネットがいる。そして彼の僚友の進化論生物学者であるリチャード・ドーキンスが挙げられるだろう。しかし無神論というものはそれはそれでかなり古くから存在する。例えばキリスト教倫理という位相から語ればニーチェも明らかに無神論者であったし、ハイデッガーやサルトルといったニーチェに啓発された天才たちもそうであった。
 しかし無神論そのものの態度には各々根拠も、出方も異なっており、そのことについて論じる暇も紙面の余裕もないのでそのことは今後の私の宿題にすることにして、取り敢えず脇に置いておき、無神論そのもののある種の絶対的確信や頑なさ自体が実は極めて明確な一つの信仰のタイプに収斂していってしまうという矛盾について絞って考えてみたい。
 前節にも示したように、相手の気持ちになって考えるということが想像のレヴェルでは可能でも、実際上では不可能であるということは、仮にその相手が肉親であるのならまだしも、それでも完全ではないものの何らかの共感は持ちやすいということは言えるが、まして他人となればそういうことはかなり想像力が逞しいという風にしか捉えられないということが、親しい者が自分に対する偽装が見抜けないこともあるということからも明らかであろう。それを科学的な考え方、あるいは神様のように他人の心を読み取るということが不可能であるという諦観と捉えると無神論とは永井均氏が「なぜ意識は実在しないのか」において初頭で述べているように心というものは一般化し得ないという論理と容易に結びつく。しかし同時にこの心が一般化し得ないという真理は実は、他人にはそれぞれの個に応じた心の中の事情があるということを容認することで、だから自分には自分の心の事情があるということに対する権利問題に結びつくような真理に導かれる。しかしこの考え方はどんなに普通であるなら痛くないことであっても、本人が痛いと思えばそれは嘘ではないという考え方とも容易に結びつき、例えばある神経組織上でスキャンしてみても一切痛みの兆候が観察し得ないような場合でも痛みがあり得るということを否定することが出来ない(勿論痛みを訴える者は嘘をついていないということが前提である)ということは、人の心は唯一無二であり、身体的に観察し得ることをも超え得るという考え方にも容易に結びつく。この最後の例において魂という考えが適用される余地が生まれる。
 魂とは身体的な物理的側面からの認識だけでは不十分であるという考えに支えられている。そしてその考えは無神論者であっても否定することが出来ない。
 例えば一度生まれてきた者はたとえ死んでも、生まれてこなかった者(?)と同じような意味で無になるのだとは断定し得ないという考えが出現してくる。
 私は若い頃私よりもずっと年長者が自分よりも恐らくずっと先に死ぬだろうに、何でそんなに平然としていられるのか不思議だった。年長であるということは先に死ぬということなのだから、本当は若い人の前で平然としていられる筈もなく、もっと焦らなければならない筈である。しかし私が幼少の頃からずっと年長者は平然としているように私には思えた。これは科学では一切説明が尽かないことなのに、どこかで暢気に生まれてきたのだから、死んでも生まれてこなかった魂(そういう表現が許されてのこととして)とは違って全くの無ではないだろうという気休めが脳で自然と働き、しかも前節までに述べてきたように過去の私というものをどこか覚めた目で見て、それを他人のように感じてしまうくらいに常に今いること、今の自分を最優先するように脳が働くということが、迫り来る死に対しての恐怖を逸らすようにしているのかも知れない。つまり本当なら過去の方が常に死から遠いのだから不安が少ない筈なのに、幼少の頃の方がずっと死に対する不安は大きく、大人も本当は死への恐怖がある筈なのに、それを常に忘れさせるために脳は私たちに常に今かかわっていることを一番尊いというに感じさせてくれているのかも知れない。つまりあらゆる社会ゲームが存在し得るのは、実はこの死に対する不安を無意識に私たちが除去するために、つまり死への不安にかかきりになることを率先して社会ゲームにかかわることで忘れ、思い出さないようにしていることが一番私たちにとって気楽だからこそそれを私たちが大事にしているからかも知れない。しかしこのことは私に独自の考えではなく、古今東西の哲学者たちが実は延々論じてきていることなのだ。
 私は人間が古来より神という概念に釘付けになってきたのは、神を通して永遠を考えることを、それを考えている間は自分のやがて到来する死を忘れることが出来るから、逆にその間は不安を除去出来るということを皆が薄々知っていて、それで共同体内部でその思惟がミームのように広まっていったという風に考えているのである。
 例えばカントは次のように神を「純粋理性批判」の中で規定している。

 ところでもしわれわれがこのわれわれの理念を実在化しつつさらにこれを追求するとすれば、われわれはこの根源的存在体を最高実在性という単なる概念によって、唯一の存在体、単一の存在体、充足せる存在体、永遠なる存在体などと、要するにそれを無制約な完全性を有するものとして、あらゆる述語によって限定することができるであろう。このような存在体の概念は、先験的意味で考えられた神の概念であり、かくてわたくしが前にも〔B391頁以下〕述べたように、純粋理性の理想は先験的神学の対象である。(B608A580)

 カントはこのように述べることによって死に対する不安を永遠とか純粋理性の理想といった理念的思惟の下に除去しようとしているように私には思えるのだ。つまり今目の前にある存在物は儚く、いつかは潰え去るだろうが、少なくともある時点においてそれが存在し得たという事実関係は永遠に否定され得ない(とは言え、我々人類が死滅すればそれも確認し得ないし、問題化さえされ得ないも)という思惟が、ある事物や現象を透徹した眼差しで見ることで我々が自身の存在の事実を真として認可したいという欲求がカントに事象に対して様々な述語を付与し得、形容することを通して制限を加えるという行為事実に拠り所を求めているように私には見えるのである。つまり神を通して無常である事物を事実的に「一回は存在し得た」ものとして認可することそのものに存する儚い存在への意義を認めることを通して自己存在を「生まれてきたことはそれ自体意義があり価値のあるこであった」と自己承認しようとしているのである。
 順次カントによる「純粋理性批判」内の神に対する直接的記述(尤もこれだけでカントの神意識が推し量られるわけではないものの参考にはなるだろう)を検証していってみよう。

 神の現実的存在を証明しようとする場合、われわれのとりうるあらゆる道は次の三つである。明確な経験と、経験によって認識されたわれわれの感性界の特殊な性質から出発して、そこから原因性の法則に従い、世界の外なる最高原因へと遡るか、単に漠然たる経験、すなわち何らかの現実的存在を経験的に根拠とするか、或いは最後に、あらゆる経験を捨象してまったく先天的に単なる概念から最高原因という現実的存在へと推論するかである。第一の証明は物理神学的証明(der physikotheologische Beweis)であり、第二の証明は宇宙論的証明(der kosmologische Beweis)第三の証明は実体論的証明(der ontologische Beweis)である。これ以外の証明は存在せず、また存在することもできない。(B618A590~B619A591)

 カントが考えている最初の物理的神学的証明は、アンリの「身体の哲学と現象学」(法政大学出版局刊)第四章 諸記号の二重の使用と自己の身体の構成の問題中189~199ページの(1)主観的身体に相当し、第二の宇宙論的証明が(2)の有機的身体に相当し、実体論的証明が(3)の第三の客観的身体に相当すると考えてもよいと思われる。
 そして第二の宇宙論的証明とはカントによって批判されるヒューム的経験論であると考えてもよいだろう。例えばカントは「プロレゴメナ」において次のように述べている。

 ところで、経験はたしかに、何があるか、それがいかにあるかを私に教えるが、しかしけっしてそれが必然的にそうであって、それ以外であってはならない、ということを教えない。それゆえ、経験は物自体の本性をけっして教えることはできない。(中公クラシックスw42「プロレゴメナ 人倫の形而上学の基礎づけ」土岐邦夫、観山石陽、野田又夫訳、§14中72ページより)

 この考え方はプラトンの「国家」中のあの有名な洞窟の中の牢獄に映る影を囚人が実体であると思っている誤謬から考えられた真理と実体の関係を彷彿するし、ソクラテスの無知の知ということも彷彿する。
 しかし飯田隆が「ウィトゲンシュタイン」(講談社刊)で述べているように、哲学者とは知らないでいるのに知っている積もりでいることに対してその誤謬を指摘するものであるというソクラテス流のものから、ウィトゲンシュタイン流とは知っているのに知らないことであるように錯覚することによる誤謬を指摘するものである(これは有名なアウグスティヌスによる「時間とは誰でも知っているのに、いざそれを説明せよと言われれば誰でも戸惑ってしまう」という「哲学探究」中八九でウィトゲンシュタインが指摘していることにも通じる)ということを通して考えるなら、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」中での次の指摘は神とは何かについて今考えている私たちにとって極めて示唆的である。

 一四四 わたくしが「ここで生徒の学習能力が挫折してしまうことがありうる」と言うとき、どういうことをいみしているのか。わたくしはそれを自分の経験から述べているのか。もちろんそうではない。(たとえそのような経験をしたことがあるとしても。)するとわたくしはこの命題で何をいったいしているのか。とにかくわたくしは、あなたに「そう、それは本当だ、それをひとは想像することもできるし、それが起ることだってありうる!」と言ってほしいのだ。─しかし、わたくしは、誰かがそのことをみずから表象できるという事実に、当人の注意を喚起したいと思っていたのか。─わたくしはそのような映像をかれの眼前に据えたいと思っていたのであり、かれがその映像を承認するということは、かれがいまや与えられた事態を考察したくなっているということ。すなわち、事態をかかる映像系列と比較したくなっているということにほかならない。わたくしはかれの直観のしかたを変えたのである。(インドの数学者「これを見つめよ!」)(118~119ページより、藤本隆志訳、大修館書店刊)

 この記述の前半の六行目の「~言ってほしいのだ」まではは明らかに永井均が拘り続けてきている言語の公共化ということ、「なぜ意識は実在しないのか」中の私のゾンビ化ということに近いことである。しかしそれ以降の後半は公共化された言語によって得られた理解とは、実は既に公共化を離れて、理解した者の内部では再び永井的<私>に送り返されるということを言いたいのだろうと私は考える。つまり私が絵を描く時確かに私は誰にでも見られる絵自体に対しては神である。しかしその神でも、その絵を「私が描いた絵を見る者(鑑賞者)にこれこれこういう風な色彩と形態を通して見させる」ということを目論むことは出来ても、実際それに対してその者がどう感じるかまでは目論むことが出来ないという意味で永井均は、神がもしいたとしても、今私が述べた前半までなら出来るが、それ以降は出来ないという意味で考えている。(「私・今・そして神」)しかし永井が「なぜ意識は実在しないのか」で批判対象としているデヴィッド・チャーマーズは丁度逆である。彼は完全にいかなる心理的作用を育む脳機能や生理的機能が自然によって形成されても、その生理的機能や脳機能の複雑に相関されて顕現されるコネクションそのものの様相以降は寧ろ自然ではなく神の領域である奇跡に近いと考えているからである。(「意識する心」林一訳、白揚社刊)ここにはチャーマーズによる恐らく無意識的なキリスト教的価値体系、倫理的判断が介在していると思われる。それに対してチャーマーズが論敵としてそのテクストで扱っているダニエル・デネットはコネクションの一回一回の対外的な応答そのものは全て意志による選択と脳機能や生理的機能との絡みで決定され、自由とはその選択肢(シミュレーションのツール)そのもののことであり(「自由は進化する」山形浩生訳NTT出版刊)、魂としての身体を遊離しても存在し得ることを思念上可能にするような自由意志などないと考えることと対称的である。
 永井均は常々カントは後にフィヒテやヘーゲルに連なるドイツ観念論哲学の傾向として、<私>を全て語る者に固有のものから誰でもが持ち得る一般化されたものへと、つまり一般者へと転換していると主張している。しかし何故ドイツ観念論哲学ではそうする必要があったかというと、それはカントが先にも述べたように、死に対する不安と恐怖に向き合うのではなしに、それを一瞬忘却することを共同体が無意識の内に同意しているような意味で個的な実存からではなしに、真理として普遍化することを彼もまた哲学者の使命上引き受けているからである。
 ウィトゲンシュタインの言う「わたくしはかれの直観のしかた変えた」ということがそう目論んでしたのではなく、そういう目論みとは別個に勝手にそうなってしまっているということが重要なのである。つまり画家は絵を描いて何らかの形でそうなって欲しいと願っているが、何らかと言う部分を例えば私が谷口に私の描いた絵を見せる時に、谷口がある感想を抱くということの内容を決定するようには想定し得ないし、目論み得ないのである。つまりそのように何らかの反応を予め知ることが出来ずしかしその反応自体を得たいがために我々は言語行為をする。その何らかを固有のものとして想定も目論むことも出来ないが故に言語行為が成立するのであり、それが全面的に目論み得、想定し得た時我々は真に孤独を感じるだろう。何故ならそれが全面的になし得ないと知っているからこそ我々はそれをなし得るものを神と呼んできたのであり、我々が神になり得ないということから哲学が言語行為によって執り行われてきたからである。そしてそれがなし得るということは我々にとって言語行為を敢えてする必要がないということを意味し、映画監督は映画を作る必要がないことを意味し、俳優は演技をする必要がないことを意味する。
 すると神とは完璧なる孤独ということの別称であったということになる。つまり私たちは神ではないといことにおいてのみ共同体で成員としての意識を持ち得るのであり、神であらねばならぬのは神のみなのであり、その神になるということ自体は決して顕現され得ないものの、そういう状態に近づくことはあり得、その時我々は共同体の成員である資格を奪われるのに近い感覚を得ることなので孤独を感じることになろう。
 そのことを考慮に入れて再びカントに戻ろう。

そこで生じてくることは、わたくしが神的存在体を想定する場合、もちろんわたくしはそのような存在体がその内部に最高完全性を具えたものでありうることについても、またそのような存在体が必然的に現実に存在することについても、何ら知るところはないが、しかしこのような存在体を想定する場合には、やはり偶然的なものに関する他の一切の問題には満足を与えることができること、また理性の経験的使用において追求せられるべき最大の統一性に関して、理性に最も完全な満足を与えることができること、しかしこの神的存在体という前提そのものに関しては満足を与えることができないということである。そしてこのことによって、理性の領域をはるかに超えた点から出発して、そこから自己の対象を完全な全体として考察する機能を理性に許すものは、理性の思弁的関心であって理性の知見ではないということが証明されるのである。(B703A675~B704~A676)

この記述において最も重要な部分は「題には満足を与えることができること、また理性の経験的使用において追求せられるべき最大の統一性に関して、理性に最も完全な満足を与えることができること、しかしこの神的存在体という前提そのものに関しては満足を与えることができないということである。」であり、とりわけ「しかしこの神的存在体という前提そのものに関しては満足を与えることができない」である。 
 これはある意味では極めて理解しやすい命題である。つまりあらゆる述語をはみ出るものとしての神は、サルトルが図らずも無神論的立場から対自を考えたことからも、ライプニッツ的な意味合いからも記述された指示を跳ね除けるからである。ここに言語行為上での言葉の無力を示している。しかし言葉は同時に全く異なった考え方や、生まれや育ち、時代をも超え、例えば今私がカントという18世紀の哲学者の文章を接しているような意味で、あるいは私よりも三十歳も若い谷口と私が哲学的対話をすることが可能であるような意味で力があるのは、進化論的に弱い連係が進化を促進したこと、いい意味でのいい加減さが危機的状況にも適応し得たホモサピエンスの歴史にも学べるように、固定化された特殊状況にのみ適用される進化を逃れ、どんな時にでも必ずしも完璧ではないものの、ある程度は適応出来るという融通の利く適応をなすようにファジーに進化してきたということが人類の生存を可能としたのと同じで言語による形容がこのカントの記述にもあるように神という絶対孤独に対しては満足を与えないが故なのである。
 だから「そしてこのことによって、理性の領域をはるかに超えた点から出発して、そこから自己の対象を完全な全体として考察する機能を理性に許すものは、理性の思弁的関心であって理性の知見ではないということが証明されるのである」に示されていることとは、理性の思弁的関心とカントが形容することとは、全体とは常にそう括ってしまった瞬間に部分と化す、それはカントが「純・理」で述べた(B618A590~B619A591)の「明確な経験と、経験によって認識されたわれわれの感性界の特殊な性質から出発して、そこから原因性の法則に従い、世界の外なる最高原因へと遡る」という記述に見られる最高原因を常に遡行しようと試みてしまう全体を部分化する思惟傾向のことであり、それが取り敢えずの全体を措定せずにはおれない思弁に対する知見ということになる。カントは明らかに知見を思弁よりも狭い範囲に限定する思考であると考えている。
 続いてカントの記述を更に追っていってみよう。

 純粋理性の第三の理念、すなわちあらゆる宇宙論的系列の唯一にして一切充足的な原因としての存在体を、単に関係的に仮定するところの理念は、神という理性概念である。この理性の対象を端的に想定すべき(それ自身として仮定すべき)何らかの根拠をわれわれは持たない。そもそもこの仮定を必然的たらしめる唯一のものが世界でなかったとしたら、最高の完全性を持つ存在体を、しかもその本性上端的必然的なものとして単にその概念自身からわれわれに十分信じさせ或いは注意せしめることができ、もしくはその機能を弁明するだけでもなしうるものとして、ほかに何があるであろうか。(B714608A)

 「思惟するものはすべて単純である」という命題が証明されるべき場合には、われわれは思惟の多様性にとどまっていないで、もっぱら単純であって、かつ一切の思惟がそれに関係せしめられるところの、自我という概念を固執する。神の現実的存在に関する先験的証明についてもまさに同様であって、この証明はもっぱら最高実在的な存在という概念と、必然的存在という概念が一致していること(reciprocabilitat)に基づいており、それ以外のいずこにも求められることのできないものである。(B816A788~B817A789)

 純粋理性の第三の理念、すなわちあらゆる宇宙論的系列の唯一にして一切充足的な原因としての存在体を、単に関係的に仮定するところの理念は、神という理性概念である。この理性の対象を端的に想定すべき(それ自身として仮定すべき)何らかの根拠をわれわれは持たない」までの記述が意味するところは、実際は我々によってのみ思念されるところの全体や究極という概念が、実は端的に原因や根拠、理由を知りたいという我々の欲望に根差しているのだが、全宇宙の有り様と成り立ちを理解しようとしてもそれは一語で言い表すこともそこに何か究極の原因や根拠や理由が存在すると言い得ることさえ出来ない、つまりそのように一切の原因、根拠、理由を拒むからこそそのものを我々は神と呼び、この仮定を必然的たらしめる唯一のものが世界であるということは、世界を我々の感性が作り、その世界を通して思念上での最高実在(必然的存在)と最高実在的な存在という後者の記述の後半と「そもそもこの仮定を必然的たらしめる唯一のものが世界でなかったとしたら、最高の完全性を持つ存在体を、しかもその本性上端的必然的なものとして単にその概念自身からわれわれに十分信じさせ或いは注意せしめることができ、もしくはその機能を弁明するだけでもなしうるものとして、ほかに何があるであろうか」の中の「最高の完全性を持つ存在体を、しかもその本性上端的必然的なものとして単にその概念自身からわれわれに十分信じさせられるもの」とは同一である。つまりそれは世界が我々の感性によって作られ、その世界を通して我々は「あらゆる宇宙論的系列の唯一にして一切充足的な原因としての存在体を、単に関係的に仮定する」ことを意志し、欲望するのであり、それは私たちにとって一つの所与の能力であるが、その能力は限界があると我々が知り、その限界に対する知が、無限で、永遠なるものを神と呼ばせたということである。ここはレヴィナスの言葉を借りれば「存在の彼方へ」と常に全体を部分とする我々の悟性が運ぶのであり、その想像力こそが「「思惟するものはすべて単純である」という命題が証明されるべき場合には、われわれは思惟の多様性にとどまっていないで、もっぱら単純であって、かつ一切の思惟がそれに関係せしめられるところの、自我という概念を固執する」状態を作り出すというわけである。つまりその想像の力が理想的な把握とか理想的な納得の仕方を得るように運ぶということである。そしてその際に我々は実在し得る最高実在的存在(「あるもの」)と必然的存在(「あるべきもの」)を一致するものである筈であると考える。それゆえ「それ以外のいずこにも求められることのできない」とは、そのように一致していない場合我々は世界の中で何かを把握したとか、あることを納得したとか言わないのであり、茂木健一郎氏の言葉を借りれば「アハ体験」を得ることが出来ないでいるということになる。それは脳科学的に言えばセレンディピティーと言ってもよいだろう。チャーマーズの言う現象的なクオリアや意識は実はこのセレンディピティーを生むものの別語であると言ってよい。彼は永井均がそれ以前である生理機能的、対外的に示される行動のレヴェルを心理的と言ったことの手前(現象的内心)までを神の力の及ぶ範囲であるとしているのだ。
 
 道徳的にも最も完成した意志が、そこにおいて最高の浄福と結合し、この世における一切の幸福の原因をなしているような知性の理念を、幸福が道徳性(幸福たるに価することとしての)と厳密な比例関係をなしているかぎりにおいて、わたくしは最高善の理想のうちにおいてのみ、派生的な最高善、換言すれば叡知的すなわち道徳的世界以外を示しはしないけれども、われわれはいまや理性によって、必然的に自己をこのような道徳的世界を、われわれに対する未来の世界にとして想定せざるを得ないであろう。感性界はわれわれにこのような結合を示しはしないのであるから。したがって神と来世とは、同じ純粋理性の原理によって、その純粋理性がわれわれに属する責務と不可分に結合している二つの前提なのである。(B833A810~B839A811)

 カントは「神と来世とは、同じ純粋理性の原理によって、その純粋理性がわれわれに属する責務と不可分に結合している二つの前提なのである。」において明らかに信念の体系について語っている。それは神を信じるとか来世を信じるかにおいて全ての思考や類推や仮定が異なってくるということが私たちにはある。それは生き方の問題であり、人生に対する思想である。ヘーゲルからサルトルに受け継がれた対自とはカントが言ったこの死の瞬間まで終ぞ到達し得ない理想の自分、あるいは信念的価値の理想といったものを未来に想定することがあらゆる目的や意志を生じさせることから考えられたものなのであり、それを目指している心の状態をカントは「道徳的にも最も完成した意志が、そこにおいて最高の浄福と結合し、この世における一切の幸福の原因をなしているような知性の理念」を持つ状態と考え、その状態の持続を最高善の理想と考えたと捉えてよいだろう。
 続いてカントの記述をみてみよう。

 われわれの行状の全体が道徳法則の格率に従うことが必要である。しかし同時に、このようになることができるためには、理性が、単なる理念である道徳法則に対して、この道徳法則に従った行動に、われわれの最高目的に厳密に照応する結果を、この世においてであろうと来世においてであろうと規定するところの、起動原因を結合せしめるのでなければならない。したがって神と、われわれには今は見えないが希望された世界とを欠いては、道徳性という崇高な理念は、なるほど賛同と賛嘆との対象であるけれども、しかし企図と実行との動機とはならない。なぜなら理念は、理性的存在者の誰にも生来かつ同じ純粋理性によって先天的に規定される必然的であるところの全目的を、満たすものではないからである。(B840A812~B841A813)

 カントが言っている「われわれには今は見えないが希望された世界」とはとりもなおさず「あるべき世界」であり、この世こそが「ある世界」である。そして動因ということにおいてカントは神による恩寵である我々の存在が、神との各自の対話によって宗教という人性的な枠からではなく、行動と実践とによって各自心的充足を得るということの内に価値を見る(行動の価値が人生の価値であるところで)という根本的な理念のことを言っている。これはある意味では哲学することの根幹にかかわる行為の目的のことかも知れない。
 私は実在論的には無神論者であるが、理念的には神があってもよいと考える。それは思考空間的にも言語空間的にも思惟の自然に沿った考え方である。カントは恐らく神と来世への信仰において道徳法則を遵守することこそが実践理性的の合理性に適ったことであるというプラグマティックな考えがあったに違いない。

 道徳的法則に関しては事情はまったく異なる。けだし道徳的信仰においては、或る事情の生じなければならないこと、すなわちわたくしがあらゆる点において道徳法則に従わねばならないということは、端的に必然的であるからである。この場合には目的は不可避的なものとして確立されている。そしてこの目的はあらゆる全目的と連関せしめ、それによって実践的妥当性をえさせる条件をなすものは、わたくしのあらゆる洞察をもってして、ただ一つあるのみである。すなわちそれは「神及び来世は存在する」という条件である。道徳法則に従うことによってこのような目的の統一へと導く条件を、これ以外には何びとも知る者がないことを、わたくしはまた確信するものである。このようにして道徳的命令は同時にわたくしの格率であるから(がんらいそうあるべきことが理性の命令であるように)、わたくしは不可避的に神の現実的存在と来世とを信ぜざるをえないであろう。そしてこの信仰をゆるがす何ものもないことは、わたくしの確信するところである。なぜなら、もしこの信仰が動揺すればわたくしの道徳的法則を放棄するなどということは、わたくしの眼には厭うべきことであって、わたくしのなしえないことであるからである。(B856A828)

 神の現実的存在という語彙によってカントが現実自体が神によって作られているという想念からこれらの記述を行っていることが判明する。(第九節を参照されたし)カントによる「道徳法則に従うことによってこのような目的の統一へと導く条件を、これ以外には何びとも知る者がないことを、わたくしはまた確信する」=「「神及び来世は存在する」という条件」という謂いは恐らく実在性としての神なのではなく信念空間上での理念である。つまりカントにとって真・善・美としての神=来世の保証という信念空間上での理念は実践的な道徳行為への揺るぎない信仰という、行為性としての実在に理念を置換することを旨とした合理的思想であると捉えることが出来る。

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