Wednesday, February 3, 2010

<感情と意味>第一章 第九節 分裂された意識

 私たちの心をちょっと覗いてみよう。すると意外と対外的な自己同一性とは裏腹に私たちは自分というものがそんなに統一されていたり、系統だって存在していたりではないということに気づく。私たちはその自分という存在に対して何らかのその都度に固有の欠如と疎外を感じ、その固有の不安に対して何とかしたいと望み、そこで不安と恐怖で失われていく精神の平衡状態を何とか常に安定したものとして引き止めるためにこそ理性を持ち出し、欠如の穴埋めのために努力をし、何かが達成された時に満足感を得る。
 デューイとは必要→努力→満足ということの反復を捉えたとされる。彼の後継者の左派などはだからサルトルの投企とか企投といったことに近い倫理体系を持っていると言う。
 つまりサルトルやデューイ及びその後継者の左派たちは行動という位相で哲学を考えていたという。するとそれはデカルトのコギトとは対立していく構図にもなる。何故ならデカルトのコギトとは概して反省意識によってのみ得られるものだからだ。このことに関してミシェル・アンリは興味深い記述をしている。見てみよう。

 身体的初体験は主観性のうちに自然に場所を見出し、それらの存在をコギトの存在と異なるものとして考えることは不可能であるとさえあるというのに、なぜ身体的初体験を受け取るべく定められた場として、思惟とは別の原初的本性が存在することを肯定しなければならないのだろうか。なぜなら、少なくとも思惟を純粋な状態で考察する限りは、デカルトは思惟について、ついには思惟からこのような諸体験を排除するはめになるような観念を、心に抱いているからである。じっさいデカルトの理想は、理論的で知性的な認識のそれである。このような認識は、数学的存在についての無感動な把捉のようなものであり、このような認識のうちには、諸感情にとっても諸情念にとっても場所はない。そこから情感性一般は何か低級なものであり、そのようなものとしての思惟の純粋本質には属しえないという観念、ちなみにこれはあらゆる主知主義に固有の観念であるが、そのような観念が情感性に降格するということは、純粋思惟の本質のうちにはその原理を有しえないからには、必然的に思惟のうちに或る異他的な要素、すなわち身体が干渉することによっているのだという仮定が、生まれてくる。しかしながらこの身体は、もはや主観的身体ではない。この身体は、身体的諸体験に固有の情調性(tonalite afective)とも混同されない。この身体は、蜜蝋についての本質分析が引き渡してくれたままの、延長‐身体(物体)なのである。したがって、ここで理論の現象学的アスペクトと説明的アスペクトとの分裂が生じるのは、明らかである。それと同時に、これらすべてのデカルトの諸分析を導いている両義性が、溶解する。つまり一方ではわれわれは、その固有の心理的性格をともなった体験をもつ。そしてこの体験についてのみ、それはひじょうに明証的なので否定されえないものである、と言うことができる。他方ではわれわれは、純粋思惟の本質のうちへの延長‐身体[物体]の介入という、問題のある介入についての、たんなる考えをもつ。
 少なくともデカルトのテーゼは、コギトの次元でわれわれに引き渡される体験は、それに加えてもし思惟実体への延長実体が生じなければ、それがあるところのものではないであろう、と主張することにある。しかしここにおいてこそヒュームとともに、結果のうちには─身体的体験がひとつの結果であるとして─われわれはもはやその原因のエネルギーを読むことはない!と言うべき時である。体験はそれがそれであるところのものであり、それは完全な透明性であり、そのようなものとして絶対的な存在論的充足を持つ。思惟の本質はひとつの実体である。われわれはここではけっして、アルノーの諸異議をわれわれの責任において取り上げ直したいと思っているわけではない。これら二つの完全な諸実体の合一が必然的ではなくて、たんに偶然的であるに過ぎないということを認めるならば、いつでもひとはこれら二つの完全な諸実体が、完全であっても、それでも合一しうるのだということを、ゆうゆうと主張することができるであろう─そして人間「本性」はまさしくわれわれに、理解不可能な偶然の産物として与えられているのではないか。しかしここで問題なのは、諸実体の本性および諸特性について議論することではない。じっさいに訴訟にかけられているのは、そして訴訟にかけられえないのは、コギトの絶対的で換言不可能な価値なのである。体験の存在は、その主観的で超越論的な現われと一体になっている。この現われのうちには延長せる身体も、魂へのそのいわゆる作用も、含まれてはいない。それゆえ心身合一は、ひとつの存在論的領域を理解したいのであれば、心身合一はひとつの原初的本性なのでもない。心身合一は、デカルトの─そして他の多くの哲学者たちの─無能から帰結する、たんなる一主張である。その無能さとは、情感性が純粋思惟の本質に帰属しうるということが理解できない、ということなのである。
 ところで、まさにここには理解しなければならないようなものは何ひとつなく、確証すべき諸事実しかない。もし情感的体験(Erlebunisse)が存在するというのであれば、してみると思惟はその本質そのものにおいて、情感性でありうるのである。そしてわれわれは、このときデカルトの諸立場が逆転され、自己破壊するのを見る。ひとは思惟の本質において、思惟のうちに産出するであろうような外的作用因の作用を想定している。ひとは実体的合一についての理論を構築する。この理論の出発点、この理論の実在的根拠は、思惟の情感性という事実そのものでないとしたら、いったいどのようなものだというのか。そしてそれにもかかわらず、この理論が検証しようというとしているのは、デカルトの先入見でないとすれば、つまり思唯はそれ自身においては情感的ではないと先入見ではないとすれば、何だというのか。思惟は情感的だということが、真理である。思惟は情感的ではありえないということが、デカルトおよび主知主義者の先入見である。明らかにコギトは真理の言い分を認め、諸々の情感的思惟が存在することを示している。事実に依拠するどころか、実体的合一論はその場合、事実を否定するための、コギトによって顕示された真理すなわち思惟の情感性を否定するための、ひとつの迂回した手段以外のなにものでもない。この手段は、この思惟がコギトにおいてまさしく情感的思惟として発見されたのは、一個の偶然のせいであると主張するための手段であり、この偶然について、架空の理論が与えられているわけである。しかるに、ついにはこの理論を証明すべきときがくると、ひとはコギトに、つまり思唯の情感性に訴えているではないか!デカルトの実体的合一論の告白されざる目的は、このように、事実を否定しつつも、他方ではしかし、理論は自らを支えるために事実を引き合いに出し、理論は事実のひとつの忠実な翻訳であると自称することなのである。(同書、第五章 デカルト的二元論中、208~211ページより)

 要するに心身を合一するということの背景には心身が分裂していくという我々の心に固有の在り方があるということだ。哲学上で喧々諤々の論争が繰り広げられてきた心身二元論と一元論には実はそのように分裂している様相を忠実に記述するという態度(二元論)とそうではなく何とか決着をつけ折り合いをつけたいという態度(一元論)とが常に対峙してきたと言うことも出来る。デューイは一元論者であるし、デカルトは二元論者である。
 例えばこのことを時間論で考えてみよう。私たちは反省意識に投げ込まれる時意外と未来への気持ちと過去への気持ちは分裂している。脳科学では未来に対して志向している時は過去への思いに囚われている時に似ているという観察結果が出されている。しかし少なくともその意識内容の下では私たちはその二つは乖離しているように感じられる。何故だろうか?
 例えば何か大きな企てとか大きな催しもの、計画の前というのは、私たちは往々にして未来へと意識が向かっている。期待に胸を膨らませているということである。しかしこれが異様に他の心の状態を排除しだすと、このような精神状態を精神分析では分裂気質として考える考え方もある。その一つがテレンバッハ、木村敏氏などである。
 この考え方では過去へ意識が向かうことを躁鬱的であるとしているが、往々にして我々は何か大きな催しごとや目論見が何らかの結果を齎した後は過去へと意識が向かい、想起を多くする。つまり宴の前と後、戦の前と後ということが顕著な違いとして横たわっている。木村氏によると現在へと意識が向かっている時は何か行為に没頭している時であり、これを癲癇質と言っている。分裂質では未来へと常に意識が向かうとされる。
 何か過去においていい感触を掴んだこと、感動したこと、美味しいものを食べること、喜んだことを、喜ばれたことなどをもう一度繰り返したいと願う。そこに反復が出てくる。(過去に囚われることを躁鬱質と考えられている。)
 デューイ流に言えば必要(欠如が生む)→努力→満足といった経路を反復することを促すものは快に対する記憶である。
 そして食であれ、性であれ、読書であれ、数学の難問を解くことであれ、スポーツでいいプレイをすることであれ、名演奏をすることであれ全てこの快に対する記憶が誘引している。そしてそれを実行している時には明らかに非我とか無我状態にある。それは没我的であり、即自的である。それに対して反省意識の時には対自的である。
 しかしまた花を見てみようという気持ちになる時というのは別にただまた綺麗な花を見て感動したいという時だけでもない。何か行為している時に行き詰ったり、何か論争的な部分で厭な感情を他者に抱いたりした時になど我々はその混濁した気持ちを沈静化するために花を見たり、雄大な風景を見たりするのではないだろうか?
 それはそもそも我々の対自的な心の在り方自体が不浄であり、清廉なだけではないということを意味している。美しい絵画や音楽を鑑賞したいということそのものが意識の内部では混濁した迷いや懊悩が支配していることも多いということを我々は経験的に知っているからこそそれらを必要なものとして求めるということで説明が尽くのだ。
 そして感動とは以前あった感動と同じ質を求めると同時に、その時とは幾分違った今回にのみ固有の美をも求める。つまりドゥルーズの言葉を借りれば差異と反復を常に共存させて求めるのである。そして感動したことの質は沈潜され、沈殿し、各自固有のクオリアに対する受け取り方の差異を生じさせる。
 しかしある意味では全ての感動とは幾分何らかの形で完璧に再現されるとは限らず挫折を運命付けられている。であるが故に我々は未来へと志向することもやめないのだ。そして挫折感の強いことから来る想起では反省意識と後悔が大きく作用して、次こそまたその挫折とは違う形で実現されるべきだという意識が生じ、新たな目的とか指標が設定され直すということに直結する。
 そもそも人間が言語を持ち、全て他者に対して内心に抱く考えを語るのではなく、語るべきことを語る際に選別しているということそのものが、私たちが生活上全ての事柄を真理究明していては社会全体が支障をきたすということから社会に見られる一般的様相というものの在り方は既に決定されている。つまりそれは個の内心というものが他者存在によって既に百パーセント実現され得ないという挫折の相互の確認から社会というものが出発している、そして寧ろ社会という個の内心の挫折の集合体に対する帰属意識こそが個の内心というものをあたかもア・プリオリなものとして最初からあったかのような幻想を与えているのである。
 それを言うのなら、私たちは既にどのような親しい他者と接する時にも、他者と接することで自己内に内心として控えている全ての欲求を断念することを通して、逆に他者が一切存在しないのであれば全て実現し得る内心の欲望を一々全て実現することを決意すること自体を他者存在そのものへ向けて責任転嫁している、つまり「あなたという存在がいるから私は全てを自分のために奉仕させる使命を放棄することが出来るのです」と宣言しながら、そして一般性という偶像を他者に対して示しつつ、そうしながら積極的に自己内の純粋な責任意識を他者一般、社会一般に対してそれらを偶像化することによって偶像崇拝的逃避を採用することで神対自己という純粋な使命からの開放を無意識に欲求しているとも言えるのだ。それは惰性的な日常を受け入れることを社会的使命、例えば税金を払うとか勤労をすることを通して、権利として享受しているということである。これが世人による頽落とハイデッガーが呼んだことなのであり、一般の市民つまり世人とは積極的に哲学的究明を喜んで生活上の惰性的快楽と引き換えに放棄しているのである。
 この世人による哲学的究明の放棄こそが哲学者という特殊存在を際立たせるのであり、それは科学的無知を決め込む世人が特殊職業としての科学者を際立たせるのと同じであり、アーティスト、政治家以下全ての職業において適用される。
 何故そのような他者に責任転嫁しようと我々がするかと言えば、私たち個々が自分一人でなし得ることというのがたかが知れていると知っているからだ。そこには既に完璧な人格や能力に対する挫折と断念が横たわっている。つまりその自己に対して限界を設けるという意識こそが未来に対する意識と過去に対する意識を脳科学的には殆ど変わりないような作用であるのに心的には断絶しているように思わせているのである。つまり我々は自己を他者と断絶した存在であるかのような独我論を心的に成り立たせるということ自体で、そのように断絶させることを通して意識を切実なものとして意識させるように脳が進化してきたと言えるのだろう。そう意識することによって我々は他者を敵対者としではなく相互協力者として囲い込むのである。
 だから意識が分裂されているように感じるということ、例えばまさにアンリの言うように思惟と情感があたかも別個のものであるかのように思えてしまうということに寧ろ我々は我々の脳に感謝すべきなのかも知れない。何故なら全ての真理がそれを究明する前に理解されてしまったのなら、我々は一切の思考の努力を放棄してしまうだろうからである。
 つまり我々は個の中に多くの挫折と断念を経験しており、その穴埋めに挫折者同士、断念者同士で結束するという不思議な状態で社会をスタートさせてきている。社会をそのような理念で構成している以上、我々は個人主義とか利己主義を貫こうとしても、とどのつまり社会が初期共同体からずっとそうであっただろうが、その集団性と、協力体制そのものが逆に利己性や個人優先思想を生み出しているという側面は否めない。
 しかし興味深いこととは、意識の上ではこのように発生論的には密接に結びついている集団と個というものが極めて異質なものとして分裂しているということである。
 例えば我々は自分には出来ないことを他者が容易に出来ることを知ると、その者に敬意を払い、その自分に出来ないことに関してその者に責任を委譲し、自分はそのことに対して責任を払わない。と言うことはその自分に出来ないことに関して出来る他者は尊敬に値するし、憧れの対象であるから一個の偶像であるにもかかわらず、その偶像を大なり小なり崇拝することを通して、自己内におけるその出来なさを真摯に見つめようとしないでいる。しかしよく考えてみればこの自己内の出来なさとはその他者の優位を認めることによって逆に得てもいる自己弁護であり、逃避であるから、自分より優位にある者に対する尊敬心とは端的にその自己内の出来なさ、責任の持てなさに対する安易な自己弁解であり、それを私は偶像崇拝的逃避と名づけた。そしてそのように自己と他者とは一方で断絶していて、自己内の出来なさと他者の出来ることとは何の関係もないのに、それら同士を自己内の理解において結びつけようとすることが心理的にあり得る。このようなことも自己内で統合出来ないことに対する一切の対処を怠り、その無能力に対する打開の努力を怠るという安易な道を選択することを通して自己内での新たな葛藤(自己の無能力に対する是正とはかなりしんどいことであり、一大決心と革命的な何ものかに対する転覆と破壊と、新たな創造というエネルギーが必要である)を回避していることである。それは本来他者の能力と自己の能力とは比較し得ないものであるのに逃避したり、回避したりするために敢えてそういう時だけ比較してしまうということからして、一種の自己内の分裂である。つまり未来に向けてある可能性を閉ざすことで安易な妥協をして、一時の快楽に身を委ねるわけだから、無能力の是正と既存の能力の統合に対して、努力の回避をするために優位者に対して批判やあらゆる攻撃を断念していることであるから、能力と無能力を統合させないままで分裂したままその二つのカテゴリーを共存させておき、そしてある時にはその自己内の無能力を責任転嫁や責任逃れのための有効な逃げ道に利用しようとする狡猾さがあるのだ。
 この分裂とは好きなものに対してはいつでも好きなのに嫌いなものに対しては好きになろうと一切の努力をしないことにも言える。勿論実際には義務感で何かを好きになろうとしてもそれは不可能なのである。だから嫌いであるけれどしなくてはならないことに対して人間は自分を騙し騙ししてそれを遂行しているわけだが、しなくてもいいことは一切しないままでいるということである。そしてそのことに対して何ら後ろめたい気持ちになることなどない。つまりここでも我々の意識は好き嫌いということ、つまり選好性ということにおいて分裂しているのである。
 私たちは選好性ということを感情的な判断として、例えば思念上の論理的、説明論的手続きのことを全く異なったタイプの判断であると考えがちである。しかし恐らくこの判断もアンリによってだが思惟がやはり情感の一部である(それはかなり特殊なものであるにせよ)とされたように、哲学上での現象学と分析哲学といった分岐すらも意識の分裂が外在主義的な観察結果からすれば脳内現象的には未来と過去に対する志向が極めて類似していても、内的には分裂しているように思えるのと同じように実は殆ど同じような思考志向性における異なったタイプの表出の仕方でしかないと判断することも許されるだろう。
 ポンティーやアンリに見られる現象学的身体論は、身体的実在をア・プリオリな前提としてでも、存在論的価値評定的でもない現前化された根源的クオリアとして捉えているが、分析哲学ではより言語思惟的なマナー(そもそも哲学という俎板で何かを論じ、考えているということ自体が既に言語的営みであるということだけは現象学も例外ではない)から出発して、身体現前的クオリアを基調に捉えるというスタンスを一切取らない。つまり分析哲学ではそのスタンスを取るという行為に対して「それは寧ろ記述すること、身体を論じるということの内に含まれる」という風に考える。その点でより現象学は根源的クオリアに対する記述不可能性の実感からスタートするが分析哲学はその面においても律儀に実践することを躊躇わないというくらいの違いしかない。つまりその点の態度の取り方の違いを度外視すれば後はこの二つの流れの哲学上での実践行為は共通性の方がずっと多い。にもかかわらず我々は哲学内的にもこの二つの流れを極めて対立色の濃厚な分裂状態と認識してしまうのである。
 要するにここに説明原理の問題が浮上する。つまりアンリに見られる態度とは説明され得ぬものを認めること、そして分析哲学に見られる態度とは説明し得ないものを極力排除しようとすることである。アンリはその説明され得なさを炙り出すためにこそビラニズムを援用するのである。それはアンリの「(前略)デカルトの観点や、遅かれ早かれ思惟と延長とのあいだの相互作用を考えることの不可能性にぶつかるすべての哲学において、対峙し合う諸項についての考えのなかに、気づかれはしないが、しかしラディカルな或る変様が介入したということが、容易に見て取れる。一方では、主観的運動についての超越論的内的経験の、そしてそれのみの項である有機的身体は、純粋悟性の作用の対象たる、デカルト的本質分析が示す延長-身体[物体]になってしまった。かくして、メーヌ・ド・ビランの表明的な言明によれば、「表象されるのではなく、内的に感じられ」ていたものが、まさしく何かに表象されたものと取り違えられてしまう。」(同書、第五章 デカルト的二元論中219ページより)という箇所にも明確に示されている。
 しかしこの哲学上での二つの極への分裂ということにおいて現象学ではより説明され得ぬ部分は脳科学に対して委任するということを自然に表明してしまう。よって脳科学の側からはそれでは脳科学で説明し得ないものを現象学で補完しようというスタンスを取らせてしまう。この共謀関係は明白で、分析哲学はその点でより論理学的アプローチであるために、脳倫理学的観点からは潜在意識、無意識、暗黙知といったことを網羅しきれないという難点を現象学‐脳科学関係から訴えられることになるが、我々の生活は意思表示、権利主張といったことにおいてより顕在意識のレヴェルで全てことを運ぶ。すると顕在意識の最高原理であるところの法体系といったものを実体論的に認識する場合、勿論この場合法とは法律や憲法もそうであるが、楽譜等に代表される音楽楽理とか数学的法則とか分子式とか学名とか要するにムードやコード一般であるが、分析哲学の果たす役割はやはり決定的に否めない。

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