Friday, January 15, 2010

<感情と意味>第一章 第五節 忘却と記憶の変容、そして感情

 忘れてしまったこと、私以外の誰もが覚えていないこと、記憶していないことがあるから、私たちは「私」を今‐過去という統合された一纏まりの自分というものとして意識することが出来る。それは認知でもあるし、理解でもあるし、判断でもある。つまり忘却したことと記憶にしかと留め置くことの双方があり、特に印象に残っているものとそうではなくおぼろげに記憶しているものから全く忘れ去ってしまったものへの段階論的な差異がそれぞれあるからこそ記憶を留め置く主体としての「私」が形成されるのだ。
 もし私たちに記憶しているものと忘却したものの段階論的な差異が全く無いのであれば「私」という対他的な意味でも、対自的な意味でも自己同一性というものはなくなるだろう。つまり全てを記憶し得るということは全てをどれが印象的であり、どれが印象的ではないという差異が全くなく並列的であるということだから、それは機械に保存されているデータと同じである。しかし我々はあるものに対しては自分にとって切実なこととして、別のあるものは然程ではないものとして忘却してもよいと無意識に判断している。
 脳科学ではデフォルト・ネットワークというものが観察されており、それは自分にとって親しい家族や友人に対して最も大きく反応し、それに次いで有名人とかマスコミでよく知った顔や存在に反応し、想像上とか小説や伝説上の虚構世界の登場人物に対しては最も小さく反応するらしい。
 つまりそのような差異が脳によって判断されているということが、逆に全てのデータに対する我々の感情に差異があることを物語っており、その差異がないということは感情が存在しないということになる。しかしこの考えは哲学者なら誰でも思惟し得ることだ。それを脳科学ではfMRIによって視覚的、数値的に証明し得るということである。
 しかしもっと重要なこととは、では果たして記憶していることが不変のままであり得るだろうかという問いから言えば、そうではないだろう。と言うことと記憶が仮に不変だからと言って「私」も不変であると言い切れるかどうかという問いがある。
 つまり「私」とは恐らく常に変化している。だからこそ今‐過去の私を、私たちは自己同一性として存在を一致させている。それは無意識的な恣意である。
 あるいは不変のもののように思われる連想事実は、あるいは本当のところはその出来事が過去へ後退した瞬間何らかのその瞬間の真実が失われ、それ以降私たちは恐らくどんどんその出来事の意味を変容させて、それどころかその記憶内容さえどんどん変容させていく。変容しないままずっと同じであるということは逆に変化し続けている今の自分からすれば矛盾である。何故なら出来事が変化しないまま、自分だけが変化し続けているということだからだ。出来事が変化しないままでいても、自分が変化すれば自分と出来事の間の関係は変化する筈だからだ。だから出来事が変化しないままでいるように感じるのは、自分が変化していることを意識においてクローズアップしたいがため無意識に恣意的に出来事の方を変化しないままにしておく意図なのである。何故ならある出来事は一年前から二年前へと後退し続けているわけだから、その今から見てより過去に後退し続けていくということ自体がある出来事の意味を変えずにいるということは、絶えず同じ像を今の自分によって作っているに過ぎず、それは過去の出来事の想起であるよりは、今の自分の想像を過去の出来事を利用して行なっているに過ぎないことになるからだ。そしてその想像もその都度違うのに「また同じ想像をした」と各想像間の相同性を見出しているに過ぎない。
 恐らく自己の他人化だけを基本としたビランの言う様態的想起事実だけをある程度不変のまま残し、人格的想起事実は変容の一途を辿る。例えば私が最初に谷口に会った日の谷口の印象はその後私が谷口とメールしたり、電話したことによってその都度更新される彼に対する印象によって少しずつ過去へと後退させながら彼との最初の出会いの意味を更新しているからだ。
 つまりだからこそ私は今‐過去の自分だけを変えずにいたいと望み、変容し続けているある過去の出来事の意味そのものを受け負う立会人としての意識を形成しつつ自己同一性をそこに常に構成し続けているのである。身体的な変化とか心理的な変化ということと意味の立会人としての自己同一性とは共存し得るのだ。
 それだけではない。私たちはあの時谷口と出会った京都のファーストフード店での論議において、他の大勢の成員と共に過ごしたが、同時に各成員に対する感情を全く異なったものとして想起する。つまり成員毎に異なった想起内容を持つ。私に対して反感を抱いた成員を通してその場を想起する時と、私の意見に共感し賛同した者を通して想起する時とでは全く異なったその場の出来事(論議)の様相を得ることになる。しかし事実関係として尚私にとっての京都のファーストフード店での論議とは一つなのである。
 そしてその異なった各成員に対する感情ということから私を今‐過去の一貫した立会人としての「私」以外にも<主観的な世界=各成員の仕草や表情、意見の内容>に立ち会う「私」としながら自己同一性を得てもいるのだ。私があの時京都のファーストフード店でどの成員に対しても同じような感情を抱いているとしたら、誰に対しても共感も反感も得ていないということになり、感情を持たないということと同じである。私は私だけを特別に見ることは出来るが、他者は私以外ということで一切その差異がどうであれ大した問題ではないという主張となるとそれは独我論となる。しかしそれは世界の見え自体を客観的に捉える視点からしか得られない認識でもある。独我論は高次の言語的認識を前提する。世界の見えの内容を検証する意識とは世界の見え自体を問題化する視点(独我論もこれに含有される)の消滅を意味する。その視点の消滅が私に対して齎すものとは各成員に対する私にとってのその場での印象を今構成させる私の記憶と今の感情が想起させるその出来事、つまり論議の内容であり、論議している時の各成員の表情や仕草に対する私の想起内容である。そしてその際に私が抱いた各成員に対する異なった印象の度合いや感情の差異こそが「私」に確固とした自己同一性を与えるのである。
 そして私はあの時以来最も多く谷口と意思疎通をし、それに次いで三箇、あるいは関に対して意思疎通した。すると私にとって谷口、三箇、関そしてそれ以外という印象の強度と理解の度合いの差異を各成員に対して抱くその時での論議の場という意味合いを新たにただ単なる事実関係以外に付与することとなる。その意味づけはただ単なる過去の出来事に対する今の私による認識に、その過去出来事の認識を新たに意味づけ直すという意識も私に与えるのだ。それはその時での世界の見えに対する想起に伴った私の感情をも変え続けることになる。私が今後谷口、三箇、関と更に意思疎通し合えばその変化は更に持続する。要するに記憶の変容とは、ある事実関係としては不変の出来事に対して、その都度の更に着々と過去へと後退しつつある出来事に対する感情(想起を伴なう)の変化に伴った意味づけの更新ということを意味するのだ。
 それは身体的体験としての想起と、その身体体験的事実に対する認識とが同伴された想起と記憶内容の更新を意味する。一つの出来事に対して想起する角度によって異なった意味内容を伴う記憶の変容こそが、私に「それでも尚私はその場に居合わせたという事実においては唯一である」という意識が、私に固有の自己同一性を与えているのである。
 つまり世界の見え自体に対する想起傾向の変更が想起的様相を変化させ続けるという大きな変化自体が、それでもその出来事は私にとって一回性のものであるという私による立会い性が私に固有の自己同一性を与えているのだ。だから自己同一性とは変化し続ける想起傾向と、想起様相自体が、認識上で私を「それでも私はあの時一回限りであの時間と空間を体験したのであり、それ以外の場所にいたわけではないし、それ以上の時間を彼らと共に過ごしたのではない」という形で私が私自身に対して自己同一性を意味的にも体験追想的な確認の上でも与えているのである。となると想起とは認識的な私の自己同一性そのものの更新と無縁ではないことになる。何故そうかと言うと、私にとって一回性であった過去のある出来事とは、しかし着々と遠い過去へと後退しつつあるのだからである。つまり更に遠い過去へと後退しつつある出来事の一回性に対して事実関係的に立ち会ったということをその都度自己同一性として更新しているからだ。と言うことはいつ何時私はその出来事を忘却するかも知れないということにもなる。想起自体が認識を更新するのか、それとも認識の更新が想起を促すのかということになると、どちらの場合もあるし、同時的であることもあるとしか言いようがないであろう。
 しかしそういったある種の不確かさに支配されている我々の記憶と想起の一体性はある不変ではないということ、つまり確実に「~である」と言い切れる判断に依存してもいる。例えばその顕著な考えがデカルトのコギトであろう。全てを記憶しきれないということは、感性的な側面からの現象に関してであって、現象を支える不変のもの、それを法則と呼んでも真理と呼んでもよいが、それこそが「ある筈だ」という信念が記憶と想起の不確かさにもかかわらず、「私」が自己同一的だと我々によって判断されているとも言えるのだ。次節ではそのことを中心に考えていってみよう。

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