Sunday, January 10, 2010

<感情と意味>第一章 第四節 他ならぬ私によって立ち会われたという事実認識

 しかし不思議なことに私にとってなのだが、過去の私自身を想起する時それを様相としてそうする時確かに私は一挙に他者化する。しかし私が谷口と交わした言葉とか遣り取りを想起する時私は過去の私を谷口と言葉を交わした自分という風に世界の見えであった筈の客体としての過去の私が一挙に主体としての私、つまり今こうして文章をワードに打ち込んでいる自分と同一人物である「私」意識を発生させている。つまり端的に私は想起する時明らかに二種類の過去の私を見出すことが容易である。この考えを推し進めるとこうなる。つまり他ならぬ私によって立ち会われた谷口ということは、ある意味では想起者の特権としてそれが「私であった」と知ることが出来る。と言うことはそれが私の見た世界、私にとって確かに私の見えであった筈の過去の世界に対する目撃者としての自分ということがあるからであり、それは私の過去における京都のファーストフード店において谷口と言葉を交わしたという行為事実の当事者であるという意識、つまり「私に関する」認識事実を私が意識の上で志向した時に初めて出会える「私」というものがあるということである。永井均が想定した<私>とは意外とこのこととも関係がある気が私にはするのである。
 ここで一つの結論を最初に示しておきたい。
 それはこうである。

想起の種類
 
A自己の他者化(客体化)
  → その時(ある過去出来事)の自分の感情を既に認知した状態=過去の事実認識 から出発する自分に関する想起(対自己観察的態度)<名辞的想起>→<映像的想起>世界の見えから出発し、世界の評定へと落着する

B自己の私‐主体化
  → その時の自分にとっての意味を認知した状態(感情的様相において)で過去の事実認識へと到達する印象的な他者に関する想起(感情を伴った)からその時の自分を認識する(過去の私と現在の私の一体化)<映像的想起>→<名辞的想起>世界に立ち会ったという触感とか身体的経験記憶から出発し、印象的他者に対する今も変わらぬ感情(あるいは変わってしまったこと)に支配される

 要するに他者が絡む時には私自身は客体化出来ない。しかし世界の見え(過去に私が見た世界)という総体として過去を振り返る時そこに居合わせた自分は客体化する。
 意味とはそもそも事物や事象に対する感情が基礎となっているし、それ自体であると言ってよい。感情は対象(他者も含む)や事象と出会う主体によるそのものへの反応(情動)に対する意味づけである。だから当然一つの事物、事象、あるいは歴史的であれ歴史的にそう重要ではない私的なことであれ、ある出来事に対する意味とは個人毎に異なる。
 しかし概念は違う。概念はある程度の時間を経てある事象、事物、出来事に対しての意味づけがどのある限定された集団の成員においても、あるいはどの国家においても、どの民族においても、人類全体においても(つまりその一般性ということが適用される範囲が狭いものから広大なものに至るまで)不変であることがほぼ全成員において承知されていることのみを概念と呼ぶ。
 上記の記述では→は次のように考えればよい。要するにAは世界の見えとその場にいたことを前提としてその時の私にとっての世界(俯瞰された客観的視点における)を想起することに落着するが、Bは印象的他者に接してその者を想起している中でその時の自分はその他者への感情が今現在想起され、今現在の自分の感情もその場に居合わせたことそのものにおいても一体化するから、映像から出発するが、その時に得た感情が今も変わらないとか、あれから変わったという風に刻印的に落着する。故にその時の自分とは主観的にしか感じられず、客観的想起ではない。それに対してAは自分という存在をより客観的に想起し得るわけである。
 もっと簡単に言えば、自分がある過去の状況においていたということを想起する時自分は他人になって私による「過去における世界の見えの要素」の一つになるが、他人(他人を想起するということはその者が現在の自分にとって印象的だったということである)を通してその状況を想起する時、明らかにその者に対して抱いた感情をも想起するから、その状況における自分を客観的に捉えることが出来ず、その時の状況に気持ちが立ち戻っているということが言える。
 さて私によって想起されているのだから、当然自分が常に世界の見えの立会人である。するとその自分を他人化するということは、自分にとっての他者にとって自分がどう見えたかという意識がそこにはある。しかし自分そのものを主観的にしか見られない場合、つまり特定の他者のことを想起する時その者への感情そのものになっているということは自分自身よりはその者を通した世界の見え(に対する関心)という意識になっているので、その者が自分をどう見ているかということには意識が行っていない。他者としてのその者が世界をどう見ているかに関心が行っているからである。しかし前者の意識になれば即ち私は自分を他人化し得ているわけである。その場合その者の想起を通して、自分とその者の関係の想起へと移行しているわけだ。すると途端にAの過去の自己を客観化した自己の他人化を招聘することになる。つまりAとBはこのように常に相互に反転する可能性として存在する。
 このことと関係あるかどうかは俄かに判定し得ることが出来ぬものの、かなり的を得ているとも思われる記述を偶然的に今読んでいるミシェル・アンリによる「身体の哲学と現象学ビラン存在論についての試論」(メーヌ・ド・ビランに対するオマージュと分析的アプローチを示した現象学テクスト)の次の一節に発見したので、そのまま引用しておきたい。

 身体の根源的存在を主観的運動と規定することによって、記憶の現象学の原理がわれわれに提供される。かくして記憶の現象学の可能性は、まったく身体についての存在論的論理に依存しているのである。或る音が聞かれるとき、音響的印象が構成される。しかしここで働いている構成力能がそこに存するところの主観的運動は、ありのままに根源的に知らされる。というのもこの主観的運動は、ひとつの超越論的内的経験において我々に与えられるからである。音響的印象の内的な構成法則はまさに所有しているからこそ、私は好きなだけこの印象を反復し、この印象を自らあらたに再生し、この再生のあいだ、絶えずこの印象を再認することができるのである。なぜならまさに、構成力能の認識が構成力能の行使に内在し、構成力能の行使と一体となっているからである。音響的印象を反復するもの、それは身体自身であり、それゆえエゴである。このことは、音響的印象の構成力能がエゴそれ自身であると言うことに帰着する。私が音響的印象を反復するあいだ、私は次のことを知っている。つまり私はすでにこの印象を経験したのだということ、いま私はそれを反復しているのだということ、反復しているのは私なのだということ、そして私がうちに含まれている想起は、本来の意味での反復たる想起としての構成力能についての想起と、反復ないし再生された項についての想起たる音響的印象についての想起とに、二分化される。第一の想起は超越論的内在の次元において遂行され、それはいかなる構成の介入もなく産出され、自己自身をそのようなものとして内的かつ直接的に知る。第二種の想起は、音響的印象がそこで再認反復されるところの超越的次元に関わる。メーヌ・ド・ビランは第一の想起には「人格的想起」(reminiscence pellsonelle )の名を与え、第二種には「様態的想起」(reminiscence modale )の名を与える。(115~116ページより)

 ここでは最後の「私がうちに含まれている想起は、本来の意味での反復たる想起としての構成力能についての想起と、反復ないし再生された項についての想起たる音響的印象についての想起とに、二分化される。第一の想起は超越論的内在の次元において遂行され、それはいかなる構成の介入もなく産出され、自己自身をそのようなものとして内的かつ直接的に知る。第二種の想起は、音響的印象がそこで再認反復されるところの超越的次元に関わる。メーヌ・ド・ビランは第一の想起には「人格的想起」(reminiscence pellsonelle )の名を与え、第二種には「様態的想起」(reminiscence modale )の名を与える。」が最重要である。つまり私がアンリによるメーヌ・ド・ビラン解釈としてそれがビランへの正当なる理解であるか否かはともかく、少なくとも第一の想起とは私が言うBのことであり、超越論的内在の次元が印象的他者に対する自己の感情を通した想起であること、そして第二種とここでは言っている想起こそが私が言うAの想起であり、それは音響的印象がそこで再認反復されるところの超越的次元とアンリが言う私が言った世界の見えそのものであり、その見えは知覚的であり感情的意味づけに左右され得ない確実性のものである。だからビランの命名に従えば、恐らく私の言ったAは明らかに「様態的想起」のことであり、私の言ったBは「人格的想起」のことである。
 そればかりかこの箇所の記述は「音響的印象を反復するもの、それは身体自身であり」から「そして」(以降再度掲載箇所)までの記述はアンリが意識してか、期せずしてかはそれこそ定かではないものの、アンリがこのテクストで執拗にデカルトに対するオマージュと批判という形で示されているビランの中のデカルト的要素と、フレーゲ的先験的主体という考えが示されている。
 「音響的印象を反復するもの、それは身体自身であり、それゆえエゴである」は、明らかにデカルトのコギトを現象学的に進展させた考えであり、続く「このことは、音響的印象の構成力能がエゴそれ自身であると言うことに帰着する」もそうだし、「私が音響的印象を反復するあいだ、私は次のことを知っている。つまり私はすでにこの印象を経験したのだということ、いま私はそれを反復しているのだということ、反復しているのは私なのだということ」という箇所は記憶の力能である想起の際に我々に同時に現象される現在意識と私が「今ここにいる」という固有の感じというフレーゲ的経験主体の考えである。
 結局アンリは先ほどの文章の後に「じつは様態的想起は人格的想起に基づいているからであり、というよりはむしろ、人格的想起と一体となっているからである。」としており、要するに感情的な他者を巡る(尤もアンリは他者という語彙は使用していない)判断や記憶に対する認識を根源的なものとしている。
 何故アンリがそのように考えたかと言うと、それは恐らく「私」ということの自己同一性が、実は人格的想起の内にあるのではないかということからなのである。それは私が考えるところ他者を通した「過去の私と現在の私の一体化」なのである。
 私は今現在の自分が他でもない「私」であると知っているが、過去における世界の見えそのもの(クオリアとか意識とかを含む)が現実であることを知っているが、その見えはただ記憶そのものが実在とは無縁に構築して「それが過去のことである」と私に思わせているだけかも知れない。しかし実際私は記憶を通して今過去の出来事に関して確かに何らかの感情を抱くことも出来るし、逆に感情とは無縁にあの時ファーストフード店において私の隣に誰それが座っていたと想起することも可能だ。しかしただそれだけではそこに「私」は登場しない。<私>も勿論だ。それはデネット流に言えばただ「過去だと思われるもの」としてそれこそ大森荘蔵流に現在私の脳が勝手にでっちあげたものかも知れない。カルテジアン劇場とデネットが呼んだものをただ私が見ているだけということも可能だ。
 しかし私が谷口と交わした幾つかの言葉自体が私に喚起する感情を通して、その時谷口の目前に座っていたのが私であり、その私の感情が「今の自分」からも了解出来、しかもそのことを谷口に想起したままを告げても彼は私に「そんなことありましたか?」とは言わない。そのことをもって私は恐らく谷口が私の記憶違いを指摘しない限りで、「あの出来事(ファーストフード店で皆が語り合った)は今の自分によって捏造されたことではなく、本当にあの過去のある時点であったことなのだ」という確証を得る。
 すると今現在の自分によるあの時の状況全般に対する様態的想起とは、私が谷口や関氏、三箇氏らと交わした対話というものに関する成員に共通した認知によって確証されるも、私自身の中では明らかに「あの時谷口に私が感じた感情を今想起し得て、それを今の自分と直結し得る」という感じこそ永井の<私>であるとするなら、そういう今‐過去の自分を統合したものである「私」の自己同一性(私が私に与える)において私は谷口や三箇や関と対話するという確信で私の方から彼らに「私」を示していることになる。そしてそれに異議を誰かが申し立てない限りで私は私が私に与えている自己同一性を信頼にたるものであると私に言い聞かせることが出来る。
 確かに時には私は夢で見たことを現実であると思い違いすることもあるだろう。しかし少なくともあの時私の目の前に谷口がいて、斜め前に三箇がいたということ、谷口の隣に確かに、私のやはり目の前に関がいた。つまり過去の出来事は私が一人でどこかにいたことにおいても、私が谷口らといたことにおいても、私が今‐過去の私が同一であるという確信によって「本当にあったことである」と信じて疑わないことによって事実化されるが、その事実化もまた私が今の私とあの時の私がいつでも一体化出来るという信頼というか安心によってなされてもいるのである。そのなされ方とは私の考えるところ「あの時の私」を様態的に見る世界の見え的な今の自分による判断と、谷口といようが、私一人で歩いていようが、「あの時の私」と「今の私」が容易に一体化、そういう言葉を使用しないでも、即座にそう判断、敢えて判断する以前的に「そうでない筈はない」という了解の下に、つまりアンリによるビランの言葉を借りるなら人格的想起が容易に様態的想起を飲み込み得るという信念に基づいていると思われる。
 すると今現在の感情によっていつの出来事でも容易に判断し得るということは、ある意味では必ずその都度失われた過去の真実というものがそれこそ永井氏による「歴史学・解釈学・考古学」で示されたようにあるということになる。そしてそのことに対する自覚こそが私に今‐過去の自分が同一であるということを催しているとも言える。それは要するに失われていくものがあるけれども、常に変わらずに持続しているものもあるというその都度の心の中での決意‐信念である。となると寧ろ失われていくものが一切なかったのなら、今‐過去の自分が同一であるという意識も生じ得ようもないということにもなる。しかし同時に、と言うことはどの程度まで可能かはともかく今‐過去の自分が断絶しているという心の状態も充分あり得るということになる。そのことに関して次節では考えてみよう。

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