Sunday, January 3, 2010

<感情と意味>第一章 第二節 私の後退と浮上

 私という意識が後退している時というのは今向こうに見える魅力的な異性とか今自分がしている行為に熱中しているという状態の自分である。しかし勿論常に自分は後退しているわけではなく、時々浮上してくる。このままでいいのかとか、今これをしているがそれは本当に正しいのかと考える時私たちは「今私はこれをしているが果たして」と考える。しかしそういう時でも何物にも左右され得ない私などということなど寧ろなく、常に何かにかかわり、何かとの関係において位置づけられる私というものがあるに過ぎない。
 つまり仮に浮上することが時々あったとしてもそういう私とは常に何らかの形で私が他者や外界の事物や事象を知覚し、判断する全体的な生命活動における連関において私を何かに関係付け、あるいは常に固有の状態においてその全体にかかわる相対的な位置として考えられる私である。つまり何らかのその時々の固有の叙述の内部に位置づけられる私というものしか私たちにとって感じることも理解することも出来ない。
 確かにデカルトは「コギト・エルゴ・スム」という形で全てを疑い得ても、その疑う私自身だけは疑いようもないと言った。しかし重要なこととは疑う私とは(疑う「私」)ではなく、あくまでも(「疑う私」)なのである。
 つまり私ということを「私」たらしめているものとは、私以外の全ての他者であり、私が取る行動であり、私の考えであり、それらは言ってみれば、(他者を感じる、知る「私」)ではなく(「他者を感じる、知る私」)なのであり(「私」の考え)ではなく(「私の考え」)なのである。あるいは(「私」の取る行動)ではなく(「私の取る行動」)なのである。
 つまり私とは常に私を巡って繰り広げられる私に関するデータ、つまり行動とか考えとか一切の私が付帯している事実によって、逆に私を浮上させている、それは意識的にもそうであるが、無意識的にもそうなのである。
 しかしそうやって一旦身につけた私ということの判断は、今度はそれがあたかも常に私を中心に巡る宇宙のように、つまり「私」を太陽として回る全ての惑星のように私は判断してしまう。だが実はそこに大きな陥穽があるのだ。
 私はあくまで後退したり、浮上したりする恣意的にその在り方を意識や無意識において変更し得るものである内はさして私たちの意識全般に大きな影響を与えないものの、それが中心に位置するに至って極めて大きな精神的影響を及ぼすものなのである。
 勿論私は私意識とか私を中心として見る見方が全て間違っていると言っているわけではない。ある意味では全ての独我論において考えられている世界はまさに私の死と共に終るということを私は固く信じてもいる。しかしその見方自体はやはりあらゆる私を巡る、私の周辺に位置し、私以外の全ての他者、私の内部での心の様相全体において、つまり私を私として意識させることが出来、私を実在者として認識させることを可能とさせる意味連関において登場してきた一つの考えにしか過ぎないということが言いたいのである。
 ある意味では感情とは極めてそう容易に自分自身を意識の射程外に追い払うことが困難である。しかしその追い払い困難であること自体を成立させている当のものこそ、実は私以外の私を取り巻く世界の全て、実はそれこそが私(や私意識)を成立させているのだが、世界の見え方なのである。そしてその世界の見え方自体が私にその中の登場人物とか登場する素材として、極めて魅力的で唯一であると思念させるものとしての私を固有で特別のものとして存在させるのである。
 つまりそこにも感情が意味によって支えられているという命題が浮上する。しかし更に厄介なことにはその感情が意味によって支えられているという判断自体が、今度は逆に私の何らかの感情によって支えられているのである。そしてその時初めて私はその感情が「私」によるものであると知り、あたかも<私>がそれらとは無縁につまり世界の見え方自体を支えるものとして感じられるのである。しかし更に私はその感情も意味によって支えられという無限後退を来たすこととなる。

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