Wednesday, January 6, 2010

<感情と意味>第一章 第三節 記憶の中の私と他者

 私は私による過去の記憶に翻弄されているということも出来るが、その翻弄されているということは記憶の内容によってである。しかし一旦過去に後退したものは、それがどんなに忌まわしいことであっても徐々に冷静に見つめることが出来る。そしてある怒りの感情や悲しみの感情に包まれていた過去の私という私の記憶の中の私はその時の気持ちを誰よりも理解し得るのに、自分自身であたかも他人ででもあるかのようの客観的に思い出すことも出来る。つまり記憶の中の私は今現在の私ではないので、それは自分であって自分ではない、つまり他人に近い自分である。端的に私は私の記憶の内部であたかも自分が行なった行動や発言した内容はその時の表情や仕草さえも、自分では他人から見た自分の像というものを正確に知ることなど出来もしないのに、どこかで冷めた眼で見つめることすら可能である。
 実はこのこと自体が極めて不可思議なのであるが、既に過去の自分は今現在向こうに見える他者と同じレヴェルのものとして見られるということを示している。
 勿論今現在の自分はそのようには見ることが出来ない。しかし過去の自分とはあくまで記憶の中の、私が見た世界、あるいは私にとってその時の見え方であった「私の世界だったもの」の中の一部であり、その中の要素でしかない。勿論そういう自分を想起するということ自体が既に私の今現在の感情に支配されているわけだが、しかしその過去の自分とは誰か特定の他者が私がしていないことを、つまりその者の罪を私に擦り付けようとしているのでない限り私にとっての他者全てにとっての私と同様、極めて余所余所しく感じられる。つまりそれは今現在は実在していない、過去という記憶の中にのみ存在する幻想としての私なのである。
 だから逆に私は常に私の過去ばかり想起するわけではない。しかし実に興味深いことには私は過去の私によって得られた世界の見え自体を想起する時にこそ、より今そのように想起する自分という風に、脳内で思念する今現在の私を通して<私>を確固とした形で獲得し得ていると感じる。つまり私の中の「私」意識、あるいは永井氏の主張される<私>とは意外と過去の想起を私自身に向けてではなく、私が見た世界、私が例えば最近訪れた河口湖の様子とか、要するに過去事実として私が立ち会ったその時の私にとっての世界、見えがより具体的な形で実在するように感じさせる。少なくとも私にとってはそうなのである。これは記憶による世界の見え、つまり記憶内容そのものである世界の見えそのものが「私」意識の源として位置していると考えることをある程度説得力あるものにしはしないだろうか?
 過去の私があたかも他人のように感じるということの根拠とは実はその過去の自分を想起しているのが他ならぬ今の自分であるということを誰よりも私が一番よく知っているからである。そして記憶の中の私自身へと私の意識が向かっている時確かに私はその過去の私をあたかも他人のように扱えるし、そう扱う今の自分だけが本当の自分であるという意識を持つ。しかし一方過去の私のしたことや見たことの記憶を私はありありと思い浮かべることが可能であり、その意味では過去の私の気持ちにも容易に私はなれる。何故ならそもそも思い出せることしか我々は想起するこどがないからだ。そして思い出せることというのは切実な見えとして今の自分を構成する一部だからである。
 しかし他方私が私にとって外部のもの、つまり私(過去の私)以外のものを特定して想起する時、意外にも私はそれを見たのは過去事実における私自身であると今の私に対して規定し得る。つまり同一性認定を他ならぬ自分に向けて施すのである。その時私が想起する例えば私の友人である谷口一平の素顔というものは、意外とその時私が彼がいる場に立ち会っていたという過去事実を通した私の同一性である。同一性に対する記憶の側からの保証である。その時「私」意識は俄かに立ち上る。つまり私が私自身のことを想起する時そこにあるのは世界の見えの一部に沈み込んだ私であり、それを想起する私は世界の見えに後退しているが、私が私以外の全てにおける何かを想起する時そこに認められる私内部の意識において浮上してくるものとは「私が見たこと」、「私が感じたこと」である。
 それはその想起される対象を対象として保証する者が他ならぬ私自身であることを私が一番よく知っているからである。私が初めて谷口一平と出会った事実を私は他者から知らされ、教えられて想起しているのではない、他ならぬ私自身が誰に諭されるでもなく想起し得る人物として谷口一平が存在するという事実が突如私を他の他者全部と等価な「過去の私」に対する他人と同等であることから「私」を引き離し、私は他者全般とは明らかに違うものとして意識される。その時私は谷口一平の表情や彼が吐く言葉を実在感を伴って想起し得るものだから、私は私が見た世界の一部でありながら同時に私のその時の関心において多大な要素である彼自身の存在を通して彼と出会った京都での思い出を、つまりその時の世界の見え、つまり彼以外の全ての目撃事実を様相的に決定している。
 つまり私は今現在に去年の京都行きという思い出深い出来事を通して想起している時明らかにそこに立ち会ったのは他の誰でもない、今ここでパソコンのワードに入力しているこの自分だという意識において、過去‐現在の自分に対して他者に施すような仕方で、しかし想起と記憶とにとってもっと切実で固い絆としての同一性をそこに認めているのである。
 それは端的に想起者本人が「それを思い出すのが私である」という意識そのものが私たちの脳に与える幻想なのかも知れない。しかしそう言う傍でそう判断する私は私を私たち一般に開放して、一般的事実として語っている。と言うことはやはり「私」意識とか<私>とは行為事実に当事者の私を格下げする一つの私の他者化によって得られる実感ということになる。
 サルトルは世界の見え自体を「嘔吐」において示した。しかし「存在と無」ではその世界の見え自体を一歩引いた地点から俯瞰した。その時対自という図式が必要であったのだ。
 ベルグソンはそれより前に既に「物質と記憶」において世界の見えを構成する当のものを記憶と脳内の作用であるという地点で理解する論説を行なっている。そしてそれ以前に既に純粋持続という形で今私が述べた今想起される京都で出会った谷口一平ということを他者として、そしてその場における私にとって極めて印象的な他者として想起しつつ、その想起している自分を過去のその場における私と同一であるとまざまざと理解している。感じている。
 つまり記憶の中の私ということは私にとって私以外の全てのその場に立ち会った成員の間で、彼らとの連関で想起せざるを得ないので、それ自体一つの今構成されたその特定の過去における固有の見えである。しかし私にとってその場で印象的であった谷口の立ち居振る舞いへと意識が移行した時明らかに私は「私にとっての谷口」という意識によって想起をリアリティーあるものとして把握する。つまり谷口は谷口として存在しているだけではなく、私同様他ならぬ私によって立ち会われたのである。そしてそう想起するのが他ならぬ私であることを誰よりも私が一番よく知っているのだ。この「私にとって印象的であったその時の谷口」という意識が実は「私」意識の発端であるのなら、私にとって「私」とは私にとって切実な固有の他者、特定の他者が築くということになりはしないだろうか?
 それは記憶とか想起自体が今現在の未来をも射程に入れた感情に支配されているということと、その過去に対する想起そのものが今現在の固有の他者やその他者と邂逅した過去の出来事に対する関心によって、つまり今現在の私による過去の意味づけによって左右されているということが言えるように思われる。

 付記 ここで私が言う「私」とは他者に接することによって規定を受ける私故、<私>(永井氏的な)ともちょっと違う。それは端的に自己‐他者という捉え方とは違う。要するに他者へと固有の感情を抱く私なのであり、自‐他認識とは位相が異なるのである。

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