Wednesday, January 20, 2010

<感情と意味>第一章 第六節 カントの物自体とビランを通したアンリの身体の一性

 「私」が成立するのには必要とされる幾つかの条件がある。その一つが私の身体であるし、身体を通した私による記憶である。昨年の十一月初旬に京都を訪れたのが他の身体であるところの谷口ではなく、この河口たる私の身体であるということから、私はその立会い性の下に私から見た世界の見えを私は当然のこととして、「私の見た世界」、「私の経験した出来事」として理解する。あるいはその理解を通して私が「私」として成立していることを知る。
 しかし「私」ということが問題化されることの背景には記述の問題がある。つまり現代哲学で自己同一性が論じられるということの背景には明らかにある考えが私によるものであり、ある思念が私によるものであるという事実を支える「~がそう考えた」という考えたことの内容そのものの記述だけではなく、その内容を誰が考え、示したかという事実関係から記述する必要があるという意味での記述の問題がある。
 カントは確かに「私」による記述という風には一切記していないものの、その記述ということ自体は問題化している。勿論カントの場合それは外的に記すということではなく内的に思念すること、脳内での原記述としてである。カントの場合それは表象という形で示されている。例えば次の箇所(「プロレゴメナ」土岐邦夫 観山雪陽 野田又夫訳 中公クラシックスW42)はそれを如実に示している。(先験的主要問題 第一部 いかにして純粋数学は可能か 中の注三64~66ページより)

 ところでこのことから、容易に予知できる、しかし無力な反論が、たやすく斥けられる。すなわち「空間と時間の観念性によって全感性界がまったくの仮象に化せられるだろう」という反論である。つまりまず感性的認識の本性についてのすべての哲学的洞察が、次のことによって、つまり感性をたんに混乱した表象様式とし、この表象様式にしたがってわれわれはすべてを明確な意識にもたらす能力をもたないだけとすることによって、傷つけられたあとで、われわれによってこれに反対して、物がわれわれの感官を触発する仕方を表象するだけだから、感性は明晰とか曖昧とかいうこの論理的区別において成り立つのではなく、認識の起源そのものについての発生的区別において成り立つということ、したがって、感性によって事象そのものではなく、単に現象が悟性に反省のために与えられるということである。この必然的な是正を行ったあとで、私の説がすべての感性界の物をまったく仮象と化すかのようにいう反論が、許しがたい、故意ともいえる誤解から生じているのである。
 われわれに現象が与えられているとき、それから事がらをどのように判定するかについて、われわれはなおまったく自由である。前者、すなわち現象は感官にもとづくが、この判定は悟性にもとづく。そして問題はただ、対象の規定に真理があるかないか、ということだけである。しかし、真理と夢とのあいだの区別は、対象に関係させられる表象の状態によって決められるのではない。表象は真理と夢の両方とも同じだからである。そうではなく、一つの客観の概念のうちでの表象の連関を規定する規則にしたがった表象の結合によって、そして、表象が一つの経験においてどこまでも共存できるかできないかによって決められる。われわれの認識が仮象を真理と見なすとき、つまり、それによってわれわれに客観が与えられる直観が、悟性だけが考えうる対象の概念、あるいはさらに対象の存在の概念と見なされるとき、責任はなんら現象ではないのである。惑星の運行を感官はあるとき前進的に、あるときは逆行的にわれわれに示す。ここには偽の客観的あり方についてはまだなんら判断していないからである。しかし、悟性がこの主観的表象様式を客観的とみなさないように十分に注意して予防していなければ、容易に間違った判断が生じうるので、人々は惑星が逆行するように見える、と言うのである。しかし、仮象は感官の責任ではなく悟性の責任であり、現象から客観的判断を下すのは本来悟性のみに帰することなのである。
 このようにして、われわれの表象の起源についてはまったく考えなくて、われわれの感官の直観を、それらが何を含んでいるにせよ、空間と時間において、経験におけるすべての認識の連関の規則にしたがって結合するときでも、われわれが不注意か用心深いかに応じて、偽りの仮象か真理か、どちらかが生じうるのである。そのことはただ感性的表象の悟性における使用に関係し、表象の起源には関係しない。同じように私が感官のすべての表象を、その形式、すなわち空間と時間とともに、現象以外の何ものとも見なさず、そして空間と時間を客観において現象のそとではまったく出会われない感性の単なる形式と見なし、そして、私がこの表象を可能な経験との関係でだけ使用する場合、私が表象を単なる現象と見なすことは誤謬や仮象への誘惑は少しもないのである。なぜなら、表象はそれでもやはり真理の法則にしたがって経験において正しく連関し合うことができるからである。このようにして、幾何学のすべての命題は、私が空間を単なる感性の形式として見ようと、物そのものに付着する或るものとして見ようと、空間にも感官にもすべての対象にも、したがって、すべての可能な経験について当てはまる。もっとも、空間を感性の形式として見る場合にだけ、それらの命題をア・プリオリに外的直観のすべての対象について知ることがいかにして可能かを、私は理解することができる。そうではない場合には、すべての可能な経験について、私が普通の考え方からのこうした脱皮をなんら試みなかったとした場合と、万事は同じことになるのである。
  
 「真理と夢とのあいだの区別は、対象に関係させられる表象の状態によって決められるのではない。表象は真理と夢の両方とも同じだからである」と「われわれの認識が仮象を真理と見なすとき、つまり、それによってわれわれに客観が与えられる直観が、悟性だけが考えうる対象の概念、あるいはさらに対象の存在の概念と見なされるとき、責任はなんら現象ではない」は既に脳科学で証明され夢さえ実像として確認することも出来るだろう。また原記述としてのカントのここでの考えは明らかにデリダの「グラマトロジーについて」でパロールを基礎としてエクリチュールが形成されているという音声中心主義に対する批判として原エクリチュールを痕跡として引き受ける我々がパロールを顕現しているという発想の転換の起源という性格さえ持っている(それが後半の記述に示されている)。デリダによって考えられた差延作用とは記述の意味発生に関する時間論的差異のことであり、思念上での言語化と、発声化ということ、あるいは読ませる意図と読む意図の時間的差異をも含んでいる。
 しかしここでもカントにせよ、デリダにせよ私という意識は俎上に乗らない。確かに本ブログ次回の第七節において示されるカントの「純・理」での引用箇所には「私」という語彙は登場するが、それは殆ど添え物程度の「私」である。その意味では永井氏の主張されるように私一般としての「私」であるに過ぎない。しかしそこではデカルト主義が後退したのではない。それが前提されているということを既に言語行為上表明する意図を発生させていないし、そもそもその前提を記述することの意味を認識していない。
 「私」とは意識でもなければ、意志でもなく、寧ろ「私による意識」や「私による意志」ということの総体として顕現される唯一性、世界の見えを確認する立会い性ということであるとすれば、カントもまた一切の「私」を登場させない。その代わり彼は物自体を登場させる。彼は信念の体系を支えるもののことを物自体と呼んだのだ。しかしこれは現象学においてミシェル・アンリが身体の一性と呼んだものと極めて近い。そして勿論ここでも「私」は一切登場しない。(「身体の哲学と現象学」中敬夫訳、第四章 諸記号の二重の使用と自己の身体の構成の問題 中176~177ページより)

 このように乗り越えがたい諸困難にぶつかるようにわれわれに思えるときには、しかし、存在論的二元論おより主観的身体論がわれわれに確立させてくれた積極的な諸要素を明らかにしておくのがよい。これらの諸要素はまさしく、身体の一性およびエゴへの身体の帰属という諸問題に関わっている。じっさいわれわれは、身体の一も、身体の存在とエゴの存在との同一性も依拠しうるような根源的なステイタスを身体が受け取るのは、ただ主観性の存在論の内部においてのみである、ということを理解した。それゆえ、われわれがこの一性およびこの同一性についての理論を仕上げなければならないというときに、われわれは、唯一このような理論に根拠を与えることができるような存在論的諸前提を、ふたたび疑問に付そうなどと考えることはできない。このような理論はまさしく、身体の根源的存在の一性と、身体の根源的存在とエゴの存在との同一性とが、いわばその支配を拡げ、超越的身体の存在にまでいたることを許してくれるような諸条件をわれわれが明らかにしてしまったときに、完成されることになろう。そのとき同時に、超越的身体の存在と主観的身体の存在との同一性が、堅固な根拠を得ることだろう。それゆえわれわれは、解決の全要素を手中に収めていることになる。つまり二つの存在諸領域の二元性と、身体の存在の一性およびエゴへのその帰属とである。しかしながらこの一性とこの帰属とは、絶対的主観性の圏域の内部に設えられ、根源的には身体の主観的存在にしか関わらない。もしわれわれが自らに立てている問題が、如何にしてこれらの存在論的諸規定が超越的身体の存在にまで拡張されるのかという問題であるならば、われわれは今からすでに、次のことを理解している。つまりこのような拡張は、身体の根源的存在に依拠しなければ行なわれないであろうということであり、超越的身体の存在にまで拡張されうるのかという問題であるならば、われわれは今からすでに、次のことを理解している。つまりこのような拡張は、身体の根源的な存在に依拠しなければ行なわれないであろうということであり、超越的身体の一性およびエゴへのその帰属は、主観的身体の根源的存在を根拠として、主観的身体の一性およびエゴへのその帰属を、すなわち根源的には絶対的内在の領域という或る特定の存在論的領域の専一的特権であるような存在論的諸規定を根拠として、構成されるのだということである。少なくとも以上が、長々とした諸分析がわれわれに教えてくれたことである。これらの諸分析は不毛に思われたかもしれないが、われわれは今やこれらの諸分析が、身体についてのわれわれの分析がその内部で行なわれているような存在論的諸前提を正当化することをめざしていたのだ、ということを理解する。そのためわれわれは、これらの諸前提は自己の身体の構成についての理論を、解きほぐし難い諸困難のもとに導くのではなくて、むしろこの理論が必要としている諸要素を、この理論に提供してくれるのだということを示したのであった。これら諸要素がなければ、われわれの身体の一性という問題は、立てられさえしないであろう。

 問題なのはカントにしても、アンリにしても信念の体系を支えるものとしての物自体は「私」である必要はなく、私一般において適用されるものであるし、そうであるべきであるということを考えているのだ。カントとアンリの指摘を前面に出せば、寧ろ「私」はロボット工学から脳科学を考える前野隆司氏の意識そのものが幻想であるという考えを援用すれば、脳が私たちにそれが唯一のものであると幻想させるものとしての「私」という見方が立ち上がってくる。
 「プロレゴメナ」での言葉を借りれば、まさに「単なる仮象と見なされるのを防ぐ唯一の手段」なのである。そして同じことがアンリの上の記述によって身体の一性として挙げられているのだ。しかし同じアンリにおいても次の記述は「私」、引いては永井均の<私>に極めて近接している。

 (前略)もちろん問題なのは、表象された差異ではなく、あるいはむしろわれわれの自己の身体の表象と外的諸物体の表象とのあいだの差異ではなくて、われわれによって根源的に生きられるがままの、それを経験する主観的運動に与えられるがままの身体や諸物体、そういう身体と諸物体とのあいだの差異である。(同書中178ページより)

 有機的身体の存在が、それを支えてそれを担うためにそれに向かって身を差し出すエゴの生によってしか、そのようなエゴの生においてしか具体的存在とならないということ、このことにひとは異論を唱え、この命題を逆転しようとか、あるいは少なくとも、エゴと有機的身体との二つの存在のあいだに或る対称を確立しようという気になるかもしれない。対称を確立するというのは、両者の関係のみを何か具体的で絶対的なものとすることによってであり、この関係の両項の各々のうちには、それだけでは抽象的で、地項を指示することにおいてしか実在的とならないような要素しか見ないということによってである。もし主観的運動の超越的作用がなければ有機的身体の存在はないというのであれば、われわれは逆に、根源的身体の存在はそれだけでは存続しえず、反対に、それを有機的身体の超越的存在に結合する超越的関係においてしか存在しない、ということを認めなければならないであろう。存在論的内面性と[超越的に]顕現された存在とのこのような連帯性のうちにこそ、この連帯性が表現する関係がともに還元を免れ絶対的な諸項として、あるいはむしろひとつの絶対的な関係の両項としてわれわれに与えられることの理由が、存するのではないか。
 しかしながら有機的身体が還元の一撃のもとに落ちないということは、けっして有機的身体の根源的存在と同じ存在論的位階を有しているということを意味してはいないし、また絶対的主観性の存在論的充足が簒奪され、いわば移動させられて、もはや内在の圏域のうちにではなくて、主観性と存在との交換地帯のうちに位置づけられに来なければならななくなる、ということを意味しているのでもない。その場合この存在論的充足は、このような地帯の本質および根拠を構成することになってしまおう。たしかにこのような交換地帯は存在し、われわれはそれに現象学的隔たりの名を与えてきた。しかしわれわれはこのような地帯が或る根拠を要求するということ、そしてこの根拠はまさしく主観性の根源的真理の本質のうちに存するということを、知っているのである。それゆえ主観性は、それだけでは抽象的に留まるような一項ではない。主観性は或る超越的な関係によって有機的身体の超越的存在のうちに自らの実在性と自らの完成とを見出すどころか、反対に、この存在の根拠なのである。この存在は、主観性がそれへと向かって自らを超越する項として、われわれは主観性の限界として現われるが、しかし、やはり主観性に帰属する限界としてである。(同書中185~186)
 
 問題なのが表象された差異(われわれの自己の身体の表象と外的諸物体の表象とのあいだの差異)ではなくて、われわれによって根源的に生きられるがままの、それを経験する主観的運動に与えられるがままの身体や諸物体とのあいだの差異だということが、表象されることで一般化されるのではない形での「今ここにいる」という感じ、即ち永井均の主張する<中島的な「この私」>という対外的説明可能な指示性としての「私」ではなく意識やクオリアがそこに宿るところの世界の根拠である<私>であると捉えても間違いではないだろう。
 あるいは有機的身体が還元の一撃のもとに落ちないとは、けっして有機的身体の根源的存在と同じ存在論的位階を有していると意味してはいないし、絶対的主観性の存在論的充足が簒奪され(移動させられて)、もはや内在の圏域のうちにではなく主観性と存在との交換地帯のうちに位置づけられに来なければならなくなる、と意味しているのでもない
とは有機的身体が非還元的であるのは超越的な存在論的表象として有機体があるのでも、存在論的に決着がつき、内在的ではない形で存在と主観性という認識間の乖離を穴埋めするかの如く解釈されているというのでもないという主張であり、主観性は、それだけでは抽象的に留まるような一項ではなく或る超越的な関係によって有機的身体の超越的存在のうちに自らの実在性と自らの完成とを見出すどころか、反対に、この存在の根拠であるという主張は超越的認識によって有機的身体の意味として実在性と自己を完成させるということが問題なのではなくこの試み(超越的認識)を育むもの(根拠)こそが主観性であるということであり、それは「私」の感情は私一般の感情に説明レヴェルでは置換し得ても、その置換自体が<私>によってのみ理解され得る実存によって喚起されていることを知れば、このアンリの主張は確かに永井均的<私>と不可分ではないどころかそのものということになる。

 最近私は国立西洋美術館まで「ルーブル美術館展」を観て来た。その際に展示された多くの17世紀に描かれた絵画の中でも特に風景画に私の視点は釘付けになった。そこに展開されたものとはまさに光の表現だった。それは薄暗がりである暗雲から光が差し込んでくるような様はまるで創世記での天地創造を彷彿とするものたちである。
 しかしその後西欧アート史において印象派が登場するが、それは光を追い求めてきた画家たちの一つの必然的な帰結でもあったと思う。つまりアート自体を形而上学的に捉えると、光とはまさに神のことなのであり、そこに時間が厳然と控えている、時間自体が神による恩寵であると彼らが考えていたかどうかは定かではないが、重要なことは時間が我々に記憶と想起を喚起しているのだ。そして神と時間との間に身体があると考えることも出来る。
 するとカントの物自体とはまさに我々が生きていく指針とすべき倫理的な光であると言ってもよいだろう。それは永井均が「意識に包まれる身体」という考え(「なぜ意識は実在しないのか」)をした時私たちに提示される倫理的光を連想させるような意味合いにおいてである。
 しかし現象学ではメルロ・ポンティーもそうだったのだが、身体ということを神から切り離しているように見えるし、身体自体を光として捉えている、それはベルグソン的なエラン・ヴィタールに近いものとして考えられている。この時アンリによって考えられた光は身体と合一するようなものであるということから考えれば永井の<私>はアンリの身体の一性とは対立していかざるを得ない。つまり<私>に身体は先験するのか、それとも身体が<私>に先験するのかという問いが生じる。
 しかし恐らく実在的には<私>は発生論的に言っても意識されざる能力としては身体と常に同時的であるだろう。しかし思念上では確かに<私>の方が身体に先験しているように見える。だがそれは外在(主義)的に言えば脳が我々に幻想として与えているという風にも解釈出来る。
 カントの物自体はある部分では極めてエックハルトの無という考え方に近い。そしてそれはここで言うところの光にも近い。しかし現象学で言うところの身体は「身体とは、記憶なのである」(第三章 運動と感覚作用 中141ページより)というアンリの謂いを借りれば、そしてそれが更に「身体が記憶だからこそ―確かにまだ過去の観念があからさまではないような記憶ではあるが―身体は過去を自らの思惟の主題としつつ過去を思い出すような記憶でもありうるのである。われわれの身体の根源的な記憶は、習慣である。(中略)われわれの身体は、われわれのすべての諸習慣の総体なのである。」(同中146ページより)と発展してアンリに言わせるものとして考えれば、意識や意志をも包むものとなるし、「現出の本質」においてアンリが示した光とはそこ(身体)から汲み出す我々の能力ということにもなる。
 カントは物自体ということにおいて決してそれを能力とは言及していない。恐らくカントはそれを媒介と考えているのだろう。するとカントにとって感性によって育まれる認識やそれによって構成される世界とは自由意志そのものということになる。勿論カントは意志という語彙を使用していない。カントにとって世界とは身体や意識と切り離されているのだろう。しかしその切り離されていること自体を知ること、あるいは世界そのものが感性によって構成されていることを記すために物自体が持ち込まれたのである。
 しかしアンリにとって身体とは持ち込まれたものでは決してない。それはそこから全てが出発する根源である。しかしそれはよく考えてみれば意識の発生論的にも、意志の発生論的にも最も自然な考えである。これに対してフッサールは依然カント的物自体、つまり信念の体系を支える媒介項として身体を考えていただろうし、アンリの言うビラニズムとしての実在的身体と超越的身体の一性ということで言えば、明らかに超越的身体を優先していたと思われる。
 
 しかし私たちは哲学をどのように考えたらよいのか戸惑う時がある。それは哲学者がテクストで言説として示した考えが、彼自身の信条と一致しているかと言うとそうとは限らない、いや寧ろ反対の考えを持っているが故に、その正当性を検証するために敢えてテクストで示したような真理を提示したと言える場合も往々にしてあり、その意味では哲学とは極めて真意の表出とは縁遠い懐疑主義的な営みである。そしてその真意と戦略の齟齬に対してある種の論理的な意味でも、倫理的な意味でも納得出来ない時に私たちは哲学的営みに戸惑うことがあるのだ。またそのような齟齬をきたしているように読み取れるテクストも多く存在するからだ。
 例えばウィトゲンシュタインは「哲学探究」で示しているような意味で私的言語を信奉していたわけではなく、最終的にそれを論駁するために書いているというのでも恐らくない。つまり彼は完全に最初から「私」を認めてなどいないのだ(勿論それは理性論的な考えからである。心理的には彼は永井氏の言うように独我論病だったのだから)。だからこそ敢えて私的言語を考える必要があったのだ。そしてそう考える必要の部分だけを我々は受け取ればよいのだ。
 それを言うならサルトルは本質的に死後の魂とか、霊魂とかを一切認めていなかったことがテクストでは伺えるが、それは彼が本当はそういう心理に陥りやすいということを自ら知っていて、それを未然に防止する意図だったかも知れないという憶測も私たちは持つことが出来る。しかしそれは仮に彼個人の生活における真実であったとしても、哲学的には大した意味がない。サルトルが霊魂の不滅を一切信じていなかったということがテクストに示されていることの方が重要である。
 しかしサルトルの絶対的自由意志論の背景には死後の世界とは無であり、世界の無ということが絶対的即自であるということから言えば、アンリのビランを通した実在的身体とは即自的なものであり、超越的身体とは脱自的である。カントの物自体は対自的である。
 サルトル流で行けば、「私」とは「私の行動」であり「私の行為」であり「私の考え」である。そしてそこには理念的に自由が横たわっている。だから永井流の<私>はサルトルには一切無縁である。中島義道の「この私」の方が寧ろサルトルの絶対的自由意志論的なニュアンスがある。サルトルの「自我の超越」という考えには自我が超越してあること自体の確認だけでなく、自我を脱自するという意味での超越ということのもう一つの意味合いがある。それは「そうであること」から「そうであるべきこと」としての対自の表明が宿っている。
 しかし「私」ということに格別の意識を持つことは寧ろ「そうであること」の方により加担していると言うことが出来ないだろうか?
 つまり「そうであること」を加担することは、「そうであること」が本来時間論的にも自由意志論的にも「そうであるべきこと」と常に隣接していて、その二つが容易に二分することすら不可能な地点に現存在が立たされてあることを敢えて無視することでもあるからである。
 例えば「言葉が持つ力故に我々は意思疎通し得るのか」という問いと「我々が何かを伝えたいからこそ我々は言葉を使って意思疎通し得るのか」という問いは常にどちらか一方を加担することが不可能なくらいに背中合わせである。その意味では「そうであること」を「そうであるべきこと」から極端に分離するということはある種の存在論的神秘主義に傾斜していると言うことも出来る。カントは恐らくそのような傾斜を一番避けたかったのだろうと私は思う。そして全く観点は異なるが、現象学もまた一方に傾斜することを回避することを常に志向している。
 次節では永井均の<私>とはどのように現出して、どのように有効であるか、あるいはどのような形で批判すべきものであるかということについて引き続きカントとアンリを手掛かりに考えてみよう。

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