Monday, January 25, 2010

<感情と意味>第一章 第七節 永井均の<私>は有効か?<私>の形而上性は一般性を超え得るだろうか?

 永井均の<私>とは端的に私一般では全く記述しきれない、と言うより記述自体を無効化する以外ないようなタイプの現象的な私意識、つまり独我論的な「私」である。それは「<私>のメタフィジックス」から「なぜ意識は実在しないのか」まで一貫したスタンスである。
 しかしそれは極めて興味深いことには、ある切実さを常に伴っている。
 例えば人の痛みは理解することは出来るが、体験することは出来ない。が、逆に自分の痛みは他者にとってはどうでもいいことでも全く自分の内部では払拭することが出来ないという意味で切実である。しかし「私の痛み」であるならそうであるが「私の痛みを持つこの私」ということは切実さ自体から引き出される観念である。観念にはそれが自分のことであっても客体化されてしまっているので、全く切実さはない。そしてそれは現象的な「私」というよりは「現象的な私」である。
 しかし私(河口)にとって永井均氏の「私」は少なくともテクスト記述的には「現象的な私」に読み取れてしまう。例えば「私の痛みを持つこの私」ということは記述し得ないということを承知で敢えて記述しているという永井氏のスタンスからも明白だからだ。 
 と言うのも言語活動というものは総じて何らかの言葉(語彙、言説)を語る時、既に永井氏もしばしば主張されているように<私>から「私」一般へと転換されているからである。「私は~である」と語る時、明らかに<私>とはあなたにも理解出来るものとして一般化されている。しかしその時私たちは戸惑う。どうしても<私>は「私」以外には感じることも理解することも出来ないものか、と。その苦悩を永井氏は「私」ではなく<私>という形で示したわけである。
 しかしそう言いながら<私>をもそれが示された時点で既に一般化されざるを得ない。しかし永井氏が主張されたいこととはある切実さを伴ったものである。しかしその切実さ自体は、「せ・つ・じ・つ・さ」と語られた時既に<私>の切実さから<<私>の切実さ>という風にカテゴライズされ一般化されざるを得ない。それが厭なのなら、永井氏は一切の文筆活動を停止せざるを得ない。つまり切実さ自体が明文化された記述行為を既に前提しており、そうでなければ我々は感覚として切実さを持っても、それを他者に語ろうとはしないだろう。
 ダニエル・デネットは、人間とは言語を所有しているがために、そしてその言語と共に他の動物と違って自らの来るべき死を想定し得るがために、痛みが言語を所有していない他の動物よりも倍加されると考えている。(「解明される意識」青土社刊)しかしこれは感情的な意味合いではそうであるが、感覚的な意味合いでは違うだろう。つまり人間が他の動物と違って痛み自体が倍加されることとは、端的に自己保存欲動的に不安、心配という感情によってである。しかし感覚的にはどの動物も痛みの切実さはあるだろう。(しかしこれも本当は証明され得ない)だから人間の場合逆に致命傷であると思っていたことがそうではないと分かった途端に痛みが軽減されるということはあり得る。しかし重要なことは、この感覚的切実さと永井氏の論旨である<切実>さとはまた微妙に異なっているということである。もう一つ重要なこととは、デネットが言うようなことが正しいとしても、その痛みの切実さを噛み締めているだけではなく、それを語ろうとする時、切実さは「切実さ」となり、端的に言語認識的な把握となり、言語中枢的な高次機能による産物ということになってしまう。それが意思疎通の宿命だからである。そして永井氏は明らかにその高次機能を前提して<私>を一般化し得ないものとして一般化している。
 だから永井氏の論旨自体は実は例えば次のような小浜逸郎氏の記述と相同の真実を語っていることとなる。

 いったいに、恋愛感情は、その目標を一人の他者においている。彼(女)が恋愛感情の虜にあるとき、その目標である個別の相手は、彼(女)の目に、ある絶対的な価値を体現する感情的対象像として映っており、それに対して自分のほうは、そこになかなか到達できないといういらだちと不安と分裂の感情状態に置かれていて、自我のこの「いらだちと不安と分裂」に過剰なほど親しんでしまっている。それは、人間が、それぞれ「絶対的な主観性」(=独我論的な視点)の立場から逃れられないからである。人間の身体と心は、共感の構造と志向性を抱えつつも、なお他の主体の心と心身の完全なる合一を実現することができないという、宿命的な二重性のうちにおかれている。(「人はなぜ働かなくてはならないのか」中第六問 人はなぜ恋をするのか 164~165ページより、洋泉社新書y)

 小浜氏の主張される二重性とは共感し得るという心的力能と、共感し得るもそれが自分自身に降りかかる切実さとしては一切無であるという他者と自己の壁を実感し体感し、理解する力能の相反する作用の共存ということである。
 しかし恐らく永井氏ならこの記述は<私>ではなく「私」一般として語られているに過ぎないと述べられるだろう。永井氏は記述されたものと記述する者の乖離を問題化しているように思える。記述する者は「記述されること」を体感している。そしてその体感を他者に伝えたいと望む。しかし体感自体は私の身体に私以外の人の魂が入らない限り体験し得ない。いや私の魂が抜けてしまった時その身体(本来は私の身体である筈の)を通した体感は私の体感と呼べるであろうかという考えそのものが永井氏の哲学である。だから結局身体自体が私以外の魂によって占領されてしまったとしても尚、私の魂によって感じられる体感は例えばあなたには体験されよう筈もない。これが永井氏の哲学の骨子である。 
 すると永井氏の哲学では自らの魂とは身体という物性とは別個に存在し得るという形而上性に則っていることになる。つまりそこが全く現象学者であるアンリの「身体の哲学と現象学」と異なっているところである。尤もアンリも最晩年は「受肉」などのテクストで大幅にそれ以前の考えを修正しているので、そこら辺は本論では思い切って無視することとする。
 ここで二つのことが問題化された。それは永井氏の<私>は果たして記述の上では有効かということと、<私>が私の身体と切り離されても尚可能であるようなものであるなら、それを<私>の形而上性と呼んで差し支えないことになるが、それは果たして形而上性であるということから、<切実>なことと言えるのだろうか、それは「せ・つ・じ・つ」であるということを通して言語中枢的高次機能的な認識による「切実であるように幻想する」ことによるアポステリオリな理解であり、<切実>なこととは全く違うのではないかということ、この二つの問いである。

 しかしそう問うてみても尚永井氏の問題提起自体は有効であると言える。何故なら私をはじめ永井氏の論旨、哲学的骨子をこうして問題化することを通して私たちは<私>が幻想であれ、実在的なことであれ論究することが可能だからである。その意味では確かに永井氏の記述は成功している。しかしそれが成功すればするほど永井氏が体感していることの伝わらなさは「容易に伝えられてしまう」という現実の前で説得力をなくしてしまう。だから次のことが第一の問いの単純な結論である。だから<私>とは私によって感じる分には有効であるが、それを言語化することによって一般的に理解するという分には非有効である。
 しかも永井氏の現象的な「私」意識=<私>はそれが根拠であるという意味で(アンリもまた主観をそう捉えている)全ての出発点のように私たちは永井氏の言説上でそう感じさせられてしまうにもかかわらず、よく考えてみると永井氏固有の「伝わらなさ」という言説の前で一般化された概念として理解することが可能となってしまう。それは現象的「私」という意味である<私>というものが哲学的思惟の産物であるという前提によって育まれた言語的営みによるものであるという考えを抱くに至って、そう捉えられる段になって当初の体感と著しく乖離してしまうという運命においては永井氏も他の全ての哲学者と同列であると証明してしまうことになるのである。しかし実はそう書いている私自身も永井氏の<私>の虜になっているということからこの論説を試みているわけであり、永井氏の問題提起を引き受けてもいるのである。そして引き受けるということは永井氏の哲学的骨子を批判対象とせざるを得ないということを意味する。
 しかし永井氏の考えでの最もアンリの「身体の哲学と現象学」との違いは端的に身体自体を意識に包まれるものとして考えているということである。アンリは身体の体感自体を意識以前的な永井的<私>の起源と考えている。だから逆に永井氏が身体より上位の私を<私>と捉えるのならそれは魂という風に言い換えてもいいことになる。ここに永井氏の<私>がまさに形而上性を帯びていることの根拠がある。アンリの「身体の哲学と現象学」の論旨においては、身体が死滅すれば魂も死滅することになる。しかし永井氏の哲学においてはそうではない。そしてそれは「私・今・そして神」において捉えられているように他人の気持ちになって考えるということが可能であると考えることを自然であると思っていることにおいて私たちが神を信じているということになる、という氏の主張を適用すれば、それ(他人の気持ちに本当になれるということ)が不可能であると認識することによって無神論が成立するのなら、無神論とは人間の魂を信じる営みであるという弁証法が成立する。何故なら私は私の魂からしか発言しようもないから、他者の魂がどうであるということを想像することは出来ても、「真にその他者が体感するようには」理解することなど出来ないのだから、人の気持ちになって考えることが出来ると考えることは人の魂に自分がなれると考えることだから、それは魂という語義と矛盾することとなるからである。何故なら私の魂とは他の人には成り代われないということと同義だからである。と言うことは無神論であれ有神論であれ神の存在においても非在においてもどの道魂ということは避けられようがないという結論になるのである。
 この節の第二目目の問いに答えるとすると、魂というものを認めることによって我々は初めて<私>という形而上性が記述における一般化の宿命から逃れられるということになるのである。それは永井氏の論旨に明確に示されている。(「魂の対する態度」その他)そして第二目目の問いを持ち出した時初めて永井氏の主張したいのにもかかわらず無効化される記述の夢魔から開放されるのである。となると今度は魂という考えは有効かという問いが、魂が存在し得るかという問いとはまた別個に問題化されたことになる。
 しかしその問いは結論まで持ち越すことにして、本節において考えられたことを、ではカントはどのように捉えていたのだろうか?そのことについて次節では考えてみよう。

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