Tuesday, May 25, 2010

<感情と意味>第三章 第五節 神と不浄

 世界は最初、神や存在と分かち難いものとして実感されていたと私は述べた。しかし世界が「世界」となり、「私たち」にとってのものとなった時、明らかにそれは「私たちによってよく知られる世界」であった筈である。だからこそ逆に「私たちによってよく知られない世界」の存在も同時に誕生していた筈だ。しかしそれすらもお見通しの存在があってもおかしくはない、その時神は想念上では出現していたのだ。
 キリスト教の神の概念以前的にもそういう意味でなら、私たち日本人にも「カミ」はいた。それは不浄と言う観念と密接に生み出されてきたのだろうと私は思う。つまり努力しても報われないこと、全てを飲み込むくらいに無情な自然の脅威、不条理的、理不尽な現実が公平や平等と言う観念も生んだだろうが、それらの観念が定着した時とは、不浄という相も変らぬ現実への認識が定着した時でもあった筈だ。
 観念としての理想は不浄な現実、あるいは現実が不浄であるという認識が生んだ、と言うより同一の基盤を持っていると考えられる。不浄と理想は同時的発生のものであろう。
 すると理想を具現化するところの神は恐らくどの民族においても想念されただろう。神とは日本人にとって自然の守り神という側面も大きかっただろうが、少なくとも日本人にとってもユダヤ・キリスト教徒たちやイスラム教徒たちと同様どこかで永遠と言う想念と結びついている。勿論私たちは欧米人ほど永遠と言う想念に囚われていない。それでも観念上では永遠を理解出来る。だから必然的に神とは偶像なのである。理想もまた偶像なのだ。それは私たち全てに対しての他者であり、大いなる責任転嫁をし得る対象なのだ。
 つまり神という偶像は人間にとって絶対的他者の別名であり、絶対的孤独の別名なのだ。つまりだからこそ私たちはデカルトが「私」を持って神に拮抗したことの意味を噛み締めることが出来るのだ。それは神が絶対的孤独であることを知っているから、では私たち自身は確固とした孤独であり得るのかという問い、つまり自分が自分を作るという意味で自己の神足り得るのかという試練としてコギトは私たちの前に立ち塞がっているのである。
 しかしそのように自己の神足り得るコギトの前には、コギトという窓から見た「世界の見え」に対して不浄であると認識する主体としての「私」がいるということ、つまり自己の神足り得るか否かということは、そもそも「世界の見え」自体を構成しているのが「私」であり私の身体であることを知らなくてはならないが、私の身体は確かに私が作ったのではない。やはり私の両親であるが、私の両親も私を作る能力自体を作ったわけではない。するとそこにもやはり人類にとって神が立ち塞がった根拠が見えてくる。私は格別有神論者ではない。従ってその能力は自然に付与されたと感じる。しかしその能力を付与したものがたとえ神ではなく自然であったとしても、自然自体はやはり神的存在によって作られたと思えてしまう。勿論そうではないだろう。それは私たちの思惟の一つの傾向でしかない。自然は自然によって作られたのでも、自然自体で生まれたのでもなく、そもそも既にあったものなのだ。いつ生まれたのか、宇宙が生まれたということはあるかも知れないが、その宇宙が生まれるために生まれられるものとしての「世界」はあったのだ。そこでカントの「純・理」中、第四二律背反が想起される。それは世界の素地だったのかも知れない。宇宙が誕生する以前にも別の宇宙は存在し得たのかも知れないが、私たちにとっての宇宙と、それ以前の宇宙に何ら空間的な関係がないのであれば、それは時間的にも私たちの宇宙と相関性は皆無であろう。そして無関係であるのなら、宇宙Aが存在した事実と、仮に私たちの宇宙が存在Bであるとして、それらの間を関係づける何ものもないであろう。そもそも私たちは私たちや私たちの宇宙全体を存在であるとしたものと、そうではない存在とを比較したり、相関性を確認したりすることなど出来はしないのだから。
 断っておくが、その比較や相関とは、今眼前にあるパソコンと電話という存在しているもの同士の比較や相関とは訳が違う。何故なら私の眼前にあるパソコンと電話はあくまで私たちの知る空間内での出来事でしかないからである。
 つまりそのように存在を別の存在と比較したり相関性を論じたりすることが出来ないということが即ち世界が不浄であることの証拠である。何故なら私は既に首と顔の付け根が痛いとかそういう不具合という現実を離れた私であることが出来ないのだから。だからこそ思惟において思念において神を我々は想念上希求するのだ。それは認識上ではない。想念上なのだ。つまり想念上では私たちは神の如く自分を、自分の肉体から離れるということを想像出来る。勿論幽体離脱的な経験を持つ者ならいる。しかしそれはあくまで例外的なこととしての経験なのである。常に恣意的にそれが可能であるようなものとして神を想定し得ても、我々は実はそういう能力保持者にはなれないのである。そのなれなさが、そのようになれることを我々に神と呼ばせる。神のみが存在=宇宙Aと存在=宇宙Bという想念を確実性の下にあるかないかを見ることが出来るのだ、と私たちはするのである。
 しかし仮に私たちが住むこの宇宙を存在Bとする(それは私たち以前にも私たちの存在とは何ら無関係な別の存在として宇宙があったかも知れないという想定の下にそうしているのだが)と、それが誕生したのが仮に百億年前であるとして、ビッグバン以前には何も存在していなかったことになり、そしてそれ以前に別の宇宙が存在Aとして存在していて、その存在ごとある日消滅したとしたら、その間、つまり存在Aと存在Bを存在せしめる間が仮に一秒であっても、一兆年であったとしても無時間であるのと同じことになるだろう。何故なら何も存在しない状態では時間そのものが存在し得ないからである。すると何も存在し得ないということを挟み、存在Aと存在B(私たちが住む宇宙)との相関を確認し得る存在者という仮定(思念、想念)は矛盾を来たす。従って神は存在し得ないということに論理的にはそうなる。だから神は不浄であるなら存在し得る、という認識を持ってしまう。しかしそれは神が存在して欲しいと思う我々の思念能力がでっち上げてしまう一つの思惟傾向であるということにもなる。あるいはこう言ってもよい。神が存在し得たとしても、それでもそれは無限の能力を保持しているわけではない、と。そして神のなし得る能力は有限である、と。
 <付記 神がもし不浄であるなら存在Bにとってのみ神は存在し得る。しかし全知全能の神が存在するならそれは必然的に存在Aと存在Bを超越的視点から俯瞰し得ねばならなぬ。が存在Aと存在Bは事実上何の実在的関係を持たぬとすれば、それを超越する視点を持てる存在はあり得ない。それは「神が存在する」という定義を矛盾させる。しかもそもそも神が不浄であるという仮定そのものも神は絶対に不浄であってはならぬという我々の語義とも矛盾する。従って神は実在せず、我々の情報概念でしかないと言い得るのだ。>
 すると神は偶像であるし、私たちの知らない存在Aも偶像であるが、偶像とはそれが存在し得るということが確証し得ないものも多く含むことになる。すると「私のよく知る世界」から恐らくそれは正しいものであると私も確信するところの「私たちのよく知る世界」=「私たちにとって親しい世界」という真理、つまり存在B(勿論その中でも知り得ないことの方がずっと多いのであるが、仮想上では存在し得る全ての存在物とそれが存在する限り私は邂逅する可能性はある)ではない存在と、私が存在Bの中で私が終ぞ知り得ることなく終わる存在とは、私にとって価値的には等価であることになる。私という存在は私以外の今現在生きて生活している大半の地球市民にとって存在しないのと同じなのであるから、その意味では私にとっては存在Aにかかわる全ても、私たちの宇宙であるところの存在Bの中で生活する大半の地球市民も、宇宙の未だ人類にとって知り得ない領域や性質も全て仮想上での存在、つまり偶像である存在Aと価値論的には等価であることになる。そしてこれが重要であるが、私にとっても恐らく私たちにとっても存在し得るか否か定かではない存在Aも、存在Bの中の未確認の存在も、それが不浄であるかどうかは確定し得ない。たまたま我々が知る存在Bの中に存在し得るものであるなら、我々が不浄でないのなら、それと同じように不浄でないであろうと例えば化学的にとか物理学的にそう思われるだけのことである。

付記
 知人で友人の谷口一平氏に対して私が第二章の結論とほぼ同一内容のメールを送信したのだが、それへの返信が届き、更に私はそれに返信した全部をここに記載する。
    
河口ミカルさま
 メールありがとうございます。

 ゾンビのお話ですが、おっしゃるとおり、ビンゾなどという得体のしれない存在よりは、ゾンビの方がよほど人間的であるということはいえるでしょうね。ゾンビは意味機能の 遂行能力があり、感情的・情緒的な反応をおこなえるわけですからね。ぼくとしては、 人間的かどうかというところには関係なく(ですからむろん、昆虫や非高等生命への優越感情にもかかわりなく)ビンゾの存在をみとめ、まさにゾンビがビンゾを偶有する という地点から考察をすすめてゆきたいとは思っていますが、河口さんの立場がそれなりに理解できないわけではありません。もちろん、ビンゾが「あるかのように思えてしまう」理由はどこまでも考究してゆくことができるでしょう。現象判断のパラドクスは、根本的に解くことのできない対立であるような気がします。
 
「意味」を、私‐あなた関係のなかにおいて捉えようとする見方は、面白いですが、「意味」より先に「あなた」を措定してしまうことは、ぼくにとっては飛躍に思われます。ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。この対立もしかし、やはり解くことのできない対立であるのかもしれません。河口さんは、「関係」ということを、どのぐらい重要視されるのでしょうか。関係(差異)と個物(実質)という対立において、どちらを先行させるのかということですね。廣松渉の共同主観性論は関係があってはじめて個物が成り立つという考え方ですし、逆に永井などは実質論者であると思います。以前ブログで論じたこともあるのですが、たとえば寺山修司の肉体言語観などは、関係一元論的であるようです。
  
責任転嫁という論点は、なかなか難しい。まあでも、人間関係などというものは、多かれ少なかれ責任転嫁的であるということは、ぼくもそう思いますけれどね。しかし、意味の本質に「責任転嫁性」を置いてしまった場合、それは批難することはできるのでしょうか。意味を所有するということが偶像崇拝するということであるのなら、むしろどんどん偶像を作って、役に立たなくなった偶像はどんどん捨て去ってゆく、という流れが、むしろ後押しされるのではないですかね。あるいは、もし「責任転嫁」ということが批難できるのであるならば、それは関係の網目のむこう側に、他者という触れられない「実質」を、じつは置いていることにはなりませんか。たとえば人が死んだとき、死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。

 短いですがとりあえず。

    谷口一平 拝

谷口一平さま
 
 今回のあなたの返信はなかなかいいですね。

 >「意味」を、私‐あなた関係のなかにおいて捉えようとする見方は、面白いですが、「意味」より 先に「あなた」を措定してしまうことは、ぼくにとっては飛躍に思われます。ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。この対立もしかし、やはり解くことのできない対立であるのかもしれません。河口さんは、「関係」ということを、 どのぐらい重要視されるのでしょうか。関係(差異)と個物(実質)という対立において、どちらを 先行させるのかということですね。廣松渉の共同主観性論は関係があってはじめて個物が成り立つという考え方ですし、逆に永井などは実質論者であると思います。以前ブログで論じたこともあるのですが、たとえば寺山修司の肉体言語観などは、関係一元論的であるようです。 

このご質問に対する返答はこうですね。私は意味が先でもあなた(つまり私にとっての最初の他者ですが)が先でもないということですね。意味が把握された時あなたも把握され、あなたが把握された時意味も把握されるからです。廣松も永井も、そのことの一方からの解釈と捉えればよいでしょう。
 寺山の関係一元論はよく知りませんが、それは間主観性とも実質論でもないのでしょう。でも案外私の言っていることに近いかも知れません。つまり関係が意味を派生させるというのが私の考えです。関係を理解することは二つのものやことの差異を理解することですから、その時意味は納得する形で得られますね。

 >責任転嫁という論点は、なかなか難しい。まあでも、人間関係などというものは、多かれ 少なかれ責任転嫁的であるということは、ぼくもそう思いますけれどね。しかし、意味の本質に 「責任転嫁性」を置いてしまった場合、それは批難することはできるのでしょうか。意味を所有 するということが偶像崇拝するということであるのなら、むしろどんどん偶像を作って、役に立たなく なった偶像はどんどん捨て去ってゆく、という流れが、むしろ後押しされるのではないですかね。 あるいは、もし「責任転嫁」ということが批難できるのであるならば、それは関係の網目のむこう側に、 他者という触れられない「実質」を、じつは置いていることにはなりませんか。たとえば人が死んだとき、 死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような 無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。 

このことに関してお答え致しますと、本当はかなり長い論文例の「感情と意味」のあなたに渡した分の後続編ですが、大体23ページ(パソコンワードで四十八行×四十字)位のものを今のところ執筆致しまたのでご関心があれば添付送信致しますけれど、簡単に説明致しますとこうなります。 私には(だから恐らく私たちも)「よく知る世界=親しみのある世界」と「よく知らない世界=親しみにない世界」があり、それは勿論個人毎に内容も領域や所在も異なります。しかし少なくともその二つの総和こそが「世界」であるという認識は大半の存在者が持っている筈です。ですから世界とはその切れ端はファジーです。私が言う責任転嫁とは人間関係にも勿論適用出来ますが、「私がよく知る世界」外のこと(例えば私にとって法曹界も、芸能界もよく知りません)には私は責任を負いかねます。つまり例えば私はあなたにそれらのことを告げることが出来ません。そしてそれはあなたにとっても恐らくそうでしょう。私は私が住む町をあなたに案内出来ますが、あなたほど京都を他人に案内することが出来ません。従って自分の能力外のことは他者一般(誰かと特定など出来ない。特定出来たのなら、その知らない領域に私が責任を持ってしまうことになるから)へと責任転嫁します。 
 ですからあなたのお尋ねの他者も厳密に言えば私にとっては偶像とも言えますね。そしてまさに役に立たなくなった偶像はどんどん捨て去っていくという流れが後押しすることを私たちは日々していますよね。これってその通りだと思います。触れられない実質というよりも、私は谷口君のことを責任持てませんよね、そういう風に理解されるとよいのではないでしょうか?「人が死んだとき、 死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような 無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。」とはまさにその通りです。死者とは責任転嫁を逃れた存在ですが、私が責任転嫁し得る存在であるのではないでしょうかね?
 つまり絶対的他者であるところの死者の生前のことなんて私には責任をもてませんからね。それは過去でもそうですね。過去自体は誰も責任を取れませんからね。誰も過去に戻れないのだから。
 その時私は再び私が知る世界と、私がよく知らない(「よく」と付け加えているのは、あるということくらいは知っているから。例えば京都の伏見というところがあるということくらい私は知っている)世界(死もそうですし、死者もそうです)、つまり責任を負いかねる世界との間に意味があることを知ります。何故って意味とは知るということと知らないということ(親しいということと親しくないということでもよいし、馴染みがあるとないでもいいし、慣れていると慣れていないでもいい)の二つを同時に知っていなければ理解出来ないからです。どちらか一方であるということはあり得ません。知っていることだけでもし充足しているとしたのなら、その場合私(たち)は希望も、欲望も、期待も、関心も、予想も、好奇心も、思考さえもが一切ないということになりますから。それでは知っていることを知っているとも捉えられません。 
 意味を所有することが偶像崇拝することなのではなく、例えば自分で存在するかどうか確かめようがないけれど、あるかも知れないと思える例えば宇宙の物質とか、私と顔がそっくりでペニスの形まで殆ど変わりないフィンランド人がいるかも知れないと思うこと、それも偶像です。偶像とは「あるかも知れないと思えるような存在」つまり偶有的なことです。つまり存在が確証し得ないものは全て偶像です。神然り、我々の存在する宇宙をそれ以前にひょっとしたらあったかも知れない宇宙Aに対して宇宙Bとすると、宇宙Aは偶像です。あるいは宇宙Bに存在するかも知れない未知の物質も偶像です。
 つまり偶像は我々には、あるいは私にとって責任を負えないからです。しかし責任の負える微々たる世界と、責任の負えない広大な世界があることを私も恐らく私たちも知っているのです。その責任の負えることと、負えなさという二つの関係を把握することから意味が派生すると考えます。
 それから「ゾンビがビンゾを偶有するという地点から考察をすすめてゆきたい」とはまさに私も同じですね。しかし恐らくビンゾはゾンビであってもそうでなくてもいいですが、恐らくそういう風に<私たちは「何か」?>という問い自体が生んでいる何らかの幻想であることだけは確かではないでしょうか?
 何故ってこれも論文に詳しく書きましたがクオリアや意識だけが浮上することなど不可能ですからね、クオリアや意識とは要するに私が今日これからどういうことをしようと計画を立てたり、それを実行したりする中で目的や意図、願望といったさまざまな感情や思考と切り離してなど存在し得ないからです。その他にも記憶、想起もあるでしょうし、健康状態とか生理的作用もあるでしょうしね。でも案外その「ゾンビがビンゾを偶有するという地点から考察をすすめてゆきたい」ことが文学自体の存在理由となり、作品化され得るとは言えないですかね?つまりそこから先がいよいよ文学の出番ということですよ。
 まあそんなところでしょうか?今執筆中のものを少し時間を置いてその内送信致します。  

河口ミカル

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