Thursday, June 3, 2010

<感情と意味>第三章 第六節 他者・偶像と責任

 私たちは他者に取り囲まれている。私とあなたがいれば、私とあなたにとってそれ以外の他者は、特定の個人を指示しない限り,他者一般、他者全般となり、それは茫漠とした存在なので、必然的に偶像化し得る。しかし一方あなたもまた私にとっては私にとっての知人で友人である谷口一平は確かに私が氏の才能をよく知る者であり、素晴らしい短歌を作り、小説も書く。そして何より哲学を深く理解している。しかし私は氏の母方を存じ上げないし、氏を知った時氏は既に大人だったので、子供時代も知らない。そういう意味では私は私が知る範囲内で氏の存在に対して責任を負えるが、全部に対してではない。つまりどのように親しい他者、たとえ肉親であれ全てに対して了解という意味では責任を負えないのである。社会的に例えば私が私の息子に対して責任を持つと言っても、それは私によるパフォマティヴなだけであり、全的に責任を負うことは事実上不可能なのである。
 私は一応知っているが、よくは知らないことを多く持つし、それ以外にもないかも知れないけれど、あるかも知れないとどうしても思えることをも多く持つ。それはあるかないか未だ確認出来ていないものである。またあると知っているけれど見たことのない多くのものを持つ。それら一切は端的に想像するしかないから、必然的に偶像と言ってよい。
 つまり私が谷口氏への返信で述べたように私はほんの微々たる私が知り且つ責任を負えること以外は、残り全部、そしてそちらの方が私をも部分とする「世界」においては大半であるが、私にとっては殆ど無意味なものである偶像に取り囲まれている。私はそれらのほんの一部を残りの私の人生において知り得るし、知りたいと願うし、馴染みたいし、慣れたいし、親しくなりたいと願う。それが私が願望を持ち、希望を持ち、好奇心を持ち、思考し、予想し、推察するということだ。つまり私はそれが正確にそうではないかも知れないが、概ねこういうものであろうという予想を持つことが出来る。それは予想し得るということにおいて親しみがあるものであるに違いない。
 他者の心は如何に私にとって親友であれ、終ぞ正確には知り得ないが、私が別のそれほど親しくない他者から、彼(女)のことを尋ねられたのなら、「素晴らしい人です」とそう返答するであろうという意味では、私が彼(女)に関して知り得る範囲内で責任を持つことが出来るが、私は彼らが半年後までの間に一切風邪を引かないとまでは責任を負えない。その意味では全ての他者は私にとって限定的に偶像である。つまり親しさの度合いに応じて実像の度合いが増すというだけのことである。しかしここが重要であるが私が認める存在は、少なくとも私の内的世界においては虚像ではない。勿論百メートル先のホームの端に私は幻影的な他者であるかのような虚像を見ることというのはあり得るので、確かに百パーセントではないだろう。しかし私はそれでもそこに他者がいると確認し得るという意味ではそれらは一切虚像ではない。ただ完全にその他者の内実を知らない以上やはり彼もまた偶像の一部でもある。つまり存在し得るという意味では実像であるが、存在の意味を知らないという意味では偶像である。

 少し話しを脱線指せて、しかし同時に何らかの偶像としての他者、他者に対しての偶像とは何かを考える契機としよう。
 アートとデザインの関係は常に微妙なものであった。確かに19世紀までは多くがデザインはアートの反逆精神に対して、一定の商業資本主義のルールに則ったものだった。装丁しかり、服飾しかり、プロダクト然りである。しかし20世紀中盤(尤もその萌芽は例えばバウハウスやアール・ヌーボーやアール・デコにあったのだが)になって様相は一変する。要するにデザイン自体が主張するようになっていったのである。アートは一方で額縁などの登場によって印象派以降確実にサロンを獲得し、一般市民によっても絵画が購入出来るようになっていった。そのことを助長したのがアート・ディーラー(画商)たちである。そしてブルジョア絵画が定着していったが、他方アートには常に反逆者の精神で闊歩する一群のアーティストたちがいたので、そのムーヴメントが例えば表現主義とか象徴主義とかフォービズムとかキュービズムといったスタイル上、表現理念上の革新的なトライアルが続き、後にダダイスムやシュールレリスム、そして戦後抽象表現主義やポップアートやミニマルアート、コンセプチュアルアートといった潮流が席巻した。しかしその際に起爆剤になったものの多くは商業デザインの領域での様式等だった。勿論そこにはバウハウスやアール・ヌーボーやアール・デコといった様式が先鞭をつけたという側面も忘れてはならないが、要するに大衆のニーズに沿ったモード自体がアートに反映し始めたのだ。そしてデザイナーとアーティストの境界も曖昧化していき、アート然としたものの方がニッチマーケットに堕して行った。つまり大衆にとって神秘化された偶像は最早デザインを反映したものの方であり、アート固有の一点性(作品が一作だけであるということ、つまり複製性がゼロということ)が障害となって立ちはだかるのである。
 つまりアートにとって隣人であり他者であったデザインは既に19世紀後半には端的にアート自体に侵入してきて、次第に様式的な差異はどうでもよくなっていったし、事実デザイナーがアーティストと名乗ることの方が多くなっていった。つまり他者としてのデザインの偶像性はアートのドメインでは既に無価値なものとなっていったのである。そしてそれと同時に大衆にとっては寧ろデザイン的な発想やモードの方がずっと偶像化された、要するにその正体がよく知られないがために好奇をそそるものとなっていったのである。その内実を知っていたのはプロフェッショナルなアーティストやデザイナーたちだけだったというわけだ。寧ろ彼等にとっては大衆のニーズの方が偶像であったことだろう。常に生き馬の目を抜くような過当競争という現実に遂にアーティストたちさえ晒されたのだ。
 要するにアートにとっての他者内偶像性が実像に取って代わり、そのトレードオフとして大衆の欲求はかつて印象派の画家たちに対して抱いた憧れを、寧ろナビ派とかエコール・ド・パリといった一群の人たちはアーティストとして積極的にデザインにかかわったが、彼等に注いだ。ロートレック(彼は世代的には後期印象派くらいであるが)、ミュシャ、ビアズリー、シャガール、フジタといった人たちがそうである。ムンクやピカソも積極的にデザインに関わっているし、デザイナー出身のアーティストとしては戦後世代ではアンディー・ウォーホールやロイ・リキテンシュタイン等が代表である。三宅一生は「20世紀は紛れもなくデザインの時代だった」とかつてアート紹介番組で述べていた。
 ここにはアートがかつて宮廷お抱え画家たちが跋扈した時代に、彼等の生活自体が宮廷から宮廷への放浪であったことから、風景画などを描き始め、次第に宮廷から遠ざかっていったことの内にあるアーティストの内部のアンチ・ヒーロー志向が次第に今度は商業資本主義自体のヒーロー志向に取り込まれていったということを示している。そして現代では寧ろアーティスト以上に評論家や文学者の方がよりアンチ・ヒーロー志向(アウトローといってもいいが)へ転換を余儀なくされている。
 尤も本質的にヒーローに一切なる気のない非商業資本主義的アーティストも常に共存しているのだが。しかし私は一応それで生計を立てている人のことをアーティストと呼んでいるのだ。つまり生計を立てているということ自体も、ヒモとして文学者であると自称して生活している人のことも含むのかと問われれば返答に窮してしまうのだが、要するにプロフェッショナルと言えばよいだろうか?勿論セザンヌもゴッホもそういう意味ではプロフェッショナルではあったものの、生計を絵画で十分成立させていたかと言えば、セザンヌはかなり資産が予めあったからよかったし、ゴッホは弟テオからの援助があったからこそ絵画を続けていくことが出来たのであるが、それでも後世においては、他のその当時売れていたどの画家よりも歴史的に残っている。つまり趣味で絵を描いている人は仮にそういう仕方でアートに関わることが仮に自分では一番尊いと考えていたとしても、それをプロフェッショナルとは呼べないということである。

 話を戻そう。私たちは他者に取り囲まれて生活している。しかし他者を他者として認識するためには予め確かに我々の中に他者を他者として意思疎通し合える相手であると認識する能力が備わっていなければならないだろう。つまりリゾラッティーらによるミラーニューロンの発見という事実からもよく理解出来るが、他者を他者として認識し得る能力こそが意味を発生させていると考えても間違いではないだろう。それに関して前節の付記において示した谷口氏との送受信の遣り取りの後で私は氏に追伸を補足的に送信したのでそれをそのまま掲載しておこう。

追伸
 谷口一平さま

 昨日送信した返信メール中において不分明な箇所があったので、追伸として示します。

>ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。

 あなたのこの考えは、「意味を把握する能力」が先にあってそれが「あなた」を作り出すというのなら分かります。しかし意味それ自体はやはり関係認識や差異認識があって、然る後、個別のケースに対する判断で理解する、納得すると考えるのが私は自然であると考えます。私は関係(これが差異も理解させる)が先に悟性的に理解され、然る後その関係把握から意味理解に進むと考えます。しかしあなたの主張の通り、意味理解とか意味把握能力は予め備わっていなければ、関係から意味へと理解することは出来ませんね。
 例えばペットの動物は犬とか猫とかそれぞれ固有の把握の傾向がありますが、飼い主の中で誰が一番偉いかということに対して判断が出来ます。私の家族が飼っていたある猫は私の母を一番偉いと思っていました。それは一つの意味理解です。しかし動物は言語がありませんから、意味を「意味」として理解すること、つまり概念的に把握することは出来ないということになります。しかし少なくとも彼等も関係を理解することは出来ますし、そこから意味を理解することも出来ます。しかし動物は言語を持ちませんから、意味といっても感情と不可分なものでしょう。つまり人間の場合意味は最初(理解レヴェル)では感情も同伴されますが、それを概念把握として感情から切り離すことも出来るというわけです。

>死者とは責任転嫁を逃れた存在ですが、私が責任転嫁し得る存在であるのではないでしょうかね?

私がこう言った理由はこうです。つまり死者は確かにあなたの仰るように死者本人の側から言えば全ての他者からの責任転嫁を逃れます。しかし同時に「死人に口なし」ですから、知られざる過去を幾らでも他者の側から捏造され得ます。ですから歴史作家によって例えば織田信長も、豊臣秀吉も皆ある程度虚構的に捏造されていますよね。そういう意味では皆が過去とはそこに戻って確かめようがないので、勝手に自分の責任逃れのために死者に責任を押し付けることは可能です、そういう意味で言ったのです。

河口ミカル

 谷口氏の主張する意味の二人称に対する優先は、私の解釈では意味把握ということの能力である。従って意味理解というものは意味把握能力という身体的能力、脳作用の付与によって得られる。それは形而下的解釈だが、それ以上それを形而上的に捉えたい誘惑を抑える必要があるように私には思われる。つまり自由意志とはでは一体というような論議は不毛である、と。何故なら私たちは既に脳科学とか自然科学認識自体も一つの選択肢として獲得しているのであり、私たちは私たち自身を生存機械であると捉えることをも自由意志の範疇で可能なのであり、それでは自由意志は成立しないという論議自体が、既に形而上的な優位を前提していると思われるからである。
 最早形而上学的優位において自由意志優先であるとか、形而下的認識の肥大化というような論議は不毛であると私は考える。ある時には形而上的認識を優先する必要があるし、別の観点からはあくまで形而下的に認識する必要があると考える。
 だからここで結論的に言うと、他者を他者として認識し得る能力は悟性的に差異を認識する能力とミラーニューロンによる作用の両方が同時に展開していると考えればよい。そしてそれは意味把握能力の発現である。しかし意味自体はやはり納得とか理解を通してでなければなされないので、他者を他者として把握しその存在理由を理解することを通して意味に到達するとしてよいのではないか?つまり私の言いたい意味とは、存在理由のことであり、その時々の状況把握と密接なものとしてなのである。意味体系とか意味連関ということにおいてであれば谷口氏の主張されるような<意味把握能力=二人称に対して先験>と考えればよいだろう。 
 ここで明確化しておく必要があるが、偶像と私が呼ぶものは、端的に想像することによってでっち上げるその像のことなのである。私たちの脳は理解出来ないことに直面すると、理解出来ることの仕方で何とか折り合いをつけようとするわけだから、どうしても知らないこととか親しくないことの内容も、そのままにはしておけず固有の像を作り出そうとするということである。つまり知っていることや親しみのあることを通してそうではない知らないことや親しみがないことに対してそれなりに理解しておこうとするということだ。だからそれは誤解や曲解の場合も往々にしてある。要するに脳は知らないことや親しみの持てないことをうっちゃっておくことがなかなか出来ないのだ。
 そのことはカプグラ症候群においても立証済みである。彼等疾患者はある人の顔を自分の母親と知っていても、それは違う人が成り代わっているのではないかと考えてしまう(ものに対してもそう考えてしまう)。それは何らかの脳部位障害により、あるものを「そうだ」と認めることと、あるものを「それは本当だ」と認める情動的なことを繋げるパイプが欠落しているからではないかとも考えられている。
 それは通常では情動を通して同一性を認知し得る(情動的な作用によって何かを信用することが出来る故)ことが障害されていると考えることが出来る。
 だからそれと逆にそういう障害がないということは、よく知っていることや親しみのあるものに対して共感出来るということだから、必然的に親しみあるものを糧に親しみのないものを関連づけることによって理解したいという欲求がよく知らないことを想像することが可能となっているのかも知れない。

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