Sunday, May 9, 2010

<感情と意味>第三章 第二節 偶像崇拝的逃避無自覚者による弊害とは何か 

 本節では具体的に偶像崇拝的逃避無自覚者のよって齎される実害について考えてみたい。まず私は次のようにその実害を捉えている。

① 偶像崇拝的逃避を習慣化すると、新しい能力や未発見の潜在能力を自己内において開発することを怠ってしまう。
② 偶像崇拝的逃避を他者にも適用すると、社会にとって新たな才能や能力を持った者がその才能や能力を発揮する場を提供することを阻んでしまう

 つまり大きく分けてまず自分自身を発展させることを著しく阻害すると同時に、他人に対しても発展的な事態を展開させることを阻んでしまう。そして自分自身が進化しないようでいて、そのことに無頓着な成員とは往々にして自己能力開発努力を怠らない成員に対して多大な嫉妬を覚えるようになる。それどころかそういう前向きで将来ある人材を発見するや否や即座に爪弾きにしていこうという悪意さえ抱いてしまう。
 通常人間は自分自身が進歩しようと心がけているのなら、他人に対してもそのような努力をすることと、そういう機会を与えることに躊躇しなくなるものである。社会の発展や進歩とは、ある意味ではこういう精神的なこと如何だとさえ言い得るのだ。勿論そういったことが出来る限りスムーズに行っていたとしても尚犯罪がなくなる社会などは到来しないであろう。しかし少なくとも理性的偶像崇拝逃避自覚論者が多くなればなるほど私たちは自分自身の潜在能力を開拓することがしやすくなる筈である。要するに世間的な滓に対して理性的偶像崇拝逃避自覚論者は抵抗の意図を少なくとも捨てていないと言うことだけは言える。これはつまらぬ慣例や習慣を撤廃することを勇気を持って実行する事、勿論最初はそれを自分の生活において実践することから始めるのが最もやりやすい仕方だろう。
 偶像化作用とは、自らの努力を怠ることの理由づけに利用されがちなのだ。それを私は偶像崇拝的逃避と呼んだのだ。

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