Thursday, May 13, 2010

<感情と意味>第三章 第三節 偶像崇拝的逃避の効用 

 しかし私たちは偶像崇拝的逃避に感ける無自覚者に対する認識と共に、その一定量の保持者が、有効にそれを活用していることに目を向け、偶像崇拝的逃避自体が我々の生活上で何らかのメリットを齎している事実にも注目する必要がある。
 それを考える上でまずもし偶像崇拝的逃避が一切ない生活とはどんなものになるかを想像すればよい。偶像崇拝することによって対他的に自分に出来ないことは他者に委ね、自分の中の欠如を知り、その欠如を少しでも埋めようと決意する時人間は向上しようという意志を持つ。だから逆に何に対しても偶像崇拝を一切出来ない成員は何に対しても「世界とは所詮こんなものである」という判断並びに諦観を抱いてしまうのだ。つまり偶像崇拝をすることで一旦は自己内の能力の限界を知ることによって、逆にその欠如に対する方策を考えるというところに偶像崇拝することで一旦捨て去る責任を安易に取り得ると考えることを諦めることや自己内の能力に対する過信を捨て去ることが、もし一切の偶像崇拝的逃避がない状態であるならなされ得ないのである。だから逆に理性的偶像崇拝逃避自覚論者とは、この偶像崇拝を有効活用する術に長けた人物であると言ってよい。
 
 これから先は全く観点を変えて考えてみたい。本来哲学とか言語学とか学問と処世術は何の関係もない。しかし世の中には大勢何故自分は巧く社会に対応して生活していけないのかと悩んでいる人がいる。そこで本節の内容の残りをそういうタイプの人へ向けて書いてみたい。だから自分の信念を一切曲げずに処世ということを考える必要など自分にはないと考えられている方はこの節の先は読み飛ばして頂いてよい。

 まず人生はそう長くない。しかもさまざまなストレスに苛まれること必定である。そこで他者と会話したり、対話したりする時に、相手があまり信用出来ないタイプの人である場合、なるべくなら相互に衝突を避けてしかも相手にあまり侮られることなくその時間を終了させたいと願っている人へ向けてハウツー的指南を書いてみたい。
 本来サラリーマンやビジネスマンたちはゴルフの話が無難であるとか、接待の際に切り出す話題において、避けるべき内容とそうではなく無難である内容をその都度選択している。しかし重要なことは、ビジネスシーンであれ、地域社会であれ相手に対してこちらがより有能であり、能力的にも教養的にも信頼するに足る成員であるという印象を持たれるように少なくともこれ見よがしではない形でさりげなく示せればこれに勝るものはないと言ってよい。
 そこで常々私は市民感情というものを考慮した時、我々が抱く偶像自体への観念において二つのタイプのものを誰しも抱いていると思う。それはヒーロー志向的偶像観と、アンチ・ヒーロー志向的偶像観である。後者はヒール志向的と言い換えてもよい。
 正論というものは公平であり、適度に安定した思想を持つ成員には常に求められるから、市民感情として健全かつ道義的な感情を抱いているということを表明するという観点からも、多くの成員が贔屓にしたり、認可したりする偶像を自分も賛同出来るという意志を、少なくともあまり抵抗を感じずに済む対象を選択して話題に出すということは効果的である。そして一定の賛同を相手から得られたなら次の段階では、最初に切り出したものよりは多少マイナーな認知度の存在に対して相手の趣味嗜好、あるいは社会的地位や伺える思想に応じて切り出すことが効果的である。つまり相手に対する趣味や信条の傾向を把握するにつれて少しずつマイナープレゼンスへと移行させていくのである。そしてもうこの相手に対しては擬装的態度を表明する必要がないと判明したのなら、かなり俗なレヴェルの話題をしても構わないと言えるだろう。つまりそうであるか否かの判断を適切にし得るか否かということがかなり大事なのである。それ以前に既に我々はこの方法を取るのであれば、もうこれ以上は移行出来ない相手かそうではないかということくらいなら分かる筈である。だから最初に示した対象に対する反応を見てその顔色からもっとマイナーなものを相手が話題として望んでいるか、逆にもっと杓子定規なものを望んでいるかということの直観的な判定こそが重要なのである。だから後者であるなら、あなたは最早長時間相手と真意を探り合う努力を出来る限り速やかに断念して、手続き的な常套手段で切り上げるに越したことはない。逆にもっとマイナーな話題へと移行を望んでいるのなら、マイナーレヴェルの偶像対象を話題対象として模索することが望まれる。
 そして相手を信用するに足ると判断し得たのなら、最終的にはいっそアンチ・ヒーロー的な偶像嗜好を表明することがより人間同士の信頼を得ることへと直結する。例えばその究極は好きなタイプの犯罪者を話題にするのである。そこまでする勇気がないのであれば少なくとも当初は有望視されていたのにもかかわらず期待を裏切った偶像、つまり敗残者的な立場の偶像、例えば例の朦朧会見をしたかつての財務大臣のようなタイプの政治家が実は自分は好きであるというような告白が相手次第では効果的な信頼獲得へと繋がるのである。その偶像対象は惨敗的イメージが強烈であればあるほどいいのである(この文章を最初に書いた時には例の大臣は存命中であった。冥福を祈る)。
 どんな人間でも表の顔と裏の顔というものがあり、その双方をTPO的に使い分けている。この使い分けが有効になされ得るか否かもまた、ある部分かなり偶像崇拝的逃避の心理を有効活用し得るか否かにかかっている。つまり話題をシフトさせる可能性としてよりマイナー度の強烈なタイプの偶像対象を模索し得る相手かそうではないかということの判定こそが私は偶像崇拝的逃避心理を有効活用し得るということであると思う。
 再度断っておくがこれはあまり社会的地位的な意味で成功していないタイプで、しかも極度に世渡りの下手な臆病な成員にのみ適用し得るアドヴァイスである。それくらいのことならとっくに分かっている、と言えるタイプの成員はもっと高度な段階に進んでいいのだ。いきなり相手と哲学や精神分析の話をしてもいい。しかしそういう話題を出すことの可能な相手というものは常に限られる。そこで相手がそういう風にいきなり高度な話題を共有し合える相手かどうかを判定するために私が先に述べた方法はかなり効果的である。
 私の経験では一般に知的教養度の高い成員ほど反体制アートや反戦文学、あるいはブラックジョークを理解し、そういう話題に共鳴し得る。つまり彼(女)は体制的なポーズと日常生活上でのプライヴェートな信条を常に二本立てで両立させて生活しているからである。つまり適度に本音と建前を使い分けつつ、仕事や社会的地位を離れて考えると、より青年期に夢想した幾多のロマンティックなアイデアに満ちているということが、人間性において魅力を醸し出しているものだ。逆にそういうタイプではない成員に対しては、一定の正論をパロディー化するような高度のジョークは一切通じないと踏んで至って健康的であると一般にされる建前的な話題を選択することが無難であろう。そしてそういうタイプの成員とは一対一の対話を長時間することは避けた方がよい。
 要するにユーモアをもともと解さないタイプの成員に対して高度なジョークや反体制的メッセージを辛辣に語ると言うことは無意味なのである。何故ならそういうタイプの成員は逸脱するということの意図的な知性を理解することがないからである。彼らは端的に品行方正であることと自らの嗜好とが完全に一致している、と言うより一致していなければいけないということ以外の選択肢が思い浮かばないからである。
 責任の取り方は高度なものから通り一遍のものまで様々である。つまり誰しも集団同化意識と、個的自由領域沈潜的態度の両方を持っているが、得てして前者が義務的に肥大している成員は後者を持つ余裕をなくしている。そしてそれを十分持っている成員に対する嫉妬の感情を持っている。従って仮にそういう余裕を持っている人が自分よりも社会的地位的に上位にいる人間であるなら問題ないが、逆に自分より下位な人間であるなら、精神的に許容し難いのである。そこでことあるごとにそういうタイプの成員を見下す機会を伺っている。「お前は偉そうなことを言っても、社会的に成功していないではないか」と。
 偶像崇拝的逃避を巧く調節することの出来る成員は、一切の個的自由領域沈潜的態度を他者には悟られまいとする。そうすることによって、他者からの羨望の眼差しを向けられることで示さなくてはならない横柄な態度を採ることを未然に自己に対して防いでいるのだ。そうしながら、休日や一人でいる時間を彼は楽しむ。
 巧くやっていかれることを祈る。

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