Sunday, May 16, 2010

<感情と意味>第三章 第四節 意味・観念としての理想・理性と原罪・受肉そして「世界」 

 大雑把に言えば、ユダヤ・キリスト教文化圏の宗教的慣例や儀礼性の全ては、肉に始まって肉に終わると言ってよい。カインによって殺害されるアベルは羊の肉を神に捧げたし、それに対して穀物を捧げたカインは弟を殺害することによって理性を得たのだ。理性はそれが隣接しているが故にその存在理由を知っている悪を必要とするのであり、アベルには理性は要らない。
 時代が下ってキリストが登場し、受肉という観念がキリスト教布教後に定着する。カントが他律といったことの背景には受肉を通して原罪(主に肉欲)を克服するということの必要性から遡及された考えがある。他律に感けるということは快楽に耽るということだからだ。キリストは神性と人性との一致としてその存在が問われることになった。そう認識することで人という親しみある存在が初めて理想であるところの神と合体したのだ。だからこそそこに意味の世界が親しさと親しくなさ(理想や神はその象徴である)の合体として理解されたのだ。欧米の哲学はそういった宗教的観念を生むユダヤ・キリスト教的宗教対話全体への対話と理解しなくてはその本質が見えてこないところがある。
 日本人は余暇の過ごし方が欧米人に比べて下手だと言われるが、それは中島義道氏的(「たまたま地上に僕は生まれた」、「英語コンプレックス 脱出」)に言えば欧米人からの暴力であるということになる。しかしそもそも日本人にとっての快と欧米人にとっての快がその性質を異にするというところがあるのだからある程度仕方ない。祭りに関しての常識も日本人と欧米人とでは確かに異なっている。
 謝肉祭(カーニヴァル)は肉を抛るということから道化・滑稽・歓楽が許されるとされるが、それは形を変えた意味の世界の獲得でもある。
 意味は親しいものとそうではないものの差別に起因するとした。欧米では親しいものとは家族であり、肉を運んでくれる父親であり、父親が公の原点である。母親は公において第一に親しい者である父以前的な意味で最大級の親しい者、血肉である。父が家の柱を支えている。その柱に支えられた家を母が子を儲け守るのだ。アメリカやカナダでは感謝祭をする。私たち日本人も祭をするが、肉よりは穀物への感謝である。
 しかし私たち日本人にとっても恐らく意味は親しいものへと最初は向けられて、その後親しくはないものにも拡張される。観念は一方で肉の報酬があり、原罪があり、それを克服する過程で得た労働を価値として認定することを通した共同体の作為にその根源がある。意味は個人のものであっても、意味を統一することが共同体の仕事だからだ。意味は個々に異なっていてもそれが統一されることで観念が派生するというわけだ。私は第三章において意味は「一つの共同体とか国家とか、要するに集団や意味観念が集合された場合、そう変化しない」と言ったが、それは意味世界を個が意識していることを集団管理体制の名において理解している為政者によって統括されている概念規定性において意味が「誰にとっても同一の意味を持ち得る」という幻想を与えられていることを示してもいる。
 誰にとっても同じであると「思わされている」だけであり、本質的には違うのだ。しかしその本質は隠蔽されなくてはならない。隠蔽されること自体が一つの理性の束となって作用しているのだ。理性も本来は個的なことであり、個人の肉体の欲望と衝動に起因する筈であるが、それもまた一般化される。つまり一方では個人毎に異なる本質があるということがあり、他方その本質は隠蔽される必要があるという隠蔽自体を招聘する本質がある。
 つまり本質と本質否定の本質との奇妙な共存が私たちの社会を現実に機能させている。そのことを明確に示し得た哲学者はヘーゲルだった。しかしその隠蔽を悪として捉えたのはニーチェが最初だったのかも知れない。しかしニーチェ以前にもホッブスもルソーもその前哨戦的な役割は果たしていた。
 デカルトの私は永井均によると確かに神への抵抗だったのだろう。それを近代的自我と表現することをよしとしても非としても、エゴやスーパーエゴといったフロイト的観念もまたデカルト的コギトを出発点としていることだけは確かである。
 しかし言語行為はそれ自体が既に責任倫理を携えており、対他的責任の産物である。対他的に責任を明示的にすることを通して意味世界が開示される。意味とは責任が取り得るという親しい世界と、それと隣接して神秘化されやすい親しくない世界、それがあるとだけは理解出来るが、それ自体はよく知られていない世界、つまり責任を取り得ない世界との間に生じる。自分だけしか知らないことというのがあるが、自分だけ知らないことというのもあるからこそそれを伝え合うという行為が成立し得る。つまり自分だけが知っている世界を他者に提供することで、その報酬を得る、つまり自分だけが知らなかった世界を自分が知る世界へと取り込む(教わる=告げ知らされる)という形で言語行為が成立しているという事実自体が、意味を責任が取り得ること(自分だけが知っている世界)のトレードオフとして責任を取り得ないこと(自分だけが知らない世界)をも獲得するという意味を言語行為において責任論的に成立させている。
 だからこれ以上は報酬を得ることを望むまいという決意(そのことによって限定的ではあるが確実な報酬が得られるし、そのことを我々は皆選択している)が他者全般という偶像を自分だけの力は所詮限られているという諦念と共に派生させているのだ。私たち個にとって偶像は共同体成員としては権力者であり責任統括者全般であるが、私とあなたという二人にとっては二人以外の全ての他者であり、要するに他者全般である。
 前章で触れたことの繰り返しになるが、ある意味では私たちが持つ理想という観念が人間は動物とは違うという観念を生んだとも言える。つまり哲学的ゾンビとは、私たちが実は直観的に昆虫とさして変わりがないのではないかと思う気持ちを出来る限り有効に抑制するために儲けられた概念なのかも知れないのである。自然科学では人間もまた生存機械であり他の生物と同様ただ必死に生きているだけであると捉える。しかしそうではないとどこかで思いたい気持ちもずっと消えずに残り、だからこそゾンビという概念を提出することによって、哲学ではゾンビならぬビンゾ(永井均氏の提出した概念)を考える余地を作ったのだ。この二つを対にすることによって哲学の存在理由を探ったのだ。しかし私も実はただの昆虫(彼らには感情はないと生命学者たちは考えている)と同じゾンビ体でしかないのであって、偶然的に私たちだけある固有の言語という手段を持ってしまっただけのことである。
 第二章の結語で私が「要するに人間も昆虫と同じでゾンビとしての自分を対他的責任の名において、たまたま昆虫たちのようではない別のタイプの言語をも併せ持った意味世界の中を生き抜いていくしかないのである」と述べた根拠はそこにある。
 尤も言語が感情を整えているという側面はあるだろうが、言語がなくても感情はあり得る。事実哺乳類以上の知性的生命体は感情を持っている。
 それなのに人間だけは違うのだという想念は観念としての理想が生んでいる。だからヒーロー志向的偶像対象と同時にマイナーの極致である犯罪者や死刑囚たちは生贄の対象と言う形でやはりそれもまた偶像なのである。私たちの深層心理には要するに生贄が磔にされるところを見物したいという野次馬根性があるのだ。生贄にされるところを見物する野次馬根性とは実は人間がややもするとただの動物になり下がると言うことをどこかで知っていた我々の祖先が「しかしやはりそうであってはいけないのだ」ということを覚醒するために我々に恐らく付与された心理なのだ。実はそれもまた原罪を構成することに一役買っている。だから前節で私があまり世渡りの巧くない読者に向けた書いた指南では、原罪を熟知している成員はブラックジョークを理解することが出来るという意味で言ったのだ。何故ならブラックジョークとは生贄にされるところを見物する野次馬根性の持ち主であるということに対する自覚が生むものだからだ。つまり我々が観念としての理想を持つということの本質には同時に理想を持たなくてはならないくらいに原罪を背負っているのだという風に己の原罪について自覚的である必要があり、その二つ、つまり理想を抱くということと、原罪があることは抱き合わせで理解されなくてはならない。そう考えてしまうのもやはり私たちが言語を持ってしまったということに起因するのだ。言語を持つということは物語を持つということへと必然的に能力開示を促進する。物語自体にも原罪は潜んでいた。
 しかしそれを知るにはあまりにも安穏としているがために理想や理性という観念だけを知ろうとして、その背後に原罪という観念が控えていることに対して無自覚な成員は日本には多い。つまり観念としての理想も理性も実は原罪そのもの、つまり我々の性悪的部分が作っているのである。日本人の中にも性悪的概念は何らかの形で存在した筈なのだ。勿論仏教が導入されてから煩悩という概念は移入されたのだが、それ以前的にもあった筈だ。
 しかし恐らく理想という観念よりももっとずっと早く「世界」という概念は出現していた筈である。私たちは皆「私にとって親しみのある(私のよく知る)世界」と「私にとって親しみのない(私のよく知らない)世界」の総和が「世界」であることを知っている。勿論人類は最初はもっと漠然とした、茫漠たる「世界」しか持っていなかったであろう。つまり最初人類にとって世界は神やら存在と明確には分かち難いものとして実感されていたに違いない。しかし何かがそれを世界として位置づけさせた。それこそが「自分」だったのかも知れない。これはデカルトの「私=コギト」とも違う。デカルトの言う「私=コギト」は永井が言うように神=創造者に対する抵抗を示したものだったのだ。そして私たちはデカルトの提唱した私を生きる。だから人類にとって最初「自分にとって見える」世界こそが「世界」となっていたのだろう。つまりヴュー自体の所有者という意識である。しかし意識はその時点では世界そのものへの意味づけ、つまり「世界」の構成ということのためにただ張り付いていただけである。しかし勿論それは私たちにとっても本質的には変わらずにそうなのである。ただ私たちは意識をデカルトの恩恵の範疇で格別のものとして捉えがちなだけのことなのだ。
 人類にとって最初は確かに「世界」は「あるということだけは分かるがよくは知られない」ものだった筈だ。しかし徐々に「自分にとって見える」世界は「自分たちにとって見える」世界になっていき、やがて名辞が形成されるようになる。空、雲、海、川、林、森、鳥といったように。それらの名辞が定着していった時私たちは「世界」を「よく知る世界という窓を通してよく知らない世界を見る」という意識を持った可能性はある。これはデネット的カルテジアン劇場に近い感覚のものである。

No comments:

Post a Comment