Wednesday, May 5, 2010

<感情と意味>第三章 第一節 偶像崇拝的逃避

 私たちはたいてい誰でも自分にとって容認出来ない(感性的に)感覚や、考え方、あるいは職業といった偏見を持っている。それが我慢出来る範囲内のものであれば殊更非難することなどないだろうが、たまりかねると時々非難をしてみたくなる。しかしそれも公的に可能なのは許される範囲内のことである。しかし親しい間柄ではそれをよくする。
 嫌いな職業を友人や家族に告げることくらい誰もしている。そして頭の悪い人というのは、思い遣りもないとそう考えたりする。礼節を重んじる人が礼儀や配慮でしていることを頭の悪い人は、そういう態度を自分に対して採る人に対して自分の方が優位にあると思い込み、その者を利用出来ると思ったり、見下す材料になると思ったりする。それは一種の軽蔑であるが、そういう軽蔑を容易に他者になす人に対しても、それをされた者は軽蔑する。そしてそういう人に対しては容易に近づかないように心がける。これらは一つの差別である。
 しかし同時に「あの人は別格だから」と無自覚に崇拝するような場合それもまた一種の差別に他ならない。尊敬心というものさえ実は一つの差別感情である。つまりそれは自分とは違う人であるという認識を持つことによって「自分にとって親しみのある存在ではない」とか「自分にとって馴染みがない特別の能力を持っている存在」として別格に扱うことなので、それもまた差別感情なのだ。
 だから軽蔑と尊敬という心理は裏腹であり、一つの感情の表裏であることが分かる。尊敬的認識や、崇拝的意識といった一切はそういう形で自分とはかかわりのないものに対して責任を負うことを拒否(宣言)していることだから、それ自体一つの差別感情なのである。住んでいる町にも知らない場所というのはあり、道を聞かれて知っている範囲内ならその人に返答するが、知らないことに関してたいてい人は「知りません」と返答して、そのことに関する知識の責任を拒否する。親しくない人とあまり関わりを持ちたくはないと思うこともその人の言動全体に対して信用もしなければ、疑いもしないという静観を決め込み、関わり自体を避けることだから、その人の存在全体に対して無責任を決め込むことである。それは親しい間柄の人や家族に接する時と差別してその人の存在を扱っている証拠である。勿論道を歩いていて誰かが急に道端に倒れたら、救急車を呼ぶとか警察官を呼ぶとかするだろうが、その程度の社会的な責任(しかしその時道を歩いていた人が自分一人だけでないのなら、法的にそれをしなくても罰せられることがない)がある程度である。
 つまり特に都会ではそうなのだが、災難が自己に対して降りかかりそうに思えることであるなら、自分で責任を取らねばならぬもの以外に関しては自分とは一切関わりのないことであると知らぬ存ぜぬを通すことで他者からの責任転嫁を未然に防止し、自らは内的には積極的に他者に対して責任転嫁していくことこそが、生活する上での知恵である。これを誰も否定することは出来ない。
 だから逆に自分の生活に殆ど関係のない幾多の偶像に関して私たちはおぼろげな知識しかないし、認識も、関心もない。しかし自分の生活に物質的にも精神的にも大いに関わりのあるものに対しては別扱いをする。それ自体も一つの差別である。そういう意味において生活者、存在者の全ては差別者であると言ってもよい。
 本節では差別感情の中でも保守的で怠惰な尊敬心を扱おうと思う。これをすることによって、逆に自分がそのような尊敬する者と同じような立場になることなどないだろうから、そういうこと一切を尊敬することの出来る人に任せておけばよいとすることによって、その尊敬する人の発揮し得る能力に関して自分に関しては努力することを怠ることを私は勝手に偶像崇拝的逃避と呼んでいる。そして私に考えるところこれを実行していない人間など一人もいない。この心理が異様に強い人々は社会の至るところ跋扈している。例えば盲目的にエリートやインテリを持ち上げ、先生、先生と呼ぶようなタイプの人々である。このような呼称を使用することで、積極的に自分の側からその呼称で呼ばれる人たちの専門とする職業領域に関する権威や発言権をそう呼ぶ人たちに対して委譲しているのだ。そして不思議とそのように容易に権威づけすることによってエリートやインテリを持ち上げる人は、そうしない人たち、つまりあまり権威を持ち上げないでいる人たちに対して軽蔑心を抱き、時には、その自分が持ち上げる権威者の前で侮辱したりする。
 つまり権威持ち上げ者とは往々にして自分が尊崇する権威を権威として持ち上げないこと自体を自分のような立場にある者に対する侮辱と受け取り、自己防衛的に偶像崇拝的逃避をしないタイプの成員をいじめようとするのである。だから逆にこの偶像崇拝的逃避は少なからず誰でも一定の割合でしていることであるのだが、この逃避を回避する能力こそが自己に対して自分もまた差別する存在であるということを認識し、他者に相対する時に配慮すべしであると認識し得る知性の持ち主であるということになる。このような自己内の差別意識に自覚的で常に他者に対して公平でありたいと願うタイプの人を取り敢えずここで理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者(的を省略する)と呼ぶことにしよう。
 私は通常この理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者ならば、あまり表立って他者を愚弄したり、軽蔑したりすることが少ないだろうと思っている。何故なら権威を盲目的に持ち上げること自体が、そういう惰性的判断でする行為をしない勇気ある者を差別する、軽蔑する傾向があると思うからである。権威に対して盲目的に阿ることでその権威者からの実利を期待するということのない理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者は他者の立場を独立したものとして認めているだろうからである。そもそも軽蔑という心理は尊敬すべきエリアに対して無頓着な者へと向けられる心理に根差していると思われるからである。
 だから理性的偶像崇拝逃避自覚論者ならば、権威というものが差別感情を跋扈させるということを熟知している筈である。権威というものは全てこの偶像崇拝的逃避が形成すると私は考えるのだ。権力も確かにそういう一面があるが、権力は私たちが生活上必要であると考える。しかしその必要である権力自体を必要以上に持ち上げ、そうすることでそうしない成員を軽蔑する特権を得るような成員、つまり偶像崇拝的逃避無自覚者が権威を著しく歪曲したものへと持っていく。自らの性癖に対して無自覚であり、それを極力抑制しようと努めないタイプの成員を私はここで自己内偶像崇拝的無自覚者であるとしておこう。
 人間とは不思議なもので、自分が住む地域を愛する一方、自分が住んでいないエリアをどこか偶像化している。だから時々観光旅行に赴いたりするのだ。
 あるいは自分が就いている職業を愛する一方、そこから離れたいという欲望も常に持っている。そして自分がよく知る世界の汚さを知っている一方、往々にして自分のよく知らない世界に対して偶像化する傾向もある。だから恐らくここでも理性的偶像崇拝逃避自覚論者であるなら、どうせどこの世界も似たり寄ったりであると類推し得る余地を常に残すことだろう。そういう意味では理性的偶像崇拝逃避自覚論者は懐疑的である。しかしこれもあまり度が過ぎると逆に相反する立場であった筈の偶像崇拝的逃避無自覚者に成り下がってしまう。つまり理性的偶像崇拝自覚論者ならば、理性的であるのだから、当然「どこの世界も似たり寄ったりだろう」と思う一方、「しかし違うかも知れない」ということへの思念も忘れないのである。つまりここが偶像崇拝的逃避無自覚者との大いなる違いである。

No comments:

Post a Comment