Thursday, April 22, 2010

<感情と意味>第三章 意味と関係・責任と偶像 序

 意味は事象全般に対して抱かれる感情が決定するが、その感情の決定に人間の場合多く言語が手助けする。勿論動物にもそれなりに意味はあるだろう。それは感情と明確に切り離されていないだろうが、生活上好ましい事態とそうではない事態、あるいは親しみのあるものとそうではないものの区別はどのような動物でもつく。その意味では我々もそれと同じように親しみのあるものとそうではないものとか、生活上好ましいこととそうではないことという区別から出発している。しかしそこに他者に説明し得るようなものとしての明確な意味を見出すのに幸い私たちには言語というものが与えられているのだ。言語を通して明確に説明可能であるところの意味が得られているからこそ私たちは事物を関係づけられ、位置づけられる。しかしその意味も事物の関係や位置づけから得られてもいる。動物でも何らかの関係づけなら出来る。我々も最初はそういう仕方だっただろうし、赤ん坊ならそういう仕方を誰でも最初は取るだろう。しかし後に言語を習得する過程で我々はそれを誰かに説明するということが出来るようになるのである。
 対象となる事物に対して、あるいは現象に対して私たちが一定の感情を抱くからこそ、そこに対象や現象(以後事象に統一)に名辞を与えているのだが、名辞を与えるということの中には、個物に対して一般性という認識がなければならない。その一般性が曲者である。要するに一般性とは理解によるものである。その理解とは自分にとって身近なものごと、親しいものごと、馴染んだものごと、慣れたものごとと、そうではないものごとという両極を持った階層性においてなされていると私は考える。そして自分にとってよく知るものごとほど責任の負える範囲内のものごとであり、そうではないものほど責任の負えないものごとであり、後者こそ偶像化されやすい、と言うより偶像とはそのような親しくはないし、よく知らないし、馴染みもないが、存在することだけは知っていることに対して設置されていくおぼろげな像に起因する。そしてその自分にとって親しくなくよく知らないものごとの領域における行為やその他一切に対して私たちは勝手にさせておくという態度を決め込む。それを私は一括して責任転嫁と呼ぶ。偶像とはだから一切の責任転嫁を余儀なくさせるものであり、地球に住む我々は火星のことをよく知らないし、火星に異変が起きても、すぐさま地球にいる我々に影響を及ぼさない限り、専門家である宇宙物理学関係の人々以外なら、さして関心も抱かないだろう。火星のことは火星に任せておけというわけである。
 私たちは好むと好まざるとに関わらず、自分にとって馴染み深いものごとや、よく知っているものごとに対してなら、関心を示し、それが否定されると躍起になり、誰かに説明してくれと頼まれると情熱を持って説明しようとする。しかしそれほどよく知らないものごとに対しては、もしよく知っているのなら関心を抱くかも知れないものごとに対してさえ、そもそも知らないし馴染みがないものごとであるから、必然的に誰かが熱心に会話していることでも、ちんぷんかんぷんであり、そういうものごとに対してはただ静観を決め込むものである。そしてそのような態度を採るということの内には、肯定も否定もしない、出来ないという諦めがある。その時私たちは責任という概念を発生させていない。つまり自分にとって馴染みのあることを、そうではない人から尋ねられた時私たちは自分に責任を感じる。しかしその逆で誰かに何かを尋ねる時尋ねる者は、その尋ねる当のものごとに対してよく知らないからこそ尋ねているのであり、端的にそのものごとに対して責任を持てないと同時に、そのことを尋ねる人に対して責任を転嫁している。その尋ねるべき他者にそのものごとに対する責任を認めている。勿論その者によって「自分もよく知らない」と返答して責任を負わされることを拒否されるかも知れない。だからそう言われれば別の人に尋ねればよいだけのことであり、最初から責任を負ってくれる人に巡り合うとばかりは限らない。
 つまり全ての意思疎通にはこのような原理が働いていると捉えることが可能である。つまり何かを語るということの内には、その語りを聞いて貰う相手に対して、自分の側から説明するものごとがあって、そのものごとを語ることにおいては自分が責任を負っているのである。そして何かを誰から聞かされるということは、その者が私に対して嘘を報告したり、私を騙そうとしたりしているのでない限り、その語りの内容そのものにその者が責任を負っているということを意味する。勿論今私が例外として述べた虚偽申告ということの意味もかなり重大なものであるが、実はそれすら、それを報告した瞬間においては、取り繕ってその場を切り抜けるということを嘘つきは実行しているのであり、それはその場を切り抜ける責任を負っていることになる。
 つまり私たちは自分にとって親しみのある世界に対して責任を負いやすいと言うことを前提に、逆に馴染みのない世界に対しては、そもそもその世界に対する認識自体が漠然としているのだから、ぼんやりとした像しか思い浮かばない。だからその世界にどのような者に対して責任を負わせるべきであるかなかなか自分の中で明確に他者に説明し得るような考えなど思い浮かばない。だからこそそういう自分にとって未知の世界を切り盛りしていけるように感じられる成員に対して我々は偶像視するようになる。言ってみれば全ての自分にとって未知の世界の住人は、それだけで一つの偶像であると言ってよい。
 これらのことが私の考えるコミュニケーションを通して構築される人間社会の実相なのである。つまり責任とは親しみのあるものごとに対する親しみを持てる者から、そうではない者への特権であり、偶像とはそういう責任外のものごとに対して我々が持ち得る心理が茫漠としたままの形で形成されていく「知らないこと」・「親しくないこと」・「馴染みがないこと」・「慣れていない」こと全般を象徴する一つの認識像なのである。
 だからこそ私たちは権力者や為政者たちが失墜した時その敗北に対して同情するどころか(同情するに足る魅力ある敗者も時には存在するが、それは個人毎に対象が異なるだろうし、それは一般化され難い)非難するのである。それは今では使われなくなった語彙とか単語といったものにも適用されることである。あるいは習慣、法律、流行といったことにおいてもそれらを確認することはたやすいだろう。
 私たちはしかし全ての偶像に対して同じような態度を採るわけではない。自分にとって切実な偶像に対しては躍起になるだけのことであり、あまり自分に関係のない偶像に対しては、それがどのように処遇されようがあまり関心を抱かない。アートに関心のない人にとって世界的に著名なアーティストが死んだり、その作品がいかに高額で取引されたりしても一切何の感情も喚起されないだろうし、自分にとって専門外のことに対してなされる言及に対しても同様であり、その時私たちは静観を決め込む。
 しかし自分の生活において大きな関わりのある偶像、例えば自分の勤める会社の世間的風評や認知度とか、株式時価相場とか、給料とか、上司や部下たちとの対人関係とか、会社自体の将来性とか、要するにそれら一切の偶像は私たちにとって見過ごすことの出来ないことである。ニュースを見ていても、自分の職業や、自分の住む地域に関連あるニュース内容のものにはすぐに眼が行く。それら一切の偶像は、こちら側から主体的に相手に対してその偶像があまり芳しくないものであるのなら、批判的な言及や請求をすることだろう。
 私たちにとって最初の偶像は多くは親かも知れない。だから一定程度の知恵を持った子供なら親に対して自分に対する愛情、その他生活上の必要最低限の処遇に対して何らかの請求をするということは当然の行為だろう。つまり扶養されている立場の子供は親に対して責任はない。だから逆に子供の立場から親に親の子供にとるべき責任を請求する。そのようなものとして私たちは私たちにとっての偶像に対して、それが自分の生活上で重要な影響力を行使するものに対しては請求する。為政者にはもっと生活レヴェルが安定し、楽で幸福な生活を保証してくれるタイプの偶像へと挿げ替えたいと願う。それは端的に責任をその偶像がなし得るべき能力に関しては一切自分の側からは責任を負わないと言うことを意味する。
 序の中での結論としては、意味が二つのものごとにおける関係が生じさせるということと、自分にとって親しみがありよく知ることに対して、我々はそのことに対して自分ほどではない人に対して責任を負うということが自然であること、そして自分にとって親しみがなく知らないことに関しては漠然とした他者(特定の人に対して指定することが出来ない、何故ならそのことに関する知識がないので判断が下せない)へ全てを委譲する。その時責任転嫁が行為事実として発生する。だから全ての成員は責任を負うことと、責任を負わないことの二つにおいて意思疎通を図り、社会的行為をし、生活を成立させているということを前提として述べておきたい。

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