Thursday, September 2, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part2

 少しもっと日常的視野を求めて考えてみたい。
 前章で私は基本的に私達が如何にエゴイスティックに生活しようとしても、それを成立させようとする中で必然的に利他的にならざるを得ないと述べた。
 そこで私は「青年に特有のエゴイスティックな正義観やら、年配者に対して不純なものを感じ取ってしまう固有のヒロイズムもまた、そういった他者に対するお節介的な利他主義である」と言ったし、「もし仮にある青年が酷く中年以上の人々の生活全般に対して反抗的意図を持ち合わせているとしたら、それこそその反抗する相手に対して何らかの自己内で言説的に設定した理想を当て嵌め、その理想と著しく乖離していることに不満であるからである」とも言ったが、そのことに就いて前章では特に言及しなかったので、そのことを軸に考えてみたい。
 青年期に抱く固有のヒロイズムは個人主義と自己責任への気負いから他者をも巻き込む固有のお節介型の利他主義であることは確かだが、自分より年長者全てが自分より不純に見えるとしたら、それは端的に社会的に責任者としても自己への要請としても認知されていなさがそういう気負いを、武者震い的に与えているとも言える。しかしこれはやはり立派な共同体成員意識であるが故に利他的である。何故なら自分と志を同じうする者への配慮を意識が控えさせているからだ。
 ヒロイズムとはどんなものであれ、気負いから成立しているが故に義務的感性を自己に強制することに愉悦を感じているが故にその感性に共鳴する者に対しては結束心を共有するという意識をどんな者にも持たせる。
 しかし後半の反抗的意図となると、それはもっと過激である。要するに自己の自己への期待とか責任付与に於ける実現されなさが鬱屈した社会的存在理由の認知されなさと自己へ付与されなさに対する焦燥がそういう態度へと主に年配者へと注がれるわけだ。
 従ってこれだけやる気があるのに、社会はそれ相応の責務を自分に与えてくれないという意識がある以上その意識には社会に対する信頼が根底にはあることとなる。つまり「反抗する相手に対して何らかの自己内で言説的に設定した理想を当て嵌め、その理想と著しく乖離していることに不満である」状態とは、端的に社会とか自分が期待したのに期待外れに終わった多くの年配者に対して少なくともその一定程度の信頼と技量に対する容認の意識を持っている。つまり少なくとも相手に不満を抱けるということ自体に、相手の能力を(それが社会一般であるなら、その社会に同化しようという意識を植え付けさせる社会への希望を)信頼していることを我々は読み取ることが可能なのである。
 もしどんな年配者へも、そういった人達全体としてある青年個人に降りかかってくる社会一般に対して信頼もなければ、又その社会や社会成員への能力的評定自体へ懐疑心が自己内で蔓延しているのなら、いっそもっとニヒリスティッシュな態度へと青年を駆り立てる筈だ。
 しかし不満を持つということは、その不満を不平を誰かに漏らし、そこから打開策を見出したいという欲求を認めることが出来るが故に、我々はその青年の希望を容易に読み取ることが出来る。最早何の不満も漏らしてもどうすることも出来ないという者に不満という感情は起こらない。
 勿論通常の人生でも一度や二度くらいならそういう気分へと陥ることもあるだろう。或いは本当の意味で不幸な境遇とは、そういう風に一切の不満さえ抱けないという状態にある、と考えることも可能である。だが逆にそのことは、不満さえ抱ける様になるということは希望の萌芽であるということになるのだ。

 その当の希望とか信頼ということ自体既に感情的な様相であるし、その感情的様相を快として、或いはその快を得ることを理性的に善しとすることに於いて決然としていること自体に、生の意味を我々は感知し認知している。そこでも感情と意味が希望も信頼も支えている。
 否それどころから我々は挫折や裏切りに遭い、或いは理不尽に誰かに殺害されようとしかかっている瞬間でさえ絶望という名の希望と信頼という俎板でのみ成立する感情に満たされている。
 もし今まさに殺されかかっている人があったとしても、その者に愛情とか信頼とか希望という観念自体が全く欠如していたなら、その者は絶望に打ちひしがれることすらないだろう。或いは容易に殺されること自体を受け入れる(受け入れるという積極性さえない状態で只機械的に)だろう。
 つまり感情と意味の相補的一体性こそが制度へ受容する様に積極的に社会や共同体に同化しようと試み、その中でピアプレッシャーを感じつつ生活する中での全ての反省意識を支えているとも言えるし、又そういった日常生活全般を支える根源的な意志(volition)を育んでいるとも言える。
 信頼も希望も実はかなり深く時間感覚に根ざしている。
 例えばある人が今教授してくれることは、将来の自分にとって何らかの役に立つだろうという目算で何らかの専門教育を受ける受講生にとってその教授自身への信頼は自らの学者とか技術者という専門家としての将来への展望に根差しているし、ある日の講義で先週その日することとなっている講義内容にわくわくするという希望に満ちた朝の学生にとっての気持ちはその日の正午前に終了する一時限目の講義という近い将来へ向けられているという意味では、全ての信頼や希望は時間なしに成立し得ない。
 それは過去から現在までに渡る時間的推移と、これからもまた継続されるであろう、そういう時間の推移に対する移行過程そのものへの直観でもある。

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