Sunday, September 19, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part4 記憶と人格

 三十年前の自分とは今の自分にとって既に他人である。
 三十年前の自分とも今の私が出会え、しかも三年前の他人とも出会えるとしよう。恐らくその時今の私にとって三年前の他人の方が三十年前の自分よりもより身近に感じられ、話も合うことだろう。
 私にとって15年来の友人K氏と最初に出会った15年前の思い出も、5年くらい前の彼との思い出も、2年くらい前の哲学塾KでのF氏、S君、F君、I君、Y氏との思い出の方が三十年前にあったことよりも私にとっては懐かしい。
 何故なら三十年前には古い付き合いとなったK氏とも、今親しくしているT君、N君、Y氏、Y君らとも誰とも知り合っていず、しかも当時親しかった人達とは今では誰一人として親交がないからである。
 どうも人は(私だけかも知れないが)今現在重要な出会いとなっている人との間にあったことの方を時間の隔たりを持って記憶されていることよりも優先して思える様になっている様である。
 しかも今現在親しくしている人との間の思い出は、たとえ15年くらい前でも今年にあったことでも、どちらが思い出しやすいということなく変わりなく思い出せ、それはつい最近知り合った人達との間でのエピソードと比べても何の遜色もないくらいに私の記憶上存在するが、疎遠になっていった人々との思い出の方は、それがたとえ一、二年前、厭もっと三ヶ月くらい前のことであってさえ、未だに親しくしている人との15年前の思い出に比べて遠く感じるものである。明確に詳細を思い出せないことすらある。
 また、私自身に於いても今現在から見て三十年前の自分とは、今の私から見て三十年間歩んできた私自身の歴史を三十年前時点での自分故一切所有してはおらず、その後三十年歩んできた私しか知らない事に於いて、私は三十年前の私と話をすることが出来ない。そのことで私はいささか物足りなさを感じもするだろうし、それに引き換え三年前の他人であるなら、少なくとも今の私にとって、三十年前の自分より二十七年分の共有し合った時間があるのである。従って私は却って三十年前の私に対して、三年前の他人より余所余所しさをきっと感じる筈なのである。そして三十年前の私と、三年前の他人と二人同時に私が相対するのなら、私はより三年前の他人との間で話が合うことの方がずっと多いだろう。
 私は三十年の間に何度も身体の全ての細胞を入れ替えてきている。従って今の私がいきなり三十年前の私と出会ったなら、まるで他人の糞生意気な若造と相対しているかの様に思い、傍らに三年前の他人がいたのなら、その者と共に三十年前の私を非難さえしているかも知れない。
 ここで私が考えていることとは、懐かしさとは時間が隔てられているという単純な今現在との間の時間の長さによって与えられている感情ではない、ということである。しかしそれは何故か?
 それは恐らく記憶というものが、過去の再現ではなく、今現在による過去に得た経験的事実の意味(過去に得た)の再生であるからではないだろうか?
 従って1ケ月前のことも六年前のことも然程今の自分にとって重要度というものに違いがないのなら、双方とも克明に思い出すことは容易である。しかし昨日のことでさえ私は今の私にとって重要でないことを、今の私にとって重要なことと同じ様には思い出せないし、三十年前のことでも、今の私にとっては既に何の関わりもない出来事を、たとえ記憶していたとしても、私はそのことを今懐かしいという思いを持って想起することなどないだろう。懐かしいと感じられているのなら、それは今現在の私の、或いは私の感情(に於いて重要であると思えること)と関わりがあることなのである。そして三十年前にあった今の私から見て今の私には何の関わりも感慨も齎さないことよりは、ずっと私は半年前にあった今の私にとって重要なことを懐かしく思い出すだろう。
 それは記憶と人格の問いへと私達を誘う。
 何故そうなのか?
 それは端的に個々に於いて過去全体に対する思い出し方、想起する契機自体に差異があるからである。つまり記憶事実の再生という脳内思念自体に恐らく全ての個が固有の傾向を有している筈である。それは記憶が人格を形成しているという当然の事実以外に、人格が記憶事実を再生している、或いは人格が記憶を保有していて、全体を司っていると言うことも出来るからだ。
 例えば私は日々現在未来へ向けて努力したりして、何か実現したいと望み常に何か取り組んでいる。しかし同時にそのことで、過去はどうであったということを現在との比較で考える。しかしそれは過去にこれこれを習得出来ず失敗した、とか逆にあれは実現し得たということがあるから未来への今現在の設計も成立していることを私は知っており、そこではたと過去を想起することはある。何かを中断した時などである。何の気なしに外の風景を室内から眺めた時などにである。
 その時今何をしているかという状態もそうであるし、今現在を形成している自分の意志と行為全体を支えている私の人格が固有の読みを過去に対してするということはあり得る。つまり三十年前にあったことを今の私は今の私の人格を通して思い出している。その時の自分の気持ちを記憶はしているが、それはその後の三十年間の経験によってその時のままの気持ちからかけ離れている。
 当時辛かったことでさえある覚めた見方も出来る。そういう意味では常に記憶とは現在の作用である。そして過去全体の在り方を規定しているのも現在の自分である。そしてあたかも私は三十年前に辛かったことをありありと思い出せはするものの、それをあたかも他人の様に眺める様な感じで思惟することも可能なのである。それは過去の人格に今の私の人格が左右されている部分はほんの僅かであり、今の私の人格が過去の私の人格を俯瞰している部分の方がずっと広大であることを私が知っているからである。
 今の私の人格が過去の私の経験した事実の意味も変え得るということは、端的に認知が過去の感情を統制している、という側面も強い、ということを意味している。

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