Friday, September 17, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part3

 私は今根幹の問題として同一性の問いが、情動の問いとどう関わるかということが最大である、と考え出している。何故そうなのか?
 意外と答えは単純である。
 まず我々は必ずいつかは死ぬ。しかし死ぬ瞬間まで死ぬといことがどういうことであるか、ということを明確に語れる者は残念ながらいない。瀕死の状態を経験したり、臨死体験を体験しても、それは即ちそこから帰還したという一事を持って例外なのであり、つまりそれは生の中での出来事であるに過ぎない。
 しかしその死ぬことが分かっているからこそ、「しかし今私は死んでいない、生きている」という形で私は自己同一性を、例えば私であるなら51年近く生きてきたという形で理解している。
 しかしそれはある意味では私自身が日々変化しつつあるという事実を無視した記憶としての過去から現在への同一性に支持されている、ある固有の想念でしかない。私は一日の間にそういった自己同一性について考えているわけでも想念しつつあるのでもない。厭寧ろ積極的にそういった思念はある時突如閃くくらいのことでしかない。私は何かの拍子に昨日の朝食で何を食べたか想起することがあるかも知れないが、その時までその必要性がなければ、一切それを敢えて思い出そうとは思わないし、そのまま何と言うことなく忘れ去っていくことであろう。しかし当然のことながらその事実に私は格別悲しくもない。それと同一性への問いはある意味では同じである。それは問えば分からなくなるが、問わなければ誰しも理解しているとも言えることであるからだ。
 つまり私は日々ある部分では大半のことを忘却しつつ生活していく、そしてだからこそ全ての自己同一性を自分の中に維持し得る。それはそういった連なりであることだけは理解出来る私の日々の中でもっと重要な幾多の事項が、ある時間系列に於いて前後関係だけは理解し得て、その詳細な日々をカレンダーに印をつけたこととかから「ああ、そうであった」と想起し得るに過ぎない。
 そして大半の私の想起は時間系列的であるよりは、よりエピソード的に個々のことに於いて想起される。只K氏と知遇を得たことと、N君と知遇を得たこととの間にある十数年という歳月を私が認知し得るが故に、個々のエピソードの先後関係をも認知し得るだけのことであり、それは個々のエピソードの重要性とは何の関わりもない。
 同一性は只単に時間系列的なことではなく、要するにある過去に経験した事項を私がいつでも即座に想起し得るという事実に於いて成立している。その意味では同一性とは記憶という名の別名でさえあると言える。ありありとした記憶を生きる私という事実に対する認知である。
 しかしそれはある意味では現在の様々な知覚と、現在進行しつつある関わりある出来事、関与と言う事に於いて認識され得る、つまり現在こそが想起させている、とも言える。つまりそれは現在の関わりや現在の諸問題にかかりきりになる、という意味で、過去を意味化している、つまり現在の側から過去を意味づけているとも言える。
 しかしその意味付け、つまり現在を現在として認識させる認知は明らかに、過去の記憶が総体として、或いは個別の想起を伴って理解されている、というやはりそれも現在の認知でもあるのだが、その事実が支えている。それは感情が情動的なことの現在に於ける意味づけに於いて、過去を過去性として、或いは過去を現在へと連なる何らかの因果的誘引材料として認識するが故に、記憶を一つの財産として認可している自分という、つまりそれも一つの大きな自己同一性なのであるが、それを伴っている。
 確かに過去は一つの記憶上での財産である。それは一つの価値的響きを持っている。勿論それは記憶能力に拠っている。記憶はそれを仮に「その時にそうであったこと」と多少ずれていたとしても尚、その事実が在ったという事に於ける想起能力の故である。
 記憶(同一性を支えているもの)が情動を誘引し、情動は感情的に過去から現在の系列の中でそれを意味づける。そうすることで、現在が過去を想起対象として秩序づけてもいる。つまり同一性が情動を、情動が同一性を支えている。それは凭れ合っているが故に、同一の作用でありながら、個々全く別のこととしても抽出し得る。
 欧米哲学的認識の要素還元思考的認識方法と、全てを連なりとする中国起源とする東洋指導とが一元化される、ということはそういう個別的に想起し得るということと、それを総括的に分かち難いとする、やはりそれも同一性の問いによってである。
 同一性はある意味では環境総体的には東洋的であるが、個別想起に見られる固有性に於いてはかなり欧米的である。つまりこの二つはやはり切り離して考えることは不可能なのである。

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