Saturday, July 17, 2010

<感情と意味>第四章 第二節 デュアルな認識とクオリア

 私は半ば直観的に自分(自我的私)と自己(客観的認識を持とうとする責任と目的的な私)にとって私の中の他者を説明する時、既にデュアルな認識を持ち出してきていた。しかしそれ以上にその時私の内部では言葉の無力、あるいは私による言葉の駆使力の無を感じざるを得なかったのだ。
 しかし私の脳内の表象において視覚的能力に関して私は比較的信頼することが出来る。言葉がかなり言葉と言葉の間になんとも言えない隙間を感じるような意味では視覚はもっと詳細である。と言うのも言葉は段階と階層を作るが、視覚世界ではまさに私は見ることにおいてもグラデーションを感じることが出来るし、その気になればグラデーションを空間的に絵筆を使ったりして表現することさえ出来る。それは要するに知覚的にクオリア的に立ち上がる。
 しかしそれを立ち上がらせるのは感覚だけではない。それ以外にはまさに今私が述べた全てに対してデュアルな認識を、二項を設けることによって設置し(例えばよく知る世界と、よく知らない世界というように)その間の推移に視線を移行させようとする段階論的、手続き的な意図自体が私たちになんとも言えない無力感を与えるということ自体が、クオリアを立ち上げさせているのである。何故ならクオリアとはよく知っている(つもりである)ことの内にあるよく知らないことに出会った時にセレンディップに感じるような気がするからだ。それは知識内で、知識外的体験を得ることではないだろうか?

 ところで神という一語は未来への不安ということと抱き合わせのものではないだろうか?もしそうだとすると、神としての概念やクオリアを立ち上がらせる言葉の無力、並びにそれを作る当の日常的退屈な連鎖自体もまた一つのアンニュイとメランコリーを付帯させやすい現実自体もそれ自体として固有のクオリアを形作っているとは言えないだろうか?
 つまり神と私たちが何かに対して言う時、私たちにとって何かとは端的に一番知りたいことであるのに一切知ることが出来ない未来における事態の展開であるような何かである。受験に合格しているかとか、希望の社に入社し得るかとか、理想の相手と出会えるかとか。そしてクオリアとかそういうセレンディップな感受自体をとんと感じることなくやり過ごしてきているこの退屈な日常的連鎖自体が、一つの遣り切れないクオリアを放っているとさえ全体としては私たちによって言い得るのではないか?
 つまり私がずっと言い続けてきた漠然とした私を取り巻く大いなる環境や、厳然と私自身の能力を超え得る「世界」とは神とも不可分なものであるが、それは生活するこの主体の存在自体を成立させているという意味合いからは厳然としていると同時に密接でもある。世界は生活を成立させる私の身体を環境を吸収する能力の側からすれば「私の世界」以外のものではない。これは何も独我論的な認識でもない。もっと直接的感受の問題である。
 ベルグソンの純粋持続とは全てに固有のクオリアやセレンディピティーを吸収して無化さえし得るこの頽落した日常的責任と目的に縛られた行為の連鎖の別名だったのではないだろうか?
 私たちはこの不合理な日常を取り敢えずの納得でも、かなり進化した段階までも、より理解しやすいようにデュアルな認識を持つ。例えば主観的とか客観的とか。
 しかしその二分的常套性こそがクオリアを価値的に立ち上がらせている。本来デュアルな認識が「世界」を把握し、更に理解させるために用いられた合理的不条理であったのに、今度はそれを常套的なものに脱落させてしまう霊力のようにクオリアに惹きつけられてしまうこととは、まさに嫌味な人間から常にいじめに近いことを言われ続けた者が、ある日優しい一言をかけてくれる別の人間と出会った時の感動によく似ている。まさにそれがいかにもどかしくても、それ以外にしようのないことを感じ取っている時私たちは頽落した日常をすんなり受け入れているが、そうだからこそあるその頽落的日常から脱自し得る瞬間の到来はセレンディピティー足り得るのである。

 ここで再びカントが提示した問題にストローソンを通して立ち返ってみよう。ピーター・フレデリック・ストローソンは次のように第四二律背反に関する分析において述べている。(「意味の限界『純粋理性批判』論考」熊谷直男 鈴木恒夫 横田栄一訳、勁草書房刊)
 「(前略)カントがこうした要求者(すなわち持続的諸実体)の経験的に非依存的な現存在の身分に対する要求を考慮する限り、彼はまさにそうした要求を拒否する理由─但し説得力に欠ける─を与えることになる。その第一の理由は─これはほとんど真面目な考えとは言えないが─物質の非存在を考えても矛盾はないのではないかということである。しかしこうした拒否の理由が当て嵌まるのは、単に、概念的にもしくは論理的に保証された現存在というまさしくこの概念の名においてなされる要求に対してに過ぎないのであって、カントは正当にもこうした概念は理性の濫用であるとして否定しているのである。他の理由は、もし我々が物質の現存在を非偶然的と認めるならば、決して終結することのない説明の追求という統制的原理の自由な濫用に制限が加えられることになるであろう、ということである。しかしそうではないのである。というのはこうした非偶然的に現存在するものは我々の問いに対する答えではなくその主題を、すなわち我々の研究のまさに素材を提供すると考えられなければならないからである。〔こうして拒否の第二の理由を斥けられることになるのであるが、〕しかしもしこの論点それ自身が、〔2〕★に対応しているとかの要求者の要求を拒否する理由とされるならば、上に阻止しようとされた、非存在的に現存するものおよび最終的説明を与えるものという二つの概念の合体が再び肯定されることになる。」(Ⅲ超越的形而上学 中272ページより)
 ここでストローソンが「理性の濫用であるとして否定している」カントの主張は、実は概念的規定性において私たちが「世界」を漠然とした厳然性において理解しているからこそそれを世界と呼ぶようなこと自体への抗い難い容認である。確かに全てが虚無であるという認識自体も常に思念上では成立し得るだろう。しかしそれはそう問う当の素材から誘引される一つの誘惑にしか過ぎないということを「こうした非偶然的に現存在するものは我々の問いに対する答えではなくその主題を、すなわち我々の研究のまさに素材を提供すると考えられなければならないからである」の一節は物語っている。つまりそこから我々は問うことを始めているということなのである。「もし我々が物質の現存在を非偶然的と認めるならば、決して終結することのない説明の追求という統制的原理の自由な濫用に制限が加えられることになるであろう、ということである。しかしそうではない」とは必然に対してそれを必然化するもう一つ高階な次元の真理を求めることを意味するが、どこかで区切りをつけることを私は自我であると捉えているが、カントの主張はそうではないのだとストローソンは考えている。その根拠として厳然として存在しているが、その境界も臨界も限界も我々によっては知られることのない茫漠とした「世界」こそが、私たちに身体を通して世界を感受している事実を通して全ての問いを産出させているということをカントは問題にしたのだ。それは全人生において我々が納得する「今ここにいる」感じ自体を特化させる「世界」の成立根拠への問いが、その固有の感じによって得られているということに対するカントを通したストローソンの主張であると読み取ることが可能である。
 更にストローソンは次のようにも言う。
 「すなわち、世界の一切の特殊的現存在は経験的に偶然的であり得るが、しかし世界全体は経験的に偶然的であることはできない。というのは世界全体が依存できるようなものは何も存在しないから。こうして再び経験的に非偶然的な現存在は探求の終末を意味するのではなく、その主題を与えるのである。」(同 中273ページより)
 ここでストローソンが主張する「世界全体が依存するようなものは何もない」という謂いには解説が必要である。
 私が我々の知る宇宙を宇宙Bとし得る理由は、それ以前的に宇宙Aがあり得たかも知れないということから演繹されよう。しかしその宇宙Aをもその存在が確証し得たのなら、その時宇宙Aは宇宙Bとワンセットとなって一つの「世界」足り得よう。つまり「世界」とは境界も臨界も限界も全てファジーであるのだから、常に如何様にも拡張し得る。そこで存在が証されてしまえば、それをも含めて我々はそれを「世界」と呼ぶだろう。従ってその世界をさえ依存し得る思惟とは神をおいて他にあり得ない。しかしそれをここで依存性において理解することは出来ない。何故なら何度も言うが、神とは絶対的孤絶の別名だからだ。だからこそこの「世界」の茫漠とした厳然性こそを神と不可分のものとしたことこそ語彙「世界」の成立根拠ではないかという私の懸案はそれ自体説得力を持つように思われる。
 つまり以上のことを綜合して結論づけるとすると、何かいじめられた日常の中で自分のことを親密な態度で接してくれる人と出会ったことも確かにミクロ的な意味ではセレンディピティーであるが、私が言いたいことは、この身体において「世界」から全ての問うことの根拠を得ているという事実自体がまさにウィトゲンシュタインが「世界とは一つの事実である」という論考の有名な一節の示すようにそれ自体一つの、いやそれより最大のものの皆無であるところのセレンディピティーなのである。
 しかしそのようにセレンディピティーを感得させてくれる当のものは、カントもストローソンも考える上で利用した偶然と必然というデュアリティーであり、そのように二分性の名の下に概念提出してしまうことの必然的自然な感じこそが一つの「考えることにおけるクオリア」なのかも知れない。
 つまりこのようにデュアルに認識していってしまうことに疑念を抱かずに取り敢えずの納得をして進行させていく私たちの習慣依拠的性向こそが、「行為や思考の個別性ということもまた一つの哲学的表象以外の何物でもない」と私に記述させていったように私に対しても問うことの素地を提供した「世界」が茫漠たる広がりを持ち、境界も臨界も限界も全てがファジーであるような厳然性において、私たちが存在の根拠を与えられているということであるならば、赤いバラに美しさを感じる日常も、その美しさをずっと見過ごして記号的存在としてのみ赤いバラを取り扱ってきてしまったことのアンニュイとメランコリーな日常をも全てを吸収する 「世界」=厳然とした事実 こそが最大のクオリアであるとは言えないだろうか?そこにデュアルな認識が常に網を被せるように待機している、ということである。

No comments:

Post a Comment