Thursday, July 15, 2010

<感情と意味>第四章 意識・クオリア・意味連関 第一節 記憶とクオリア、意味とクオリア

 意識して何かを語るということがある時、私たちはそう意識する自分の日常においてはあまり意識しないで語ることが多いということを知っている。勿論明確にそう意識しているわけではなくただ何となくそう感じているからこそ、意識して語ろうと意志する。それはそういう風に意識しないで語ることが日常において多いのではないかという直観的な反省からそう決意しているのだ。
 赤いバラが美しいのは、赤い色自体が美しいということと、その美しい色をしている物質が花びらであり、花弁であり、それらを空間的に成立させている状況である。そしてその状況を美しいバラを鑑賞しているということとして成立させているものは、そのようにじっくりとそのバラを鑑賞する心の余裕を持てるというその時の生活事情に立脚している。と言うことはそれまでそのようにバラの赤いということが美しいなんて感じもしなかったという平凡な日常がそう感じる状況の周辺に常に介在していたということを意味する。
 その意味ではクオリアとは端的に比較的近い過去における習慣や、そういったあまり赤いバラの色彩的、質感的美しさを感受する心の余裕のない日常が横たわっていたということに対する漠然とした認知が赤いバラのクオリアを感知する当の存在者にあるということを意味する。
 その意味ではクオリアとは相対的に記憶と連関している。そして赤いバラがこんなに美しいなんて日頃から知ってはいても、それを切実に感じはしなかったというある平凡なクオリアを感知する心の余裕を持つことを軽く阻む、絶対的ではなくそれとなく失わせる習慣的記憶がまず前提されている。
 つまり端的にクオリアをクオリアとして成立させるものとは、そのようなクオリアを成立させる状況連関における相対的な記憶上での習慣と、その習慣に対して意識を向かわせる私たちの私たち自身の日常への意味づけに他ならない。
 例えば何て美しい赤いバラなんだろう(言語的知覚)、ということは、何てこの赤いバラは美しいんだろう(純粋視覚野的知覚)ということと密接である。それは赤いバラを一度も見たことの無い人もいるにはいるかも知れないが、それは恐らく極めて稀である。そして一度は、あるいは数度は見ていたが、それほどそれまでは感動することがなかったという経験的な習慣とそういう習慣を取らせていた何らかの生活的事情がある。
 まず目の前に空間的視覚的に提示された赤いバラは、それを知覚的に赤いバラであるように認知することと、その認知される以前的に視覚野において赤さとして意識されているということを同時に動員されていることによって、知覚を言語認識の側から理解しようとすれば、確かに以前にもこのバラを見た時のような経験もあったということと、純粋視覚野的な感受ということで言えば、最近こんな目の覚めるような赤い色をあまりじっくり見たことがなかったということにおいて、両面的に記憶に依拠している。前者は意味記憶的に、後者はエピソード記憶的にクオリアを把握している。
 しかしそのように赤いバラの美しさをクオリアとして実感し得るものは、視覚野でも、自分の日常的生活上での意味記憶からでもなく、その赤いバラをじっくりと見据えるという行為の状況を成立させる、生活連関的な意味、あるいは意味連関的な生活体系そのものである。
 つまりどんなに赤いバラを美しいと言ってみたところで、その赤いバラ自体が固有のクオリアを持っているということもあるが、それ以上にそのクオリアを敢えて美しいと感じる心の側の日常的な相対的状況連関ということにおける意味づけと無縁にクオリアが成り立つということはあり得ない。
 つまり気もそぞろな時にぼんやり眺める時、どんなに固有のクオリアを視覚野では感じ取っていてもそれを殊更印象的な視覚体験にし得るものとはその時に赤いバラを眺めている存在者による心の様相である。だから逆にその赤いバラが大して高価ではなく、どこにでも売っている平凡な種類の赤いバラであったとしても尚そのものを見る側の心がヴィヴィッドに赤いバラを印象的なものとして捉える様相がありさえすれば、即ちそれは赤いバラに固有のクオリア、あるいはそのバラの持つ赤い色や固有の質感を抱いたクオリアを成立させることが出来る。
 それは必死にワードを打ち込んでいた存在者が一定のワードによる記述が成功した時に達成感を得た上で一口飲み干すコーヒーがいつになく美味しいと感じるのと全く同じようなこととしてである。
 つまりクオリアとはそれをクオリアとして感知する主体による日常状況性とその日常状況性全体に対する日頃からの把握、理解、それへの感情的様相と、その日常的ルティン自体への反省的意識と生活連関全体への感情と不可分のものである。
 それは何かをする、行為する主体による意識的行為とは、それを意識的にしなければならないという反省的意識を一方で必要とするということと全く同じ構造を持っている。つまり何かを意識してするということ自体が既に何かを意識してすることがここのところあまりなかったという欠乏感に起因するのである。だから逆に真に感動し得るクオリア体験とは、常日頃からクオリアを感受することを心がけている例えばカラーコーディネーターやファッションデザイナーやアーティストたちよりも、一日中書類と顔を突き合わせているような職種とか、要するに色彩とか質感といったことに対して敏感に接することの少ない職種においてこそ、寧ろ多く感受され得ると言ってよいだろう。
 例えば日々風景や生物と格闘している画家の場合、その時キャンヴァスに向かう意識を活性化するものとは、端的に絵の具の色彩でもモデルにしている眼前の風景でも、セッティングした静物の構図でもない。それは端的にキャンヴァスにその時に向かうこととなった心的なモティヴェーション、それは絵を描く行為自体を動機付ける(それもまたクオリア的なことかも知れないし、全くそういうタイプのものでもないかも知れない)職業的本能的な心理であるし、生活上での戦略であるし、つまりそれらが一同に会した時に、たまたま眼前にモデルになった風景や静物の構図とか、使用する絵の具とかが綜合されてそれが契機となって発動される絵画理念と、絵画技術と、それらを成立させる画家のア・プリオリな美感である。勿論そこには画家が生まれてきてこの方感じ取ってきたクオリア全般に対する理解や自覚といったものがあるだろう。
 勿論クオリアとは視覚的なことばかりではなく、味覚もあるし、聴覚もある。しかし本節では取り敢えず視覚的なことが分かりやすいのでそれだけに絞って考えてみよう。(次節では音楽と情動を取り上げる)
 一日中ワードやエクセルに向かって仕事をしている者にとって休憩中に読む本の印刷された文字は目に優しい。逆に一日中本を読んでいる者にとって時々パソコンの画面に向かって読むインターネットやブログの文字、あるいは画像は鮮烈で印象的に映る。つまり視覚に限ってみても、既に我々は生活連関において、生活上での状況的連関においても相互関連的に常にその時々の視覚的感受自体を意味づけして捉えている。だからこそ夢に出てくる風景がそういう日常的な視覚体験と、過去における印象的なエピソードとが相まって作用していると考えることも極めて自然である。
 つまり私たちの脳は常に記憶も意味づけ、クオリア的感受自体も意味づけている。視覚体験的内容そのものも意味づけている。それは視覚経験的な内容や見るものの性質や対象の種類的なことに関しても生活連関、状況所有的相対的判断で、個々のものに接している。純粋にその時に目にしているものに対してのみ意識を集中させているように見えてもそうなのである。それが哲学者たちによって多く考えられてきた表象ということなのである。
 だから表象ということ一つ考えても、それはその都度の視覚体験において視覚野において顕現されることだけに限るなら話は別だが、その時その視覚的表象自体をどう受け取るかという意識の問題になると、感情と意味が関わってくる。それこそがフッサールが晩年表象を没落させていったと捉えたポール・リクールによる「承認の行程」中で述べられてきたことなのである。
 表象は日常的生活の連鎖の中から反省意識と日常的欠落感の中から立ち上がる記憶の想念があたかも恒常的にあるかのように思わせる哲学ターム上での幻想なのである。それは意識もそうだし、クオリアもそうなのである。目の前に見える赤いバラの美しさとは、そう考えれば確かに赤いバラを表象させる一つの脳内における視覚野の脳内発火現象であり、表象であろう。しかしそれはそう捉えることで得る一つの理解の仕方のミーム名なのである。寧ろ我々は常に赤いバラを眼にした時、赤いバラの美しさの内容を生きるのであって、赤いバラのクオリアを、それを意識と感じる私を生きるのではない。私とは常に<私による「意識やクオリアの内容」>なのである。
 言ってみれば、クオリアとはクオリアが立ち上がっているとそう言ったり、敢えて赤いバラを見た時に感じるとそう捉えてみたりすることによって、寧ろ責任や目的の名において自らゾンビを受け入れるような生を生きる生活者としての私たちが日常的生活の連鎖の中で価値として立ち上げるミームなのである。だからそのミームを実感として立ち上げることで視覚野的な表象全般に対して、それが何かかけがえのないものであるかのように思われてしまうのも、実はいつまでかは覚えていたことなのにいつの間にか忘れていったばかりに美しく思わせる恐らくそう大したことなどなかった記憶の仕業なのである。
 私たちは全てを等価に記憶しておくことが出来ないから、必然的に覚えていることを取り敢えずその時印象的であったとか、それが意味的に重要なことであるとかいってそれらを特別に存在価値があったこととして認識する。しかし同時に我々はいつか見て心にとめておいたにもかかわらず、日常的連鎖の中からいつの間にか取りこぼしてきてしまったように忘れてしまった記憶を何かあたかも人生において一番掛け替えのないもののように思い込む部分もある。つまりその掛け替えのなさとして実感させる相対的把握自体が私たちにクオリアを格別の雰囲気と相貌の下で特化させる。
 意識もそうである。確かに意識とは眠っている時は大半が失われているが、脳自体は一時も休むことは無い。そしてそれを知っているからこそ、意識が覚醒時に明確であることを何か特別のことであるかのように価値的に特化する。そのように特化させることこそ「意識」という名の哲学的表象であり、その哲学的表象を特化させる日常的連鎖の責任と目的のある(かのような)行為や思考(私は前節で行為だけを特に述べたが、思考や思念も個別性として捉え得る)を作る、つまり本来はそれらに内在していた筈の個別性を行為や思考から剥奪する、簒奪すると言ってもよい、意味の呪縛を受け入れる他者存在を自己の中の他者として実感する対他的志向の作用である。
 しかしそう言ってしまえば、そう言わせる行為や思考の個別性ということもまた一つの哲学的表象以外の何物でもないのではないかという批判が聞こえてきそうである。まさにそうである。それもまた私による半分意図的でさえある哲学的表象以外のものではない。
 しかし私に敢えてそう言わせる何らかの根拠があることも確かである。そこで次節ではそのことを中心に考えていってみたい。

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