Monday, July 5, 2010

<感情と意味>第三章 第十節 行為の個別性と責任における行為の目的性

 行為が個において充足しているのなら、それは外部から見れば個別的なことでしかない。あっちはあっちで勝手に何かしているということなのだから。
 しかし一旦集団内で役割分担と責任が発生している段階では行為には一定の社会的目的が与えられる。つまり社会内での責任遂行という側面からの認識が与えられるからである。社会内的行為は全て社会機能維持の観点から個人の自由ではなく、社会内の秩序として認識され得る。だからこそ一々の個人の行為を異なった個人間で異なった語彙で示すことの無意味が発生するのだ。ある行為はただその行為をする個人にのみ帰着し、還元されるのなら、それは個別の個人に固有の行為であるが、社会機能として職業的な行為となった時、それはどのような種類の行為であれ社会内の機能に寄与し、貢献するものとして、一定の社会的目的という名目が与えられる。たとえそれが建前上でのことであっても、名目が与えられるということが大事なのである。何故ならそれはその行為をする者がいい意味での社会的責任転嫁し得る相手として社会内で認可されることを意味するからである。もっと簡単に言えば「あの仕事はあの成員に任せておけばよい」という認定が与えられることを意味するのだ。
 つまり行為に責任が与えられるということはその責任遂行に伴って報償や権利が与えられるということを意味する。行為が社会的目的を与えられるということにおいて初めて責任という概念が個に発生するのだ。それは個人的な二人の関係、それがオフの日の対話であっても、その二人にとってのプライヴァシーにおいて社会的責任が適用されている。つまり個人的なこと、非社会的義務以外の時間における対話や会話にも社会的目的に伴って発生する責任が付帯してくるのだ。
 だからこそ私たちは意味から自由ではなく、意味を金繰り捨てるという意志さえもが意味の範疇で語られてしまう。脱自と言えば意味の呪縛からの解放を意図しているが、それもまたぞろ「意味からの解放」という意味を帯びてしまう。ここで言う意味とは社会的目的に供せられる行為が責任を発生するということにおける何らかのものへの従属という関係自体が、社会内では意味として認識されてしまうということから考えられることとしてなのである。
 現実があまりにも煩瑣で雑駁で不浄であるからこそ観念やイデオロギーはそれに対する印象として崇高な像を我々に抱かせる。しかし一旦我々に抱かれたイメージはそう易々と打ち砕かれ得ない。これが実は陥穽なのだ。つまり現実自体の不合理性の中に確固たるイメージを見出すことも大変だが、その見出せなさ自体を写像的に認識することもかなり大変なのである。その時私たちは観念や図式、イデオロギーの持つ正義的な正当性に依拠し、思考停止状態に陥る。
 私が友人の国井寛氏と対話する時も、谷口一平氏と対話する時も、そこには本質的に一切の虚飾を打ち払い、社会的常套的な責任倫理や制度的呪縛から出来る限り遠のいた地点で考えたいと望む。しかしそれにもかかわらず、私は一切の言説を自分の内部で理解しているようには語ることが出来ない。つまり私は相手が親しい友人であれば尚更自分が語る言葉の無力を知る。その言葉の無力とは端的に行為の個別性の中から国井氏や谷口氏に対して私が吐こうとしている言葉自体が既に言説化される過程の中で説明原理的なメカニズムを持っている言葉を使用するということにおいて、責任における行為の目的性に私の伝えたい私による行為や全ての思考を還元させてしまっているということである。
 私による私の内部の理解は意識でもクオリアでもない。ましてや言説的な構造でもない。それは端的にその都度の様相的なニュアンスでもあるが、同時に固定化を常に逃れ行くものでもあるような何らかの抽象的であり且つ具体的でもある存在の仕方をするものである。それはものであると同時にことでもあり、現象でもあると同時に原理でもある何かである。しかしにもかかわらず私による言葉は<「私による」言葉>から一挙に<私による「言葉」>へと転落する、と言うよりそのように変化する。それは価値的になることと引き換えに私からどんどん離れていく。
 だから本当に相手に理解して貰いたいのなら、いっそ全ての言葉を語ることを停止し、沈黙して相手の表情の動きや息遣いに対して同意をするか、さもなければ相手から私の表情の動きや息遣いを汲み取って貰う瞬間を待つしかない。
 しかしそれでは一切の理解が得られないように私たちの言葉が私たちの首根っこを掴む。つまりそれだけ私たちは「価値から逃れたい」と望みながら価値に益々拘泥していくことを意味する。つまりもっと分かりやすく言えば私の行為の個別性を私が国井氏や谷口氏に対して訴えれば訴えるほど相手にも同じ行為をしているという理解を得ることとなり、それは私の行為の個別性をするりと抜け落ちて、相手と私の差異を無化する方向にしかシフトしないのである。
 行為の個別性とは端的に語られることによって責任における行為の目的性という無名性と、一般性を性質的に請け負ってしまうのである。
 そこで現実自体の不合理性の中に確固たるイメージを見出すことも大変だが、その見出せなさ自体を写像的に認識することもかなり大変なのである、と私が言ったことをもう一度考えてみよう。
 それは現実に最初確固とした像を与え、観念的図式で捉えていたものが、実際に経験する現実の間に齟齬を持ち、やがてその齟齬に固有の意味を見出さざるを得ないことに覚醒すると、現実自体が合理的に理解することの困難さにぶち当たり、その不合理さえも合理的に解釈しようとする我々自身に対する自己嫌悪となるが、しかしその自己嫌悪自体、あるいは不合理性を不合理性として理解することの困難さ自体を合理的に解釈することの困難さを言ったものなのである。
 つまり論理的な決定性として名詞がコミュニケーションツールとして存在しているということ、そして志向的個別性無視(通り一遍性、あるいは行為的常套性)において動詞がコミュニケーションツールとして存在しているということの二つに対して、形容詞が修飾欲求と説明不毛性の説明意欲としてコミュニケーションツールであることを我々はどこかで知っていて、その三つを組み合わせることの中で動詞と形容詞を複合化したものとして副詞(英語では前置詞も含めて)と間投詞を、前者はより中間的に、後者はより動詞の説明を不毛にするような感嘆において私たちは使用している。しかしそれらも一旦使用されると途端に常習的な慣用性に依存していってしまう。そこに崇高さも新奇性も一切なくなる。つまり使用の運命とは新奇性の剥奪と崇高さの剥離以外の何物でもないのである。
 しかし同時に一切の使用をやめてしまうと、説明の不毛を語ることはおろか、説明しないことの不毛も語られなくなる。その時記述を差し控えれば、発話へ、あるいは一切の意思疎通の停止を、発話を差し控えれば、記述へ、あるいは一切の意思疎通の停止を招聘するだろうが、何度も述べたように既に意思疎通の停止は、停止という一つの語り以外のものではあり得ないのだ。
 勿論私たちは品詞に固有の性格を知っていてそれを利用しているわけではない。ただその時々の感情的様相に忠実に、いやそういう言い方が不適切であるなら自然に、表出する。その感情の様相が自然と動詞、名詞、形容詞、副詞、間投詞を沈殿させつつ沈殿されたものの相互の類似によって集合的に決定しているのだ。
 だがここで私たちは再び意識とクオリアという問題に引き戻される。つまりそれが果たして意味と独立に語られ得るのかという問い掛けにおいてである。

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