Wednesday, June 30, 2010

<感情と意味>第三章 第九節 取り敢えずの納得と理解

 原初的には説明が不毛であることの方がずっと広大である。しかし我々はこの広大な領域に網をかけようとする。それが説明原理である。それを誘引するのは他者存在である。何故なら、説明が不毛であること自体を何らかの形で誰かに説明したいからである。そういう意味では全ての説明が不毛である固有の感じは、全て説明の網の中にあると言ってさえよい。
 しかし当初網をかけたばかりの時には、通常我々はその説明には完全には納得していない。寧ろ取り敢えずの納得であり、その時は未だ説明されるべき問題の全体を把握するために方便として納得しているに過ぎない。だから多少ずれていることがあったとしてもそれでよしとする。
 しかしやがてそれらだけでは納得がいかなくなり、詳述する必要性が出てくる。その時二つの事柄が理解される。

① 大まかに把握することがその都度必要であること。
② それにもかかわらず、それだけでは十分ではなく、より詳細かつ精緻に理解する必要性も常に残存すること。

 つまりここには二重の理解ということがある。何故そのように二重になるかと言うと、取り敢えずの納得だけでは不十分とする経験上信念となり得るような理解を我々は必要としているからである。
 
 私たちは何かを習慣化すると、その習慣となっている行為自体に対して、別段大いなる疑問を抱かなくなるものである。例えばファミレスの店員は入店してくる客に対して笑みを浮かべ「いらっしゃいませ」と言うだろう。その時彼等は別段楽しいわけではないだろうが、そのように習慣化された笑みを浮かばせることによって楽しい気分に自分も、それを向けられた客にも与えるということはあり得る。つまり笑うという習慣が心まで楽しくするのである。
 そのように考えると行為への意志が習慣化するということは、ある意味ではその時どんな悲しい感情を携えていても、それをしている間は忘れられるということを我々が知っているからである。
 だからこそ愛する家族を失った者は、その悲しみに打ちひしがれながらも、仕事に情熱を傾けることによって、その情熱を維持している瞬間の連続においては、悲しみから解放されるということがある。そしてどんな愛する家族の死であっても、長い時間が経てば、次第に悲しみの持続という、愛する家族の死において決意した習慣も消滅していく。そして習慣もまた実は何故そんなことを習慣化するのかといざ問われれば、正確に返答することが困難な「ただ何となくそうするのがいいと思えるから」としか答えられようのない説明が不毛に思えることの一部なのである。
 だから取り敢えずの納得が何故必要であるのかと言うと、それはそうしておいた方がどんどん先に論が進行することにおいて円滑であろうという目測(説明が不毛であると思えること)によるものである。しかしそれは習慣的な理解のステップであって、もっといい遣り方があるのなら、そちらに変更しても一向に構わないものなのである。
 しかし哲学上ではかなりその習慣化された思考経路に呪縛されることが多い。
 例えば哲学者は宗教家に対して「宗教とは救済という目的があるが、哲学にはそのような目的はない」とそう言うことだろう。しかしそれは違うのではないだろうか?
 ある意味ではアートも文学も宗教も科学も目的などというものなど一切ないと言ってもいい部分がある。確かに一面では宗教は死に対する恐怖を和らげてくれたりもするし、心の平静を保つというある種の目的性がないとも言えない。しかしそれを言うのなら、数学も問題を解くことで心の平静を保てるのなら、数学だって宗教と同様の目的があると言ってもよいだろうし、逆にどんなに優れた宗教家であっても自らの死への恐怖や不安を完全に克服していった者など殆どいなかっただろう。
 それにもかかわらず哲学者は往々にして哲学を特化するために「宗教には救済という目的があるが、哲学にはそのような目的はない」とそう言いたいのである。しかしそう言うとしたなら、その者は二流の哲学者なのではないだろうか?何故なら宗教の本質とは一体何かということがそう容易に外部から理解され得るのであれば、私たちにとって宗教などというものは必要ではないだろうからだ。
 それは哲学においても言えるし、科学やアートに関しても言えることである。この世の中にはまさに説明を不毛にするようなものの方が圧倒的に多く、例えば宗教でありかつ科学であったり、哲学でありかつアートであったりするものも多いと思う。
 しかし我々は取り敢えずの納得をするためによく確かめもしないである言説を理解した振りをするものである。つまり前節で述べたように「世界」とは実は決定ではないし、確定的ではなくその意味も在り方も常に変えている存在である。にもかかわらずそれを固定化された決定された全体として語彙化して「世界」と告げることをしなければ我々は何も伝えられない。そこで私たちは意味の流動性、世界の恒常的変化に一時目を瞑り不動のものとして、あるいは静止したものとして「世界」を捉えそう伝える。つまりこの言語行為上での語彙選択に既に私たちは取り敢えずの納得ということを自己の中の他者に追随して心的にしている。しかしそれだけではやはり物足りなくなるのである。そこで真理の究明ということが欲せられるのだ。その時意味伝達ということだけではなく体験ということがたちまち価値ある相貌の下に現出するのだ。
 ところで私はよく不幸が続く家族が何か悪いものが取り付いているかのように考え、お祓いして貰うという宗教的行為を決して否定するものではない(何故なら心の平穏をそれで取り戻せるのなら安いことだと思うからであるが)が、そうかと言って一切その因果論的なものの見方に科学的根拠などないと考えている。そしてそれは恐らく一生変わらないだろうと思う。つまりだからこそ何故人間がそんな愚かな考えをするのかに関心がある。
 それはある意味では取り敢えずの納得をすることを人間が常に求めているというところに根拠があるのではないかと考えている。
 例えば「世界」という語彙は、何らかの漠然とした自然や人間の力の及ばない霊力であると人間が感じたことを総体として理解した時出来た語彙ではないかと考えているが、それはある意味では「私にとっての世界」や「あなたにとっての世界」という個別性を一切無視している考えでもある。
 例えば今あなたが動いたとしよう。それはトイレに行くためにそれまで座っていた椅子から立ち上がったのだ。そして私が今動こうとしているとしよう。それは喉が渇いたから水を飲もうと思ってのことである。するとあなたの動く理由と私が動く理由は全く何の関係もない。
 しかしあなたの動きと私の動きを両方監視している者が仮にいたとして、その者が私とあなたの動きについて誰かに報告した場合、両方とも「あっ、二人とも動きました」とか言うことだろう。あるいは「あっ、二人とも立ち上がりました」とか言うだろう。つまり動詞さえもが、個々の個別性を一切無視して語彙化するために個々の事情を無視することで成立させているのである。
 つまり語彙を形成するということは言語発生論的には明らかに個々の個別性、差異を一切無視しなければ成立し得ないものなのだ。それは取り敢えずの納得をしないことには、「それ以上」問題や、関心や、究明そのものが先に進まないからなのである。
 しかし同時に一旦その取り敢えずの納得で理解出来た後にはただちに、我々は「ではそれはどうしてそうなったのか」と考え始める。そして取り敢えずの納得で得ていた理解の一部に矛盾があることなどに気づき言及し始めるのである。その矛盾に対して覚醒する際に重要となってくるのは、個々の成員において個人的に判断する自己経験に根差した判断である。「それはおかしい」とか「ちょっとニュアンスが違う」という判断を成立させるのは、個人的にある陳述に対してその合理性に対する懐疑を成立させる論理的思考である。しかしそれはある程度は個人を超えて誰しも同じようなものとして個人に付与されているが、たとえそのように同じような判断を誘引するものであっても、その判断に至るまでの経路は個人毎に全部異なるだろう。つまり真に理解するということは、真に意味を理解するということであるが、意味理解ということとは、端的に個人の経験・体験に依存しているのである。
 だからこそ語彙において「動いた」と私とあなたを監視している者が監視させている者に報告した場合、その司令官は「どんな風に」と尋ねることだろう。そこから私とあなたの動き自体の個別性が問われ、監視者は詳細に報告するために「なんか一人はトイレに行くためみたいです。そしてもう一人は水道の蛇口を捻っていますから水を飲みたかったみたいです」とそう言うだろう。
 つまり報告においては理解させるために報告者は必ず動きに目的や意図を説明する。形容したり、修飾したりすること自体が一つの理解を誘引するためになされるのだ。
 しかし私は次のようにも考えている。それは人類が果たして最初からそのようなコミュニケーションをしていたとは限らないという風にである。つまり国家が形成される以前に人類はあるいは語彙、例えば今挙げた例でいけば、動くということ一つをとっても、ある集団内において家長並びに集団の長や、その配偶者、あるいはその子供たちなどが一々別の、例えば家長が動くのなら「うごちる」、母が動くのなら「うごはる」、その子供たちが動くのなら「うごこる」という風にである。更に子供同士でも兄なら「うごあにる」、弟なら「うごおとる」という風に全て区別されていたとしても何ら不思議ではない。だが共同体が結集したり、国家が形成されたりするに至って初めて全てを「うごく」に統一していったという可能性は大いにあり得る。要するにそのように一切の個別性と個人的差異を無視して語彙化すること、つまり語彙形成における一般化の定着こそが共同体、国家の形成であったと考えることも自然ではないだろうか?
 しかしもし「うごちる」「うごはる」「うごこる」「うごあにる」「うごおとる」というように使い分けることが出来たのなら、少なくとも家族内では名前を呼び合う必要がない。だから必然的に言語発祥という観点から考えれば、名前がつけられる前にそのような動詞や名詞(尤もこれは所有とその時に使っている人との両方の区別が必要なので一層複雑になるが)による成員毎の使い分けがあったと考えることも理に適っている。しかしもし名前がないままで親族、親族以外の他人にまで言語行為をするとなると、使い分けするために膨大な数の動詞や名詞をその都度作らなくてはならない。それは極めて不合理である。そこで名前をつけるということが考えられた、という思考実験も強ち全く説得力がないわけではないだろう。この考えでいくと名前とは共同体、国家の形成と不可分な人類の発明であるということになる。
 尤もやはり最初に名前がつけられ、動詞も名詞も行為する成員、使用する成員に応じて変えるということなく、始めから一般化された語彙を使っていたと考えることが通常であることを承知で敢えて私は提言してみたのである。
 要するに各成員に固有の行為や所有・使用に対して一々動詞や名詞を使い分けることで取り敢えずの納得をしていたことから、成員に対して名前をつけてその自己同一性においてその者の行為や所有・使用を理解するということへの移行というのが私の思考実験的提言であるが、しかし移行した先の理解の方がこと行為性に関してはより個別性を無視した形になること、つまり成員が共同体内での同一性という社会性に縛られることが、逆にその者の存在を明確にはするが、その行為性においては一般化され得るという二律背反が私の本節において主張したいことなのである。

No comments:

Post a Comment