Sunday, June 6, 2010

<感情と意味>第三章 第七節 意味と記憶

 意識は通常哲学や脳科学では人間だけしか持っていないと捉えられている。それは意識が何かについて考えたり、意図したり、志向したりしているだけではなく人間がそれをしているのが「私」であるという風に自分自身を自己対象化し得ていると捉えるからである。我々はこのことを通常メタ認知と呼んでいる。しかし意識至上主義的な捉え方に陥りやすいのもまた人間である。
 私たちは誰かから肩や肘を後ろからそっと叩かれたなら一々その誰かからの行為の意味を考える暇もなく振り返るだろう。この時意図的にそうしているのではなく意識的にそうしているのでもない。しかしそうされた一瞬後、私の肩を叩いたのが友人であったなら、その友人による私への行為を即刻意味づけしようとするだろう。つまり肩に触れられて振り返る行動を誘引するのは学習記憶的なもの、あるいは経験的記憶による。つまり身体記憶とか、習慣的所作の記憶による。ここで意味に対して経験と記憶と習慣という事柄が大きく関わっていることが分かる。意味自体は反省的意識の下で理解され得るが、即刻何かを判断したり、身体的所作に移行したり出来るのは明らかに経験的記憶が大きく介入しているし、また意味記憶的な面でも所作自体を容易に行動せしめるように動員されている可能性が大きい。つまり身体的所作や表情、仕草といったもの全部が一定の意味連関に組み込まれていて、それが条件反射的な身体記憶と結びついていてある行動へと移行させるのだ、と言い得るのであろう。
 つまり意味とはその都度理解されたり、記憶されたり、解釈されたり、把握されたりしながら、同時に記憶において収納されている意味が引き出されてもいるのだ。
 意識というものに対するこの種の人間の固有性というものの見方は、ある部分では人間存在に対する特化という逃れようもないメタ知性レヴェルに対する踏み絵的認識になっている。つまり人間を動物と同じであると捉えることが、「敢えてそう捉える」という風に理解することなくして、本当に心底そう思っているのなら、そういうタイプの成員は人間社会の惨敗者であると見做す不文律である。私の父はこんな俳句を残している。「貧しきオーバ最も鳩を集めいる」
 ここに本当は全く尊敬もしていないのに、相手があまり知的レヴェルも優れていず、しかしあまり幸福そうではないと思える老人を相手にかつての栄光に対する思い出だけに浸っていることを気の毒に思って接する働き盛りの中年男性がいるとしよう。彼は彼が憐れに思う老人に対して敬意を示す態度を相手に対して気の毒に思うので常に示しているので、相手の老人はその配慮に対して気づきもせずに、本当に自分を尊敬してくれていると勘違いして、段々中年男性に対して横暴な態度に出るとしよう。すると相手に対する憐憫から尊重した態度で接しているのに、そのことに甘えて親しき仲にも礼儀ありの謂いをすっかり忘れた老人は、その自分への老人からの態度が苦痛になって段々自分から遠のいていく中年男性に対してあろうことか懐かしさを抱くようになる。しかしその懐かしさは本当に自分から努力して勝ち得た相手からの尊敬心ではないということを気づいていないだけその老人は益々中年男性から見れば憐憫の対象になる。憐憫自体は知的レヴェルの水準が高い人からすればニーチェの考えではないが、忌避すべき感情なのだ。しかしこの老人はそれに気づかない。だがこの老人が働き盛りの中年男性に対して横暴であるのは、どこかで自分から彼への嫉妬感情があることを薄々知っていながらも、彼は寧ろ自分はそれだけ長く生きて来たのだからそれくらいする権利があると思い込んでしまう。あるいは思い込もうとする(その二つに境界はない)。
 つまり自分で自分がしたことに気づいていないということに最大の不幸があるのである。自分が周囲から愛されていないのに愛されていると勘違いすることくらい不幸なことはない。それを不幸と言うのなら、命を狙われる殺し屋や、ギャングのボス、あるいは借金取りから逃れ夜逃げをする家族でさえそんなに不幸ではない。何故ならそれだけ必死に苦境からその場凌ぎに逃れようとし、辛い状況を忌避しようと必死になって脳を回転させているからである。つまり自分が相手に知らず知らずの内に傷づけていることに気づかないという本質的な差別の起源に対して無頓着であることこそが最大の無知であり、この最大の無知に対して反省することさえなく、それどころか差別してきた相手を懐かしむということこそ人間最大の罪である。そしてその罪に対して無知であることこそが最大の不幸であり、自分が不幸であるとに気づかないことこそが最大の不幸であることの理由である。だから逆に自分の苦境や孤独に対して自覚的であるということはこの不幸に比べれば然程不幸ではないとさえ言えるのである。
 つまりだからこそどんなに愛しているペットに対しても、そこに人間と同等の魂を認めようとすることにあまり躍起になっていると、惨敗者であり、要するに今挙げた例の老人のような憐憫の対象と化してしまうのである。それが特に欧米社会の不文律であると言ってよい。ノブレス・オブリッジ的な冷たさがそこにはあると私たち日本人には思えてしまう。
 日本人はそこを曖昧化するところがある。要するに結論を保留しようとするのである。しかしその実本当は人間が動物と同等であるとも思っていない。端的にそう断言すると動物が可愛そうであるとそう思うのである。しかしこれは欧米社会的倫理からすれば気休めでしかなく責任を見ようとしない安っぽい感傷であると見做される。それは動物愛護の精神とは本質的に違うものなのだ。
 かつて支配階級と呼ばれた歴史上での豪傑たちや、革命を起こして支配を獲得しようと躍起になっていた人たちに共通する性質とは、支配そのものが土着に根差していたということである。つまり土地を巡る覇権や領有権とは端的に所有を正当化するために必要な土着を価値とした支配に対する美徳という観念がある。つまり支配者は被支配者から恐れられるだけでは不十分なのである。支配者は被支配者から適度には恐れられる必要が確かにあるが、それ以上に羨望の目で見られる必要があるのである。そしてある土地を巡ってその土地に対する領有権があるという事実自体が被領有者によって羨望の眼差しで見られる、つまり価値的に容認されることによって初めて支配は構造的に確立するのだ。もし土地を支配する者がいたとしてもその事実に価値的に何ら羨望を抱かない人しか周囲にいなければ支配は成立しない。
 あるいは支配者は被支配者から憧れられることによって初めて支配する者の特権を精神的に享受することが出来る。物質的、物理的に支配するだけでは不十分なのである。支配権力とは端的に精神的に被支配階級から尊崇の対象となる必要があるし、偶像的に憧憬の対象とならなければならないのである。このことは現代社会においても全く変わらない。
 マルキシズムにおいて疎外ということや剰余ということが言われるのは、端的にこの被支配者自身が支配自体を価値として捉えることを自然なものとして受容させることと、彼等から眼差される愛着を獲得することそのものの喪失と、喪失後の新しい付加価値を必要としていくプロセスにおいてである。つまり土着であることに対する執心自体に対する憐憫がグローバリズムを正当化する論理にはある。これは土着的支配、つまりナショナリティーや民族性、自民族中心主義からすれば新しい偶像である。しかし私がここで言っている偶像とは決してグローバリズムを否定するニュアンスからのものではない。それどころかこれからの世界は益々グローバリズムに推進していく必要があると考えるのだ。だから逆に土地への愛着という土着主義的支配とは端的に常に偶像崇拝的な盲腸として部分的なものに留まり続けるであろう。つまり実体としては経済に関しても、政治に関してもドメスティックな愛着とは日本人が密かに満州国に対して郷愁を抱くような意味でのノスタルジーに留まるだろう。しかしそれは労働意欲とか生産的な起爆剤としては今後も大きな存在であり続けるだろう。つまりオリンピックやWBCで自国の選手を応援するような意味でである。
 だからここで偶像には二種類あると言っておかなければならない。つまり本質的な偶像、つまり絶対的に私自身の能力から自由であるということ、絶対的にその領域は自分の手に余ること(つまり責任を取れないということ)、つまりそれがあることは知っているが、その内実を知るにはあまりにも自己の卑小さを知る以外ないということにおいて立ち上がる他者としての偶像と、そうではなくあまり本質的でも重要で不可欠でもないけれど、それがないと寂しいと思えるから、ないよりはやはり絶対にあった方がいいようなタイプの他者、つまり先ほどの働き盛りの中年男性から憐憫をかけられる過去の栄光の余韻に浸るだけの老人にとって自分に対して敬意を示してくれるから態のよい気休め的な意味で自分より若い中年男性をペット化していることに満喫出来る、自分はその者を嘲笑の対象であると思えるけれど、そう思う相手からはその実憐憫をかけられていてそのことに気づきもしない(と言うことは嘲笑の対象ともなっている)老人にとっての中年男性の存在理由のようなものである。
 勿論それほどネガティヴな意味でだけ気休め的なことがあり得るわけではない。当然選好性ということは常に権利上なくてはならない。人生はそれ自体楽しくなければ意味がないとも言えるからだ。理念だけで人生を生きることは出来ない。
 しかしそのことが逆に理念型とマックス・ヴェーバーが呼んだ生き方が存在し得る理由でもある。何故そういう生き方が存在し得るか?
 答えは簡単である。私たちは案外この権利上での選好性と例の老人の二度童的な我儘との間の区別がなかなか自分ではつかないからなのである。またそれは老人に対して言えるだけではなく権力者に対してもそうなのである。権力者とは誰も彼に提言したり、批判したりすることが出来ないということが、同一の権力中枢においては命令系統上発生してしまうからだ。権力者に対する批判とは端的に権力を保持していない成員からのみ成立するのだ。そこにも無知であることの能力が発揮されている。憐れな老人に屈託がないのは、端的に自己対象化することに対して老化しているからである。だからそれを二度童と呼ぶのである。だから権力の全くない人が権力者を攻撃したり批判したりすることはある意味では微笑ましいとされることにおいて既に無知であることと、自己の不幸を不幸であると思わないということにおいて憐憫の対象となるべき資格があるのだ。これらも全て意味と記憶のなせる技である。
 何故なら権力に対する記憶のない者は、権力を保持したことのある者に固有の他者に対する思い遣りが皆無だからである。端的に子供には思い遣りなどない。つまり権力のない者にとって権力を保持したことの意味を理解することが出来ず、真理的なことしか思い浮かばないのだ。真理とか原理とは少なくとも人間社会では「そうはいかないことが多い」からこそ真理であり原理なのであり、意味的に他者に対して思い遣りが持てるということは、他者が立たされている立場や事情を記憶として呼び覚まさせることが自己内で出来るということを意味しているからである。
 だからこそ一度は敗者を経験することも必要だし、一度は権力を持ち勝者になることも必要なのである。勝者しか経験していなかったり、敗者しか経験していなかったりするということは意味と記憶が繋がらず、意味は記憶のない状態でただ観念的な判断にしか終始しないままでいるということを意味するのだ。
 意味が観念的な判断で終始するということは認知レヴェルで意味を判断しているからだ。意味は本来情動的に理解する段になって初めて意味の持つ真理、それは先ほどのように否定的な意味ではなく実利的にも、価値的にも全てに適用し得るイデアとしてだが、その真理を持つのだ。よく言う骨身に沁みてそう思ったとはそういうことだ。

 過去は確かに変わらない。ある時点での過去の出来事はどんなに時間がたってもそれ自体は変わらないとそう人は言う。しかし私たち自身が変わっているのだから、変わるこちら側に合わせて向こう側も変わらないのであれば、変わらないあの時の出来事は時間が経つに連れ、変わっていく筈である。しかしにもかかわらず変わらないように思えるのは、そういう風に変わらないように思おうと常に我々が過去に対して身構えているからである。
 過去に対して身構える必要があるのは、実は常に変わりつつあり、一時も同じ自分ではいないということを忘れたいがために我々は「変わらない自分」を想定しつつ、その想定の中で「変わらない過去」を捏造し続けているからである。だから二十年経っても色褪せないとか、これから何十年経っても恐らくそれは変わらないなどと言うのである。
 では「変わらない自分」とは一体何か?それは自己同一性に当て嵌めて、刻々と変わりつつある自分を「変わらない自分」に仕立て上げることを怠らない想定である。それを私は社会性として考えている。つまり自己を同一のものとして対他的に身構えているということ、つまり「いつも変わりない彼(女)」というポーズである。そのポーズは自分の内奥にある考えとか、自分の潜在意識という奴自体が既に他者や社会的掟からの規制という呪縛に随順しているということを意味している。
 つまり記憶は過去の変わりなさを「変わらない自分」という想定の視界からしか見ないようにする。記憶自体が常に皮が剥けるように更新されているのだ。それが過去の意味の一元化、つまり過去を一切変わらないものとして扱う一つの大きな記憶の作為、つまり記憶の意味化である。記憶の意味化とは外部からの強制に対する何らかの屈服である。つまり変わらなさを保持していなければ社会的体裁が悪いと無意識に感じ取ってしまっているのである。
 それは過去というものが他者に対して、とりわけ歴史的人物などに対してフィクションの世界では「そうであったかも知れない」という死者の無言を利用した捏造が容易なように責任転嫁的な偶像としていることと関係がある。自分だけが何よりも誰よりも責任を負わなくてはならないということを誰でもよく知っている。だからこそ責任の呪縛から一時でも意識上で逃れようと責任のオブセッションに対して過去とか過去の人物の行動ということに対して想定すること、つまり過去を記述対象とすることによって、現在、あるいは現在ここにいる自分に対する記述をしないように、少なくとも「現在自分」を記述する重苦しさから逃れようと無意識に画策しているのである。
 それは何故か?
 答えは簡単である。我々はいつか死ぬことを知っているし、それは刻々近づいているからである。死が徐々に遠のくような成員はこの世界には一人もいない。
 過去は少なくとも自分にとっては記憶の中にしかいない。だからこそ記述するのにはうってつけの素材である。しかし記述とは常に現在においてするべきものである。今日は明日のためにあると考えることをするべきだ。しかし脳科学で判明する脳の作用において未来に対する思念が過去に対する思念に近いような意味で、過去を記述することで未来に役立てようとするのも人間の通常の心理である。
 私たちは過去だけは記憶と意味が一致しているように思えるのだ。しかし本当は違う。記憶と意味は常に一致していない。記憶したことの中から都合のよいものをピックアップしなければ意味は捻出され得ないからだ。そして記憶と意味が何よりも一致しないのは現在である。それはそうである。何故なら現在とは未だ過去ではないから、記憶の上での意味が貼り付けられないままであるからである。そして記憶の上での意味と全く一致しない現在はそれが過去になっていった時初めて意味を付与され、記述対象と化すわけだ。
 しかし未来だけが、今現在存在し得ないからこそ、ある意味では記憶と意味が一致しているのかも知れない。何故なら未だないということは常にどの過去においても現在においても同じであったからだ。
 しかし一年前の未来とはその一年後の現実がそっくり抜け落ちている。だから一年後になった今になってみれば一年前の未来とは一年間だけは確定的であった筈だと言いたくなるが、そうでなないだろう。その時は私たちにとって一年後がどうなるか知れたものではなかったのだ。その知れたものではないということこそがその一年間私たちが意志を持って生きてきたということの証拠である。どんな自由であれ、過ぎ去ってしまえばそれは自由ではなくなる。過去は変えられないからである。一年間私は必死に生きてきた。しかしその時の感じた達成感や自由は、今となっては過去における記述対象であり、評価対象でしかない。しかし「今のようではなかったかも知れない現在」を常に私は想定することが出来る。その今のようではなかったという想定こそが、希望・願望・目的・意図を作ると言ってもよい。

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