Thursday, June 10, 2010

<感情と意味>第三章 第八節 自己の中の他者

 「君は自分にもっと素直になれよ」と言うタイプの人には警戒しなくてはならない。何故ならそういう人には本当の自分というものがあるように信じているか、信じていないのならそのような自分を見出すことこそが正しいと教条的に信じているに違いないからである。しかし自分の中にそう問い掛ける別の自分が常にいるということは正しいだろう。だがそれは自分の中の他者であるよりは、自己の中の他者なのである。つまり「君は自分にもっと素直になれよ」とは自分に対してのみ言っていいことなのである。
 自分の中の他者を追い払うのは比較的たやすい。何故なら自分の中の他者とは真意では何かをしたいと思っているのに、その行為に付帯する障害故に躊躇している、つまりその行為を持続させるために払われるあらゆる努力や手続きを怠りたいと願う怠惰な心に根差しているからである。それは自分の中にある他人から見たらそんなトライアルは「格好が悪いよ」という保守的で怠惰な自分なのだから、自分の中の他者であると言ってよい。自分から見たら全ての他者は外見とか表面でしか分からないし、その分からなさが他者を信頼したり、信用したりすることのもとになっている。
 しかしもっと自分に素直にならなくてはという思いは、社会的な個ということから発生する義務感とか奉仕の感情とか対人関係的な展望であるとか、要するに素直になることによって自分の中の他者を追い払うこと、つまり怠惰であることをいけないと悟り、そのいけなさが常に付き纏うことを念頭に入れて、自己に対して批判的な眼差しを注ぐことを誘引するのだから、対自己的批評者の視点である。だから私はこれを自己の中の他者と呼んだのだ。
 私は前節において「自分の潜在意識という奴自体が既に他者や社会的掟からの規制という呪縛に随順している」と言ったし、「記憶の意味化とは外部からの強制に対する何らかの屈服である。つまり変わらなさを保持していなければ社会的体裁が悪いと無意識に感じ取ってしまっている」とも言った。このことをもっと詳細に考えてみたい。
 私は実は常にころころと自分の考えが変わっているし、その変わりやすさに対してある種の可能性さえ感じ取っている。しかし社会では一貫性とか主義主張といったものが尊いとされている。少なくともそのようにシンパ的に人は集合していることを皆知っているし、そのことに対する認知を私もまた持っている。そこで変わりやすさをあまり他人には容易には告白出来ないままでいる。つまり昨日決めたことでも今日覆されることは多くあるし、だからと言って一度立てた計画で頓挫したものはどこかではずっと覚えているものである。しかしその計画の頓挫自体は一々報告しなければ終わりよければ全てよしで片付くことも多い。そこで私は変わりやすさを他人に対して、対他的には隠蔽する習慣になっている。
 しかしこの変わりやすさは思い出に対しても適用される。一度こうであったと思い込んだなら、それがいかなる状況やいかなるその後の事情の変化においてでも、反省することを億劫に思うが故に、「あれはあれでよかったのだ」と思い込みたいものであるが、ある意味ではそういう思いが障害になることもあり、逆に「もっとこうすべきであった」とか「あれはするべきではなかった」と思い失敗を素直に認めることも必要である。つまり変わりやすさを隠すこと自体が既に変わり難さにおいて社会的自己同一性という社会や他者が自己に押し着せる強制的な友愛を意識してのことであるに過ぎない。だから私が記憶の意味化を否定的に前節において扱ったのは、実は意味の固定化に対してなのである。意味が流動化することを承認しさえすればそれはそれで一向に常に意味を書き換えることを潔しとして、その都度意味づけすることを躊躇しないわけだから別段どうということはない。
 つまり首尾一貫しなさを常に意識していることだけを一貫させていることが、対他的にも対自的にも反省しやすく、あるいは展望を持ちやすくすると私は考えるのだ。だから前節の最終部で私が「「今のようではなかったかも知れない現在」を常に私は想定することが出来る。その今のようではなかったという想定こそが、希望・願望・目的・意図を作る」と言ったことは正しいと確信している。
 何故なら今のようではなかったかも知れないという想定自体が自己の中の可能性を信じているからである。これは安易な他律的自分ではなく、もっと端的に冷厳な観察力を持つ対自的批評家を自己の中に巣食わせることを意味する。可能性は諦めることからではなく、無謀に試みることから始まる。
 中島義道は「英語コンプレックス 脱出」において若い頃語学の家庭教師や予備校教師を自分ではそこそこでしかない実力と知っていながらも自分の語学力以上のトライアルを率先して実践したことによって打開してきたことを告白している。しかも日本の英語教育におけるネイティヴは絶対に使わないような表現の英語を試験問題に出すことに対しても、それを外国語一般に対する適正チェックとして有用性を認める。つまり氏は日本人の教師が教えやすい外国語学習の生徒の適性チェックと見做しているのだろう。これはある意味では竹中平蔵の「マトリクス勉強法」における二十代の頃に率先してしたエリートたちなら絶対経験しないであろう雑用的な仕事が三十代以上になっていった時に役立ったという話しとどこか共通する。困難さに立ち向かうという前向きさでも共通性がある。要するにこの二人に共通した実務性というものは、一冊の本を「読み物」として理解した時に立ち現れる説明原理というものの存在を想起させそれがここで問題になってくる。
 これらは対自己批評性を持つこと、つまり自己の中の他者によって、一旦認めてしまった変わりやすさを逆利用することである。変わらないということを他者に触れ込むことで自己を閉塞状況に陥らせるくらいなら、いっそ最初から私には一貫性などないと公言していた方がずっと責任倫理にも適っている。ころころ変わるということの内には一定の必然性が常にあるのである。関心もそうであるし、主義もそうであるし、信条もそうである。もし一回もそういうことで変わらないままで来ている人がいたのなら、そちらの方に寧ろ問題がある(それは寧ろ狂人である)。
 私たちは世界や個、宇宙といったものを限界としては知らない。私という個でさえある意味では死ぬまでどんどん変わるし、能力の全体を確定的に説明することが出来ない。私は私に対してさえ知らない部分を多く持つ。また新たな知識が常に付け加わるし、忘れたこともある。だから全ての枠組みは本来ファジーである。これについては既に述べた。しかし考えの上でそれらを一旦確定的なもの、固定化された何か明確なものとして扱うということも私たちは自然な思惟のプロセスとしている。
 つまり意味は本来流動的なものであるが、同時に極めてその都度においては確定的なものである。つまり流動、あるいはこう言ってよければ進化上での変化を持ちながらも、それを言語化して、他者に伝える時私たちは明らかに確定的で、明確に枠組みを設けて語っている。
 つまり私が一貫性などないという責任の明示とは、そうすることで確定的な責任を必要以上に自分以外の他者に対して幻想させないように、つまり不確定な事態をも考慮に入れた考えである。しかしそう言いながら私たちは、限定的には常に固定化された価値を捉え、「ここまでなら出来る」と明示する。つまり限定的な責任の明示自体が既に私たちが世界を常にファジーに限界を捉え、その限界を明確なものにする欺瞞的な認識を取り敢えず常に採用していることを習慣化していることを示している。
 それら全ての現実は一重に言語自体の持つ説明原理に帰着する。つまりこの言語的説明原理こそが自己の中の他者であると言っていいかも知れない。明らかに自己ということを考えると、説明に納得する己と、そうではなく説明が不毛であると感じる己がいるように少なくとも私には感じられる。そしてその二つは常に拮抗し合っていて、双方とも必要であるどころか、無くてはならないもののように思われる。説明が不毛であるもののことをクオリアとか意識と呼ぶことはたやすい。しかしやはりそれらの語彙によって示されるものだけではないような気が私にはするのである。
 何故ならそれらはどこかで自己の中の他者に対しても何かを常に語りかけているように思われるからだ。つまりそれらは決して説明原理にそっぽを向いているわけではない。つまり「それは言葉では言い尽くせない」ということからも、そう言うのは実は言葉ではなく説明に納得しない己なのである。

 卑屈ということも同じことが言える。政治家は信用という二文字によって政治活動が可能となる職業である。その時その都度の発言自体が有効であるよりは、確固たる実績と信用だけがその政治家の発言を説得力あるものにするか否かを決する。と言うのも私たちは彼等の発言だけでなく実績自体を注視しているからだ。信用とはただ単に習慣の問題なのである。それと同じことが先に示した通年男性をいびる老人の卑屈にも言える。
 さて卑屈とは一体何か?それは端的に自らのコンプレックスを感じているのにもかかわらず、そのコンプレックスを意識することが多大な意識の変革を要することを知っているから、保守的な自分、つまり自分の中の他者に他律的に忠実であるわけである。彼(自分の中の他者)は彼自身にこう教える。つまり相手は才能も力量もあるし、端的に自分などより将来の可能性は十分にある。しかしお前には大勢の知人がいるし、人的ネットワークも豊富だ、何より彼よりもずっと長く生きてきたじゃないか、彼など少し皆の前で恥をかかせるようなことをさりげなく、しかも周囲の人にはあまり気づかれずに、彼本人にだけ敏感に察知されるように侮蔑的な一言を浴びせかけてやればいい、それくらいの権利くらいならお前にもある、それがお前の威厳である、とここで彼は端的に卑屈を背負い込むのである。それをしなければ済む心が、一層それをすることによって逆に自分の将来のなさを自分の内部で露呈するからである。それでも卑屈を背負い込むことの方がやはり彼にとっては楽なのである。だからいつの間にか習慣化するのだ。やめておけばよいものを説明だけでは不毛である生理的直観が「そっちの方が楽だ」とそう言うのである。
 実はこれらのマイナスの感情も、赤いバラを見て感動するクオリア的な感受とそう変わらないものなのだ。何故ならそれらは一括して説明し得ないものであるからだ。説明が不毛であるということに関しては「じれったい」とか「まどろっこしい」とか「もどかしい」とか「うんざりだ」とかもそうである。それらは説明原理を常に跳ね除ける。
 しかしそれらだけでも持続し得ない。私たちはそれらの感情を暫く抱くと痛烈に心が消耗するのを感じる。そこで歯切れがよい説明原理を求める。いらいらした時案外数学の問題を解くと心がすっきりすることがある。
 勿論黄色いヒマワリを見て綺麗だと感じる心は説明し得ないけれども、自分の中の他者ではないだろう。卑屈や怠惰や横柄とは端的に私が示した定義からすれば確かに自分の中の他者である。しかし色彩的なクオリアや食べ物に感じる味覚のクオリアといったものたちは、自分の中の幸福の他者かも知れない。しかし意外とそれらが「まずい」とか「汚い」という感受と隣り合わせであることも事実である。大らかであり、前向きであり、豪放磊落であるということと、卑屈であり偏狭であることなどは隣り合っている。
 これはどうしてなのだろう?
 つまりこう考えればよい。私たちはあまりにも言葉を絶することとは、感動においてもそうだし、不愉快であることにおいてもそうである。しかし感動は何とか言葉に言い表そうとするが、不愉快は出来る限り早く忘れたいと願う。そこには自分の中の他者が「早くもっとお前にとっての快を取り戻せ」と囁くからだ。しかし前者の感動はそれを言葉の美に置換することに価値があるように思う。その時私たちは幾分言葉を美化している。そして自己の中の他者とは端的に知性的な我である。そして自分の中の他者は自我的な我であるから、出来る限り自己防衛に余念が無いので楽をしようとする。この二つは常に隣接しているからこそ、バランスが取れていくのである。だからこそ逆にどんなに和やかな雰囲気でも一瞬にして崩れるということもあり得るわけだ。
 私は取り敢えず自己と言う時物差し的基準や規範意識を持つ知性的なものと考え、逆に自分と言う時感情的な流れに自然であるようなものを考えることにしたい。

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