Friday, February 19, 2010

<感情と意味>第一章 第十一節 文体と記憶 

 もし統合失調症患者が多重な人格同士で対話し得るのであれば、一人でいたとしても孤独を感じることはないかも知れないと考えるのなら、それは安易である。何故なら彼(女)の中に宿っている人格は全て切り離されているから、孤独を感じないままでいる人格もあれば、そうではない人格もあり、それらは統合されていないのだから。
 既に私は今‐過去の自分だけは変えたくはないということだけが自己同一性を保証しているということを述べた。そして何故か殆どの人はそうである。統合失調症患者を除いて。
 統合失調症患者とはある意味では極めて自己同一性の欺瞞性に対して敏感であると言える。私が私の身体ではないという意味ではビリー・ミリガンたちは身体はただの借り物であるという魂の方の優位を一番よく知っていることになる。ビリー・ミリガンとは24の人格を持つダニエル・キースの小説のヒーローであるが、それら24の人格は相互に交流がないのであれば、身体とはただの借り物であるに過ぎない。要するに終ぞ彼の身体の中で人格は統合され得ないのだ。それはある意味では公的な意味で一つの身体=「私」と言うことがあり得ないということである。そして肝心なことは「彼ら」が既に身体と同化した自己同一性を求めていないことになる。
 もしビリー・ミリガンのように幾つもの人格が一つの身体に宿っているのなら、その24の人格はまるで独立した魂のようにたった一つの身体を時折借りてその時は他の一切の人格を押し退けてその時ばかりは利用出来る唯一の道具に出会ったかのように縦横無尽に振舞うものだから、なかなか個々の人格にとって一つの人格が支配するという状態そのものを望まないのかも知れない。彼らは皆一個の身体に24の人格が宿るその利便性を汲み尽くすことから離れられないのである。よってアーサーならアーサーの人格は彼にとっては彼のことだけしか記憶せず、彼にとってはレイゲン・ヴァダスコヴィッチの言動やある過去の出来事は、あるいはどこそこに彼がいたかどうかということは一切埒外のことなのである。しかしそれらの原因については精神科医や脳科学者たちに任せておこう。
 重要なことは記憶は常に身体を伴っているということである。世界の見えそのものは視覚を中心としたものであれ、その他の全ての感官、いや身体全体の触覚や生理的状態にも深くかかわっている。そこに感情も精神状態も体現されている。つまり私たちは人生を記憶によって初めて思想の下に考えていられるのだ。
 信念・信条・主義・習慣それら全ては身体的体験とその記憶によって育まれている。人生とはある意味では文体として立ち現われる。その文体を支えるものが思想である。文章に限ってみても、文体と行間は他者(家族を含む)との出会いと別れを構成する。
 そして私たちは他者と身体を伴って出会い別れる。対峙・同伴・不在全てが身体を伴い記憶される。つまりその事実そのものも文体であり、文体を作るように私たちは意志的に他者と疎通し、そうすることで出会いと別れを作り、それが必然的に人生に文体を作る。
 そしてそのように文体を作る陰には文体にならないままに終わる出会いのニアミスが、あるいは別れたくはないのに別れざるを得ない出来事が、あるいは本当だったら印象的な出来事がさして印象的ではないとその時は思えてしまい捉え損なった多くのものが日々忘却されている。
 全てを記憶出来ないからこそ記憶されたものが、印象的になるのであって、我々には印象的なものだから意図的に記憶するのではない。偶然記憶されたものを我々は印象的と名づけるだけである。
 小説において文体とは一体何だろう。
 何を記憶したかということが主人公や語り手である作者の言葉において如実に示されるのだ。それが文体なのである。つまり記憶をどこかで無意識に記憶することで自ずと行間と共に立ち現われるのである。何か重要なことも忘却してしまったかも知れないという不安とその除去の意図が無意識に私たちに小説を書かせるのだ。そして一つの過去事実が時を経るに従ってその都度少しずつ現在から見たその出来事の意味を変えることから必然的に記憶内容も思い込み的に変容を来たしていくことになる。それは自分で書いたものでもそうなのである。と言うより記憶するとは常にその時の自分に都合のよいように記憶するということなのである。

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