Monday, February 8, 2010

<感情と意味>第一章 第十節 現実(実在)と虚構

 私たちは文学において小説を書く人がどのような気持ちでいるのかと考える。その時小説家は社会的現実、自己という現実を元に何かを書こうとするのだろうか?あるいは言葉そのものの力に従って、言葉そのものの「伝える力」に従属して書くのだろうか?
 あるいは哲学者は私たちがこうして生きているという現実、自己と他者といった実在を下に哲学しているだろうが、やはりそこにも言葉の力というものが横たわっている。つまり現実に対して私たちは何らかの意味を与えているし、意味を受け取ってもいる。そこでその意味を得ること、意味を創出することにおいてもやはり言葉の力、つまり「伝える力」を利用している。しかも私たちは何かを言葉を利用して伝えようとする時言葉の力以前的な何らかの感情、つまり対他的な意識を発動している。だから感情はそれ自体で一つの言葉で表し得る力があるが、同時に感情とは何らかの心理的状態や情動、あるいは身体的気分を言葉で表すことによっても決定的になったり、和らいだりもする。つまり感情を決定させているものはやはり言葉であるように思われる。これはジョン・ラングショー・オースティンがパフォマティヴ(行為遂行的発言)ということを言った時、発語行為であれ、発語内行為であれ、それは要するに自己内での決心を意味しているのであり、東浩紀の言うような意味で社会ゲーム上での戦略よりは外的なことからの規制や呪縛を受けつつも、より内的な決心によって外面的に立ち現われる行動としての自己を奮い立たすという意味合いがあり、そこにオースティンは言語行為の内外を結節する力としての存在理由を模索したのである。
 多くの小説家は日常的な小説家自己の人間関係や自然に対する、あるいは自己に対する思念がとぐろを巻き、それらを一つの像に纏めようとするのだ。勿論哲学者は問いを作ろうとする。しかしそのプロセスでかかわる自然や社会や自己に対する思念はそう変わるわけではない。作られる形式の違いしかそこにはないだろう。 
 私が述べた言葉の力は、恐らく小説家が、哲学者が何かを書こうとする時や語ろうとする時その下となることとは現実であり、日常的なことであっても、いざ書き出し、語り出した時には、既に現実を離れているということはあり得る。つまり書くこと、語ることの内に現実から受けた何らかの書き手や話者による感慨や世界に対する受け答えとは別個の操作、つまり書いてそれを読む相手、あるいは自分の話を聞く相手に対して、有効に自分の意図を伝えたいがためになされる諸操作の有効なる伝達という成果を念頭に入れた思念が最大値に達するからである。実はこのことが言葉の持つ力という、言葉を発するモティヴェーションとは別個に成立する操作上の、意図達成上の作意、あるいは戦略ということになる。そしてこれが有効であるか否かは、その伝達をなそうとしたこと以上に重要であるということを策士である作家や哲学論客は重々承知しているのである。
 つまりそれはある言説が意味として存在すること自体を伝える者が、その伝え方自体で伝えられる者はその意味を内的に意義あることか否かを即時に判断すると言うことを心得ているのである。いや当初の意味とはある記述者、発話者たちが意図したことであるに過ぎず、その意図を言葉自体が、あるいは言葉の伝える力自体が乗り越えるという意味では言葉の意味の仕組みもそうだが、言葉の意味が伝わる仕組みもそれらと一体化しているということが重要なのである。
 発話においては語調、声量の大小、息継ぎ、抑揚、間隙の入れ方といったことが重要であるような意味で記述においては文体、行間の持たせ方とかである。そして一個の文章の意味の重要さそのものの配置とかである。つまりそれらが寧ろ最初に意図した発話動機や記述動機を遥かに上回り、次第に発話者、記述者をすら支配するようにもなる。勿論小説の文体や意味内容と哲学テクストのそれらは違う。共通性とはそれを記述した者の思想性が読み取れるということであるが、小説も哲学テクストも双方とも創作世界とか哲学命題や問いの影にそれらは隠されている。
 すると意味論的にはこういうことになる。当初語ろうとしていたこととか書こうとしていたことはある部分ではその段階で閉じた意味を持っていても尚、それを伝えようと意図して発話し出したり、記述し出したりした段階で部分へと後退している。つまりその意味の変容そのものが「伝わる意味」なのである。
 要するに伝えようと思って発話するにせよ、記述するにせよ、発話を有効に意味伝達することの内にある作意や戦略そのものが、当初の意図から微妙にずれ込んでも、その当初の意味の大まかなものさえ変更されなければ、その修正をも含めた伝達意図の熟成そのものが意味全体を支配する発話者、記述者の意図であり、コミュニケーションを成立させる根拠となり得、モティヴェーションはその全体の中のあくまで部分なのである。
 故にモティヴェーションとは現実との接点であり、それを意味伝達する時、意味伝達=意志伝達という局面において語りやエクリチュールはそれ自体が虚構的世界なのだ。つまり現実の中で仮に忠実に現実を伝えようとしても、その伝えそのもの、伝わるか否かという現実は既に現実の中の虚構的な部分である。つまり虚構すらも一つの現実であると言えばそれはそうであろうが、ある意味では現実を忠実に再現して伝えるということの内に既に虚構性ということは性質上成立しているのであり、それは現実に対してもう一つの現実を突きつけることを通した現実に対する受け答えなのであり、現実に違う現実を対比させることを通した現実自体の虚構性に対する「私にはそのような仕組みに見えます」という返礼なのである。もしそれがかなり手厳しい現実に対する批判であれ、もっとこうであるべきだという提言であったり、こうでありたいという願望や現実に対する抵抗であったりしても、そういう形での返礼なのである。
 宗教的には既に述べたようにカント的に考えるのなら神と来世に対する信仰そのものが生き方に差を生じさせるかも知れない。あるいは来世のなさを信じることも同じ心的作用だろう。しかし人間一度は死ぬ。ならば死んだ後のことをあれこれ想像することは死ぬ前だけでよい。それは来世を信じていても信じていなくても同じである。勿論人間は恐らく二度と生き返らない。と言うことは自然や社会は私という一個の存在者の喪失をものともしない形での存続を保証されているだろう。するとその保証されている無機質な存在持続という現実それ自体に対する伝えが我々には必要であると我々は感じる。虚構であるということは、虚構的現実を受け入れ、それを生きることを我々に示している。しかしその虚構は私たちが私たちの手によって作り出した自然に対する、あるいは既存の社会に対する自然や社会の各存在者の死が運命づけられているのにもかかわらず存在し続けることの変わりなさそのものへの抵抗という形での返礼なのである。
 私たちがもし神によって作られたものであるとするなら、神は私たちが個々の虚構を作ることを誘引したからこそ神に私たちの手による虚構をもって返礼するという形で虚構という形に内在する自然、あるいは自然そのものの中に内在する虚構を見てそのアナロジーを発見すること、つまり現実に対して、現実自体が極めて私たちの手による虚構と同じくらいに精巧な仕掛けのように、いやそれ以上のものに見えるという見え自体が神によるものであるという信念空間(それは思考空間が言語空間と一致した時に立ち現われる)を形成することが出来るという事実に対して、返礼することと同じなのではないだろうか?
 自然が虚構めいて見えるということは実は 自然を形成させたもの=神 という図式をどこかで私たちが潜在意識の下に認めているということを意味する。無神論とはそういう風に私たちが思惟の自然状態で神を認めざるを得ない部分を熟知した人々による懐疑主義的な使命からのものである。リチャード・ドーキンスがそれを最も顕著に示しているし、中島義道氏もそうである。
 科学は必死になって我々があたかも神が創造したかのように見えるように自然を観察するところからスタートしている。そう見るということの内に我々自身が神を心の中に作っているということが出来る。それは言葉に力を与えている私たちの日頃の行いにも言える。 
 言葉から力を借りているように私たちは言葉に力を与え、感謝する。私たちの心が他者に何か伝えたいと願えば、そのように言葉(本来は私たちが作ってきたところの)の力を信頼して、その言葉を感謝して利用する。言葉を信頼しないで利用しても私たちは誰に対しても何も伝えられない。言葉という私たちが作った財産に対して愛し、信頼すればこそ言葉は何かを他者に伝えてくれる。何かが他者に伝われば一層私たちは自分たちが作ってきた言葉を愛するだろう。愛する者から愛され、愛される者を愛するということは私たちにとって永遠の真理ではないだろうか?

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