Friday, June 1, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十章 言語の無限連鎖から考える存在論と意味論

 人類も何時かは絶滅するだろう、と誰しもがそう考える。しかしそれを日がな一日と伸ばしていくことだけで何時迄も人類は存続する、とそう我々は思いたい。
 しかしでは逆に何時かは絶滅するのではなく、絶対に絶滅せずにずっと人類が永遠に存在し続けるとしよう。もしそうだった時に、人類の言語、例えば日本語とか英語はどうなっていくだろうか?
 例えばあと三百万年後の日本語や英語はどうなっているだろうか?或いは三京年後の日本語や英語はどうなっているだろうか?後者の時代には当然地球ももうないだろう。すると銀河系の何処かの星に辿りついた人類はどんな言葉を発しているだろうか?
 そんなこと心配しなくてももっと早く人類なんて絶滅するよ、と敢えて今そう考えずに人類が太陽系崩壊後もずっと存続し続けることとしよう。
 その事態を可能化させる為の条件の一つとして個体が死滅しないで、どんどん子孫を繁栄させ尚且つ全ての世代の人類が共存していくということを考えよう。
 一億歳になったある人は生まれた時に話されていた日本語が大分変化してしまった、それこそ平安時代にpaと発音していたことがfaとなり、もっと時代が経つとhaとなっていくくらいの言葉の発音の変化ではなく、もっと激烈な変化を民族全体が来たしているだろうが、言葉は個人の記憶としてだけでなく、かなり集団全体でどう使われているかということで慣用されることであるので、今七十年代に流行った「ボイン」などと言う人が居ない様に、かつて「ボインはボインやでー。ボインは赤ちゃんが吸う為にあるんやでー。父ちゃんが吸う為にあるんやないんやでー」と言っていた月亭可朝でさえ、「巨乳」とか「爆乳」と居酒屋で若い人と語る時には言うだろう。
 要するに言葉はどんどん時代と共に変化していっている。それが百万年も経てばまるで言語行為の仕方さえ異なってきているかも知れない。それは個体が死滅しなくてもそうである。
 唯個体が死滅しなければ一億歳の人と八十歳の人とでは記憶している量が違う。七十数年前から今迄の記憶と九千九百九十九万九千九百九十年前から今迄の記憶とでは余りにも個体差が大き過ぎるから、ある部分では個体の死滅しない社会とは激烈なヒエラルキーが存在し続けよう。もう一億歳以上の人達は死んで貰おうということにさえなりかねない。要するに言語の無限連鎖では「りんご」が「るんご」や「れんご」になるくらいでは済まされない「ごんり」「ごんる」「ごんれ」も、「ごりん」「ごるん」「ごれん」にも変わり得る様なそれこそ無限に(とは言っても口は人類にとって一つであり続ければ発音される基本形は今とそう変わりないだろうから)三文字の語彙であれば「平仮名全文字」×「平仮名全文字-1」×「平仮名全文字-2」分だけの語彙は、例えば「りんご」に対応する意味のものとしてはやがて全て使い切られよう。
 すると仮にタイムマシーンが出来て何時の時代にも行ける様になったとしてもきちんとした古語辞典がなければ直ちにある時代の「りんご」に対応する語彙を識別出来ないかも知れない。
 「ごんり」や「ごりん」くらいなら想像が尽くが、「りんご」のある時代の変化形「りんげ」が「げんり」になったり、やはりある時代の別の「りんご」の変化形「りんぐ」が「ぐんり」になったら、林檎の意味をあくまで「りんご」と発音する時代の人であるなら直ちにそれを意味的に理解することは困難かも知れない。
 しかしもっと重要なことは人生が終わらず永遠に生き続けるのなら、我々は一体苦悩というものを持つだろうか?ということである。
 「りんご」に対応する果実も一億年も経てば変化もしよう。しかしその今から一億年後の時代に未だ個体が死滅しないのであるから今生きている全人類は何処かで生き続けて居る。永遠に死滅せず只管増殖し続ける人類は宇宙全体に散らばっていくだろう。
 もう一つの可能性は個体は死滅しても集団レヴェル、つまり種レヴェルでは人類は永遠に存続するとしたなら、一億年前の「りんご」が意味するところも、その意味に対応する物体も完全に変化しきってしまっている可能性もある(勿論薔薇が恐竜の時代から今とそう変わらず存続してきたことから言えば変化しない可能性も同じくらいあるだろう)。しかしその時代には「りんご」と発音している人は居なくなっているし、一億年前「これを」「りんご」と発音していたと記憶している人達も居ない。従って個体が死滅していく世界でも種レヴェルで絶滅しないのであれば、このケースでもタイムマシーンが発明されても一体一億年前の人類が何を話しているかを理解出来ないということは充分あり得る。そして個体が死滅しない世界よりはこちらの方が蓋然性は高い。そして個体が死滅するのであれば、人類はそれがたとえ三百歳でも三千歳でも苦悩というものはあり得よう。
 しかし最初に示した条件では苦悩とは存在し得ようか?死ねないということで、自己とか他者とかのアイデンティティを保持していくことが果たした可能だろうか?記憶するということに何か意味があるだろうか(これこそ大問題である)?
 自己や他者のアイデンティティが保持出来ないのであれば言葉など存在し得ないだろう。それはまさに死滅しないウィルスの様なものである。
 では一体アイデンティティを保持させるものとは何なのだろうか?
 確かに宗教家は人間は何時かは死ぬからこそ幸福感情とか様々な感情を持ち価値観を持てるのだ、と考えている。では死ねないのであれば本当にそういったものなど持てないのだろうか?
 一億歳でもそれが寿命であるなら、それは個体の死滅である。だからそれは永遠に生きることではない。この違いは極めて大きい。
 要するに条件設定としては死滅するかしないかの二値論理である。
 これはとどのつまり永遠という概念の実在性を巡る設問である。
 我々は通常永遠とはあり得ない、少なくとも我々個々の生命がそうではないと知っているからこそ、それは永遠ではないという形で永遠を知っている。
 しかし同じことは太陽系や地球には寿命があるという形ではない形でなら難しくなる。銀河系も含め宇宙全体も何時かは終わるという形で理解していても、それを確かめることは我々には出来ない。
 宇宙全体が死滅しても、それは「その」宇宙が我々一個人と同じことであるなら、「他の」宇宙も存在し得よう。そして分析哲学の中の独在論者達が現象性という形で理解していることと同じで、「他の」宇宙のことなんて「私達の宇宙」に住んでいる我々には分からない。その分からないこと迄分かろうとする視点から考えたのがある意味ではデヴィッド・ルイスかも知れない。マクタガートのA系列時間を模して言えばA系列的世界認識である。ルイスは「こうであったかも知れない」可能性全てさえ実在「として」考えた。
 私という視点からすれば決してそれを全て把握することが出来ないことを把握可能なものとして捉えるのは、要するにフレーゲの「存在し得る数は全て存在する」ということと構造的には同じである。
 私は確かに主観から自由になれないから、「他の」宇宙を想定し得ても体験し得ないので、私以外の他者は全てゾンビである可能性を排除しないという意味で分析哲学の独我論、独在論にも説得力がある。
 その考えではフレーゲやルイスにとっての数とか世界とは現象的であることの意味を無化する数とか世界であろう。だがそのゾンビでなどあり得ないという形で我々が日々日常的に他者存在を認めている地点からすれば「他の」宇宙や、かつて在ったかも知れないが、それは「かつて」在ったという形で連続している必然性が見出されぬのなら、それを問題としても意味はない、という形での理解こそがウィトゲンシュタインの「論考」の主旨であった。
 だからある「りんご」を私が知る「りんご」の実在の意味=音であるとして全他者が慣用する「りんご」だと思っていたこと自体が幻想である可能性も常に想定上ではゼロではないという形で考えられる「りんご」は、ある部分ではある個人にとっての幼児体験から現在迄の林檎という果実の持つ固有の意味は各個人で全て異なるという意味からも了解可能である。
 そういった中での無限連鎖としての「りんご」は確かに一億歳で死滅する個人であったなら「りんご」から「れんげ」となって死ぬ間際には「げれん」になっていたとしても、粗方ある個人に於いて「ボイン」と「爆乳」が同じものを指すと知っている様に記憶されているだろうが、もしあらゆる生命個体が死滅しないのであれば、努力して何かを達成するという意志が存在し得るだろうか、という問題を再び派生させる。
 死滅しない最初の条件での個体にとって「りんご」が「げれん」になっていく全てのプロセスは最早意味を持ち得るだろうか?
 確かに林檎には林檎のDNAを持っているということを古代の人達は知らなかった。だから林檎を食べられると知った人類の曙の人達が死滅していないのであれば(今尚)そしてこれからもずっと永遠に生きていくのであれば、では林檎の意味自体は意味足り得るだろうか?
 そうなると意味とは永遠のものであり得るかという設問を用意することとなる。意味は意味される対象への把握が作っているが、その対象も通常は永遠ではないし、常に固定化されているのでもないからである。
 次章では意味の永遠性が可能であるかということを考えたい。その際に前章で考えたオリジナルとコピーの差ということを大きく取り上げて考えたい。

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