Monday, April 2, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第七章 家族観の固定化と教育に見られる親のエゴイズム、そして他者と自己、素の自分なんてない①


 我々は自己というものがどういうものかを知らない。何故なら何時も他者と接していれば他者をどう見るかに追われ、自分一人で過ごす時間は、自分の未来のこととか、今迄してきたことなどを振り返るが、それらは全て自分自身のことであり、過去に関する記憶であり、それを通した未来への展望(願望とか、予定とかそういった全て)でしかなく、それは自己という固有の客観的姿ではない。
 自己はだから外面的にどうであるかを知りたいと望めば他者に問い質すしかない。何故なら自己とは自分がどういう風に他者から見えているかということへの意識だからである。その意識は他者が半分は決め、その他者の持つ自分への像に対して自分でどうその見られている像を維持したり修正したりしようかと考える主体である。
 我々は生まれ落ちた時からずっと自分自身にとってどの他者が自分に対して協力的であるかとか、どの他者が自分にとって警戒すべき対象となり得るかを査定することだけで過ごしてきている。これは厳密に言えば運命でも宿命でもなく、現実である(人生を価値的に見れば、その価値自体への感慨的溜息から我々はそれを運命とか宿命と捉えたいだけである)。
 我々は他者と接する時、親しくなっていく他者に対して友情であるとか、或いは家族となる配偶者とか親子関係に於いて愛情であるとかの感情とか気持ちで接すると思うが、実は信頼であれ友情であれ愛情であれ、それらは皆形式である。形式という語彙を使うと何処か味気ないとか、無味乾燥で即物的で人間味を感じないと言うのなら、それら一個一個を固有の価値と呼び換えてもいい。
 要するにそれにある他者が、自分にとってどういう感情や気持ちで接しているかという心情的事実から、ある他者を愛しているとか、ある他者を信じているとか、その様に自分内部の規定に当て嵌めているのである。その事自体に「それでは余りに人生全体を形式として考え過ぎる」と非難したとしても尚、それは人生自体をそう考える事は形式的で物足りないと捉える価値でしかないのだ。その事にまず気がついておく必要がある(そうでなければ以降私が書く事の意味を捉え損ねるだろう)。
 人間は他者全般に、それがどんなに気心の知れた家族であれ他人であれ、最終的にはある他者はある感情や気持ちを喚起する存在であるという内的な規定なしに接する事は出来ない。端的にそれは精神病理的に分析しても(私はその種の専門家ではないが)普通の事である。
 と言う事は、我々は誰しも他者へのそういった認識の上で意思疎通しているわけであり、それは行動原理的には社会学的に分析し得る事であるとか、色々に捉える事は出来るが、もっと日常的な事実であり、文学等は全てそういった日常的な自己と他者との遣り取りの中から書かれているものである。
 だから我々は他者と接している時にはその特定の他者と接する時にしか発しない内的な他者像への査定と認識と、それを自分自身で「信用している」とか「尊敬している」と規定し得る何かを持って相手へ臨んでいるのであり、その瞬間は勿論の事、一人で物思いに耽ったり、考え事をしている時でさえ素の自分である、ということは在り得ないのである。
 何故なら一人で居る時には次に誰かと、或いは何らかの集団と一緒に居合わせる機会を想定して、その時の為に自分自身で外面的に自分を他者一般に晒す為の自己を模索しているからである。
 しかし人間は誰しも何らかの家庭環境とか生育環境から自らを社会に同化させてきたのであり、その人間形成期に於ける家庭環境や育成環境(それは地域社会から、どういった他者と出会ってきたかということ迄含めた)に多大の心理的影響を蒙っている。それは端的にどの個人に於いても何らかの形で固有のバイアスを持って社会に臨んでいるという事以外ではない。
 どういう性格でどういうタイプの職業の両親や育ててくれた人と関わり、その過程でどんな教育的な訓戒やアドヴァイスを得てきたかという事は多大の人格形成に預かっている。そしてそれは各家庭、個人毎でも全て違う。当然本人の性格とか資質といったものも多分に作用しているが、その個人の性格や資質は、あくまでどういう経緯で育っていったかという事実関係とかその性格に大いに影響を蒙っているのだ。
 しかし当然のことながら他者とはどの人間も心の中に抱いている全ての他者への感情を言葉や態度によって示す事はない。こちらもそうであるなら向こうもそうである。だからこそ相手に対してある相手に対してならこういう事は気兼ねなく言えるし、こういう事に於いては信用出来るし、こちらに対する接し方でも信頼出来ると査定している。その人に拠って違う接し方と心の置き方こそが私が形式とか価値と呼んだものである。
 そしてそれは青年期にはやはり大人になる迄育てて貰った両親からの影響、例えば幼い頃から躾けられた事から教訓的に言葉を通して伝えられた事等が大きく自分自身の判断(世界や社会内の事、対人関係の全て)に逐一左右している。両親や育ててくれた人の持つ社会観や境遇から得た彼等独自の世界観が青年の心には深く影を落としている。
 しかし中年の秋も深まっていくに連れ、自分自身の青年期に経験した事、体験した事の方が両親や育ててくれた人達からの影響より大きくなっていく。
 私が形式とか価値と呼んだ事は従って何か言葉上での観念とか概念とかだけでなく、勿論そういった言葉上、観念上、概念上での理解も含まれているものの、それを部分とする様なもっと大きな出会い、つまり身体的であり、体感的であり、痛みや悩み(これも精神的且つ身体的肉体的でもある)の蓄積といったものである。要するに頭の中だけの事ではないという事である。
 それは記憶に刻まれている。どういう体験内容、どういったコミュニティに親しんできたかといった事が判断や思考の契機となっている。
 例えばウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で最終部で触れられているスペクトル盲に就いて、私はあの図を見るとまず先にアヒルの形として目に飛び込んで来る。しかし私とは逆にウサギの形として目に飛び込んで来る人も居るだろう。それはその形の認識に対して私個人の経験内容とか、出会って来たものの内容とか種類とかその出会いの性質や性格に拠るものと思われる(それは精神科医の人も私があるシンポジウムに参加して質問した時にそう返答されていた)。それは知覚や判断の私自身の否定し難い傾向を記憶内容が司っている証拠である。
 だから価値観念的な事は青年期は両親や育てた人達の価値観念的なバイアスに拠って先入見を刷り込まれている訳だから(それは人に拠ってはかなり老齢に達しても拭い難く残存している場合すらある)、そこからの自己自身での独立という意識がかなり青年期を過ぎてからは重要となってくる。率直に言って人を育てるという事は自らの価値観念のエゴイズムに育てる相手、つまり子供を巻き込んでいくという事以外ではないのだ。
 だからその洗脳に近い形で刷り込まれた観念自体を自己対象化して、第三者的な目でメタ認知し得た時初めて大人の判断というものを持つ事に成功する(その点で幼形のまま中年を迎えている人が意外に多いという事が一つの日本人の精神的問題でもあるのだ)。
 この様な認識はある意味では発達心理学などの分野で専門的に研究されているかも知れない。しかしここからここ迄が哲学で、ここからは何学であるという認識も、実はかなり個々人で異なっている。どういう形で哲学と関わっているかとか、それは哲学でなくても医学でも心理学でもどの様な専門の領域でもいいのだが、それはかなり考究していく際には揺らぎとか大きな振り幅があったっていいのである。
 その極めて社会制度的な職業分担的な規制が強ければ強いほどその学問や専門分野にとっても、その事に関わる個人にとっても、その規制を外部から観察出来る一般の人達にとっても不幸な事ではないだろうか?
 その仕切りの様なものをどういう立場の人達であれ感じ取っているのなら、その事自体も問題とするべきではないだろうか?
 そして今回の結論としては、その様に対人関係的には家族から他人の友人や知人と接する際にも、その都度の他者としての相手へのこちら側の認識に応じて、その接し方の違いに於いて我々は人間関係の形式とか価値に自己自身を賛同させ、相手とその対自的賛同の地点に導く様にしている、という意味ではTwitterの対人関係が自己固有のタイムラインを保有してそれを常に眺めているにも関わらずフォロワー同士でレスし合う場合には、明らかに向こうも又自分と「同じ様なタイムラインを眺めながら」レスしているのだ、という幻想にツイートする行為自体が乗っかっている事がそれを象徴している。しかし向こうはまるで自分とは違う(多少重なった共有し合うフォロワーやフォロウしているユーザー<ツイーター>は居るにせよ)タイムラインの内容でこちらに接しているという事を忘れるべきではない様な意味で、向こうは向こうでこちらが向こうと共有していると思っている価値観念や形式とは違った価値観念と形式で接して居るという事なのである。
 そしてだからこそ、相互に素の自分というもの自体も対自的にも対他的にも幻想なのである。何故なら私は一人で居る時も誰かと一緒に居る時はどういう風に相手から見られているか、周囲から感じ取られているかという事の不安や疑問の中でしか一人で居る自分というものを意識する事は出来ないからである。つまりそういった他者一般、或いはその時々で特定の他者と接するという社会的行為の人生上での散発的ではあるもののかなり人生の大半の時期を持続しているそういった接しの在り方への自己自身からの認識からしか、一人で過ごす時間の意味を特化出来ないからである。

No comments:

Post a Comment