Thursday, April 8, 2010

<感情と意味>第二章の結論

 要するに<私>やビンゾがある意味では進化論動物行動学者である長谷川真理子氏の指摘されているように生き物は皆一生懸命に生きているということこそが、<私>を無化せざるを得ない。もともとそんなものがないからこそ、あるかの如く思えるというところに永井氏の本意があるのではないかということが第二章の主旨でもあるのだ。
 ゾンビであるということを哲学的に述べるということは、哲学的願望を私たちが抱いてしまうということを覚醒したかったからではないだろうか?哲学的願望とは何かについては次章以後述べていく。
 何故私たちはただのゾンビであってはいけないのか?
 例えば生命学者の多くは昆虫には恐らく感情などないとしているのだが、我々はただ単なる昆虫や非高等知性生命ではないという意識がゾンビという概念を生んだのではないかと私は思うのだ。すると永井氏が概念設定したビンゾということにはそういう本意もあったのではないだろうか?
 何故なら私たちの行動や日常の思念は、殆どが社会生活上での、自己内での目的、意味に満たされていて、思考でも生理作用でも心理的内的=外的世界でもない意識やクオリアといったことは殆ど幻想に近いのではないだろうか?
そもそも心理的を現象的と峻別するところに無理があるのである。
 永井氏はブトムとして現象的世界を捉えているが、それは氏がアブトムと呼ぶようなものによって逆に捻出されてきた概念であるように私には思えるのである。ビンゾと言うことを言うと、どこかゾンビが何か極めて非人間的である気がするのだが、そもそも心理的であるということはよく「考えること」はするのであるし、思考もする、理路整然に他者に何かを説明もし得るのだ。するとゾンビという概念自体、恐らく私的言語があり得ると言う想定の下でなされた概念設定なのである。
 要するに人間は親しくなることによって対他的(親しい人同士以外の人に対して)に共謀関係になるということである。例えば相互に似た欠点や弱点を持っていることを親しい間柄の人間同士でいる場合には、敢えて触れずにいるということが即ち対他的には共謀関係を構築しているということを意味し、親しくなっているということなのである。
 何故なら私と来場者であるあなたが仮に親しい関係にあるとして、ではその<私とあなた>の外部の人からすれば、それは相互に欠点や弱点を触れずにいるという馴れ合いに映る。つまり意味とは私にとっての意味であり、あなたにとっての意味であり、あるいは私とあなた二人にとっての意味なのだ。意味が私たちの身体や存在をも規定する。
 親しくなるということ、あるいは自分の使っている道具に親しみを持つということ、あるいは自分の住む町に親しみを持つということ、全て私たちにとってその存在に意味があるということと私は捉えたいのだ。
 だからホームの向こうに見える他人たちは、「私にとっての世界」における私の関心における構成要素だが、彼らが私の視線に気づかなければ彼らにとって私は存在し得ないから意味がない、無意味であると捉えたいのである。何故かと言うと私たちは存在し得るもの(私たちが存在すると認めるもの)には必ず意味を付与するし、そういうものしか意味を付与し得ないからである。そこに私は親しい間柄というものが、対他的に責任転嫁し得る関係と捉えると、責任転嫁するのに都合のよいものを偶像であると捉えるのだ。偶像は失墜すれば挿げ替えればよい。そういうのが責任転嫁だと考えるのである。つまり共同体は私とあなたの間の親しみと合意が拡張されたものであると考えるのである。この考え方は明らかに中島義道的ではなく、吉本隆明的である。要するに二人にとっての偶像とは他者一般、他者全般であり、共同体にとっての偶像とは権力者であり、CEОであり何らかの形での責任統括者のことである。意味とは従って私にとっての意味であるなら、私にとって親しみが持てて、しかもそれが私にとって(私の生存にとって)重要である場合のみなのだ。私にとって親しみが持てても、それが重要ではないばかりか、弊害になるのならそれは意味ではない。
 対他的には責任は他者に示されるから心理的である。そしてその時意味あるということは意識されていて、説明されなければならない。(そうでなければ言語行為は成立し得ない)そういう風に自分に対して、あるいは親しい間柄で反省的に説明し得るもののみを意味と私は捉えたいのである。つまり責任・自由・意味・偶像という関係で全てを捉えてみたいのである。
 そして責任転嫁こそが他者存在全般を偶像化し得ると私は捉えるのである。何故なら私一人で出来ることなどたかが知れているからである。だから意味はその常に間にあると捉えるのである。責任を取れるということと、責任を取れないということの間、自分と他者の間、<私とあなた>とそれ以外の人たちとの間、という風に。
 因みに私は<親しくなる>としたが、<馴染む>でもいいし、<慣れる>でいい。つまりそれらの間には殆ど哲学的には違いはないと言ってよい。
 
 意味は関係が作る。関係がなければ意味は生じない。
 つまり意味とは常に二つのものやこととの間にある(或いは二つのものやことの間の往来や往復にある)からこそ、立場によって意味が異なってくるということを招くと同時に、だからこそ逆に例えば一つの共同体とか国家とか、要するに集団や意味観念が集合された場合、そう変化しないということになるのではないだろうか?
 要するに人間も昆虫と同じでゾンビとしての自分を対他的責任の名において、たまたま昆虫たちのようではない別のタイプの言語をも併せ持った意味世界の中を生き抜いていくしかないのである。

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